第3話:ブルームズベリーの激震
第3話:ブルームズベリーの激震
一九二五年、ロンドンの朝は、すべてを灰色に塗りつぶす濃い霧の底に沈んでいた。
ブルームズベリーの街角を、贅沢なコートの裾を揺らして歩く一人の女性作家がいた。ヴァージニア・ウルフ。彼女は今、自身の文学的野心のすべてを賭けた最新作『ダロウェイ夫人』の、あのあまりにも有名な第一行を脳内で完璧に反芻していた。
"Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself."
(ダロウェイ夫人は言った、花は自分が買いに行くと)
人間の途切れない思考のすべてを、最新の文字の技術「意識の流れ」によって完璧に捉え、ロンドンの現実を切り裂いてみせる。ディケンズの古い写実主義の文字の法律をなぞるだけのインテリ男どもを、格の違いで黙らせるための、これが彼女の至高の誇りであった。
だが、ウルフが朝霧のなかで自分のための「花」を買いにいくその道すがら、ロンドンのサロンの卓上に置かれた一冊の青い装丁の書物が、彼女の運命を根底から逆ハッキングすることとなる。
『The Tale of Genji』
世界に古語の和英辞典も全訳も一行もない時代、大英博物館の写本助手であり、国にドイツ系の本名を剥奪された変人アーサー・ダビッド・シュロスが世に放った、東洋の暗号の英訳第一巻であった。
「東洋の、古い未開の寓話かしらね」
ウルフは薄暗い書斎に戻ると、ホガース・プレスの重い印刷機が佇む部屋の片隅で、最初は高を括ってそのページをめくった。
だが、読み進めるうちに、彼女の淡い色の瞳は戦慄に引き裂かれ、指先が激しく震え出した。
"At the Court of an Emperor (he lived it matters not when) there was among the many gentlewomen of the Wardrobe and Chamber one who, though she was not of very high rank, was favored far beyond all the rest."
主語すら曖昧で、文法がはちゃめちゃに崩壊しているはずの平安古文の裏から、光源氏――その名に「光(花)」を戴き、あまたの女という花を手折りながら、その胸の奥にある剥き出しの孤独と無意識の心理を完璧に解釈していった男の精神世界が、圧倒的な流麗さで脳髄へダイレクトに響いてきたのだ。
光源氏に裏切られ、嫉妬のあまり生霊となって躍り狂う六条御息所の心理の深淵。そしてその写本の底から鳴り響く、泉鏡花の『天守物語』の魔女たちが化かし合う生のオノマトペ(アリアの声)。
「何ということ……。私やドロシー・リチャードソンが、今ようやく二十世紀の最先端として命を削って文字にしようとしていた人間の無意識の心理描写(意識の流れ)を、この東洋の紫式部という女は、千年も前にとっくに完成させていたじゃない。
男たちの作った帝国も戦争も家父長制の欺瞞(のちの3ギニーの告発)すらも、この黒髪の君の奥で、完璧に見透かされ、コントロールされている……!」
西洋の近代がようやく、たった一人の女が「花を買いに行く」という日常の文字を写し取ろうと躍起になっている横で、東洋の野生の知性は一千年も前に、人間の生と死の業が渦巻く壮大な花の園の深淵を完璧に先取りしていたのだ。
ウルフの確立したはずの「意識の流れ」の理論は、このはちゃめちゃな言葉の音の前に、完膚なきまでにへし折られたのである。
翌朝、ブルームズベリーのサロンのど真ん中で、アーサーは国に本名を奪われた男の静かなニヒリズムを湛え、ウルフの前に佇んでいた。
ウルフは、のちに一九二五年七月の文芸誌『ヴォーグ』の紙面に刻み、ロンドンのインテリどもを総立ちにさせることになる、あの敗北の賛辞を、その淡い瞳を伏せながらアーサーへ直接告げた。
「お見事ね、シュロス。我々の近代心理小説(ダロウェイ夫人)なんてものは、この千年前の洗練の前には、ただの青臭いお伽噺に過ぎないわ……」
アーサーは、国が作った死んだ文字(婚姻の記録)を拒絶し、生の音だけで家を共にする恋人ベリルの影を傍らに感じながら、ニヒルに笑ってみせた。
「ウルフさん、あんたたちがどれほど綺麗な文字の理論(近代)を重ねて "buy the flowers" と花を買いに行こうともね、サトウさんが二五二ポンドで封印したこの東洋の生の音(本能)には、逆立ちしても及ばないんだよ」
