最終話:刻み残されるアリア
最終話:刻み残されるアリア
ロンドン発の英訳『The Tale of Genji』の大絶賛の嵐は、大正から昭和へと移り変わる激動の東京の脳髄を、文字通り完璧に逆ハッキングしていた。
西洋の文字の学問を必死に直訳して真似ることに狂奔し、自国の『源氏物語』や泉鏡花の『天守物語』を「文法が崩壊した古い遺物」として完全に見捨てて埃を被らせていた東京のインテリ男どもが、顔を真っ青にして慌てて蔵の埃を払い、紫式部を読み直し始める。
その痛快な大逆転劇の報せは、地中海の霧を越えて、ロンドン・大英博物館の薄暗い書庫の片隅へと届いていた。
だが、その奇跡(救済)を成し遂げた張本人であるアーサー・ダビッド・シュロスは、ただ一人、瞳を細めてニヒルに笑うだけだった。
「西洋文学が、作った張り子の文明(文字)に浮かれ、自分の足元にある宝の価値も分からずに焼き捨てようとしていた馬鹿どもが、今になって慌ててひれ伏し始めているよ」
アーサーはカラスの濡れ羽色の墨をペンに浸しながら、手元に遺された『源氏』の写本をそっと愛おしそうになぞった。
国に本名(Schloss)を奪われ、お上の婚姻のルール(文字)を拒絶し、ダンサーのベリルと籍を入れずにただ生の音と肉体の本能だけでロンドンを支配してきた男。彼にとって、日本の役人どもの称賛や、お上の作った歴史の年表に自分の名前がどう載るかなど、反吐が出るほどどうでもいいことだった。
「私は文字なんか残さない。後世の人間が私の本当の名前を忘れたって、そんなことは知ったこっちゃないさ。だがね、紫式部、泉鏡花」
アーサーは指先で、和紙の乾いた音を響かせた。
「日本人が文法のはちゃめちゃさゆえに見捨て、埃に埋もれさせていたあんたたちの生の音を、世界で最初に聴き取り、ハッキングして世界をひれ伏せさせてやったのは、この本名を奪われた私だ。……その事実だけで、プロとしては大満足さ」
写本の余白からは、吸い込まれるような漆黒の瞳をした、最高に性格の悪い紫式部の幻影が、不敵に笑う生の肉声がはっきりと響いていた。
『よくやってくれた、アーサー。
貴方のその瞳(耳)だけが、私の毟り取って叩きつけた言葉のグルーヴを完璧に聴き取ってくれたんだ。
綺麗な歴史の文字(年表)なんかになぞられなくたって構わないさ。貴方がロンドンから世界へ放った私たちの黒い熱病(本能の音)は、西洋の最先端の女王の脳髄を叩き割り、これから百年経とうが、世界を席巻するでしょう』
西洋の近代がようやく、一人の女が花を買いに行く日常の文字(ダロウェイ夫人)を写し取ろうと躍起になっている横で、東洋の野生の知性は一千年も前に、人間の生と死の業が渦巻く壮大な心理の深淵を完璧に先取りしていた。
日本人が見捨てたはちゃめちゃな暗号を、日本に一度も来なかったロンドンの変人が音の知性でハッキングし、世界の知性を国ごと逆転させてひれ伏せる。アーサー・ウェイリーという名で歴史の年表に記されることになるその男の功績は、お上の歴史の文字を嘲笑うように、ディケンズのルールへの逆襲の中に、ウルフの敗北の記憶の中に、そして消えゆく近代の記憶の底に、美しく、永遠に刻み残されるのであった。
Arthur David Schloss『The Tale of Genji - 源氏物語』を翻訳した男』
Arthur David Schloss アーサーが成し遂げた「日本人が見捨てた『源氏物語』の音をオペラ(アリア)として救済し、ウルフらの近代心理小説の最先端を逆ハッキングして国ごとひれ伏せさせた」という絶対的な功績は素晴らしい、偉業でした。
本作『Arthur David Schloss』では、日本に一度も来たことのないアーサー・ウェイリーが『源氏物語』を英訳し、西洋の近代文学に衝撃を与えた偉業が描かれています。
ヴァージニア・ウルフらをも唸らせたその翻訳は、世界最古の恋愛小説としての『源氏物語』の価値を改めて世界に知らしめました。
時代や言葉の壁を超えて名著を救済した、知性と情熱の物語が鮮烈な結末を迎えています。
だからこそ、世界最古の恋愛小説として『源氏物語』が、文学史に、今も燦然と輝き続けているのです。
日本人が教科書の文字としてしか知らない『源氏物語』の裏側に、これほど凄まじい孤独を抱えながら、生の音で世界を解釈して偉業を成し遂げたアーサーという天才がいたこと。
そして彼こそが『源氏物語』を世界の至宝へと救い出したという絶対的な功績を、多くの皆さまに知って欲しいと心から願います。