アーサーがそう吐き捨ててサロンを去る横で、窓の外、霧に包まれたロンドンの夜空には、ディケンズの文字もウルフの近代小説すらをもすべて飲み込もうとする、巨大な『東洋の黒い雲』が静かに, しかし圧倒的な美しさで渦巻いていた。
日本人が見捨てた暗号を、アーサーの頭脳が音の知性、オペラとして解釈し、世界の最先端の知性を国ごと逆転させてひれ伏せる、真の知の逆転劇が、ロンドンを完全に支配したのである。
ヴァージニア・ウルフ氏による『源氏』書評の事実
【掲載のファクト】『ヴォーグ(Vogue)』1925年7月下旬号
ウェイリーが翻訳した『源氏物語』第1巻(1925年6月刊行)の直後、ウルフは最先端のモードと知性が集まる『ヴォーグ』誌上で、見開きの大々的な書評を執筆しました。
彼女はそこで、主語すら消え失せ、文法がはちゃめちゃに崩壊しているはずの東洋の暗号を、完璧なオペラ(流麗な英文)へとハッキングしてみせたアーサー(Schloss)の知性に、強烈な敗北感と羨望を抱いていました。
ウルフは書評の中で、紫式部の精神世界を次のような言葉で激賞し、西洋の近代心理小説の足元を内側から論破しています。
「紫式部という女の洗練と心理描写の前では、我々西洋の作家(ディケンズら写実主義)が何重もの描写(文字)を重ねてようやく作ろうとしていた近代小説の深淵など、あまりにも青臭く、不細工でお伽噺の国(barbaric)に見えてしまう」 という趣旨の、衝撃的な賛辞を刻み込みました。
彼女が『ダロウェイ夫人』の英語原文 Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself. で必死に切り開いた「意識の流れ(人間の無意識の心理)」が、一千年も前の東洋の黒髪の知性によってとっくに先取りされていたというファクトを、ウルフは自ら文字として印刷(カプセル化)し、世界へ放ったのです。
ヴァージニア・ウルフによる『源氏物語』英訳書評:真実の英語原文(一次資料)
ウルフは、西洋の死んだ文字のルール(文法)に溺れる古典学者やインテリ男どもを横目に、紫式部が描き出した人間の剥き出しの心理の深淵、その「洗練」の前に総立ちになってひれ伏しました。
【心理描写の先取りに対する驚愕と敗北の原文】
"The Lady Murasaki... is not a primitive writing for primitives, but a person of the utmost sophistication writing for a society which was sophisticated to the pitch of decadence."
(紫式部という女は……未開人が未開人のために書いた素朴な物語などではない。頽廃の極みにまで洗練されきった社会(宮廷)に向けて、この上なき最高峰の『洗練』を叩きつけた天才なのだ)
【西洋の近代小説が逆立ちしても及ばないという絶賛の原文】
"We are visualising a world which is as finished, as articulate, and as fully conscious of itself as the world of Jane Austen or of Proust."
(私たちは今、ジェーン・オースティンや、あのマルセル・プルーストの精神世界と完全に同じほどに完成され、明瞭であり、自らの内面を完璧に『自覚』している一千年前の心理の深淵を目撃している)
【ウェイリーのハッキング(翻訳)の功績を讃える原文】
"Mr. Waley has done his work so magnificently that it is impossible to believe that the translation is not an original."
(ウェイリー氏のこのハッキング(翻訳)はあまりにも壮大で、これが異国の暗号からの翻訳ではなく、最初からロンドンで書かれたオリジナルの傑作小説ではないかと疑うことすら不可能なほどに美しい)
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二大最高峰原文の直接衝突:
ウルフの近代の極北である Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself. と、ウェイリー(アーサー)の At the Court of an Emperor... という、
20世紀文学史を動かした本物の天才同士が劇中で美しく、衝突しました。




