↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Arthur David Schloss(アーサー・ダビッド・シュロス)『The Tale of Genji - 源氏物語』を英訳した男  作者: 東曌


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/6

第2話:魔界のト書き、天守閣の化かし合い

第2話:魔界のト書き、天守閣の化かし合い

 

 大英博物館の東洋写本部、その最奥にある薄暗い書庫の空気は、百年前の日本から持ち込まれた古い和紙の匂いと、ロンドンの冬の冷たい湿気でどろりと濁っていた。


 若きアーサー・ダビッド・シュロスは、公式にはアーサー・ウェイリーという剥奪された偽りの名で呼ばれるその男は、アーネスト・サトウが二五二ポンドの移送実費のみでロンドンの金庫へ封印していった桐箱の底から、もう一束の恐るべき暗号を掘り起こしていた。


 それは、明治の異才・泉鏡花が書き残した戯曲『天守物語』の写本であった。


「諦めなよ、シュロス。源氏物語の会話劇ならともかく、このキョウカという男の『ト書き(情景指示)』は絶望的だ。主語がどこにもない上に、ただの舞台の指示じゃないか。客観的な事実の描写を旨とするディケンズの『大いなる遺産』のような小説に翻訳できるわけがない」


 大英博物館の古典学者どもが、主語を完全に融解させ、「さらさら」「どろり」「ひたひた」というオノマトペの生の音だけで空間を支配する鏡花の文字の羅列を見て、再びクスクスと鼻で笑う。

直属の上司であるローレンス・ビニョンすらも、その難攻不落の暗号の前で、ただ淡い瞳を曇らせて立ち尽くすばかりだった。


 西洋の論理的な英文法という文字の法律は、この主語なき魔界の気配の前に、完全に無力化されていたのだ。


 だが、その夜、ロンドンの片隅にあるアーサーの薄暗い私邸の書斎で、その文字の壁は完璧にハッキングされることとなる。


 部屋の真ん中では、アーサーの生涯のパートナーである高慢なダンサー、ベリル・デ・ズーテが、お上の婚姻届という公式な交際記録の文字をあざ笑うように、ロンドン社交界の重苦しいドレスを脱ぎ捨て、裸足で激しく躍り狂っていた。


 西洋の法律は、籍を入れずに長年家を共にするふたりの関係を、公的なエビデンスがないものとして認めない。


だが、ふたりはロンドンの紳士淑女の仮面を被りながら、お上の作った死んだ文字の裏をかいて生きる、世界一格好のいい化かし合いの共犯者だったのだ。


 ベリルは、あのイサドラ・ダンカン直系のむき出しの肉体の跳躍で、空間を切り裂くようなモダンダンスをアーサーの目の前に突きつけた。その裸足のステップが床を叩く拍動のリズムを、アーサーはその淡い色の瞳に映しながら、じっと聴き取っていた。


「アーサー、何を文字のルール(主語)なんかに囚われているの? 鏡花のト書きはね、客観的な事実の説明なんかじゃない。白鷺城の富姫と、猪苗代城の亀姫が、美しい言葉の裏でお互いの化けの皮を剥ぎ取ろうと生の気配をぶつけ合っている、あの化かし合いの肉体のスコア(振付)そのものよ!」


 ベリルの言葉が、そしてその肉体のグルーヴが、アーサーの脳髄に鋭い稲妻を走らせた。


 すべてが一本の実線で繋がった。アーサーは鏡花のト書きを、現実を説明する死んだ文章として訳すのを完全に捨て去った。


「そうか、主語なんかなくていいんだ。国や教会が作った婚姻の文字がなくたって、私とベリルが完璧に響き合っているのと同じさ」


 アーサーはカラスの濡れ羽色の墨をペンに浸すと、世界に古語の和英辞典すら存在しない絶望の壁の向こうから、紫式部の漆黒の瞳の毒、そして泉鏡花の魔女たちの化かし合いのト書きを、世界で最も美しい流麗な英文へと同時にハッキングし始めた。


『――ト書きが英訳できないだって? へっ、紙の上の死んだ文法(ルール)ばかり後生大事に抱え込んで、ディケンズの『大いなる遺産』を綺麗な法律で写し取ったと得意顔になっているロンドンの頭の硬いインテリ男どもが、よお喋るねぇ』


 写本の裏から、吸い込まれるような漆黒の瞳をした紫式部と、狐火を纏った鏡花の幻影が、完璧に同じ冷徹な毒のグルーヴでニヒルに笑う声が聴こえる。


『主語が誰だか分からないって、あんたたちのその死んだ耳でしか読めないからそう見えるだけさ。

富姫と亀姫が互いを化かし合うこのト書きの深淵はね、文字の記号なんかじゃない。

私とベリルがロンドンの社交界を騙し倒しているあの戦闘服と同じさ。西洋の白い石の文明(エルギン・マーブル)も近代小説の限界も、私のこのはちゃめちゃな言葉のグルーヴだけで、千年も前にとっくに先取りしてコントロールしてやってるんだよ』


 アーサーのペンが、凄まじいスピードで流麗な英文を削り出し始める。


 富姫が亀姫の差し出した猪苗代の貢物の裏にある気配を見透かすそのト書きの一行一行が、ベリルの裸足のステップと同調し、完璧なオペラのアリアとなってロンドンの夜気へ解放されていく。


 エルギン・マーブルがどれほど完璧に神々の形態を固定しようとも、世界に辞書も英訳もないこの東洋の生の音(本能)が立ち上げる、空間の魔界の気配には逆立ちしても及ばない。


 窓の外、霧に包まれたロンドンの夜空には、ディケンズの愛した下町の文字をすべて飲み込もうとする、巨大な『東洋の黒い雲』が静かに、しかし圧倒的な美しさで渦巻いていた。


 国に名前を奪われた男と、婚姻の記録なき魔女のふたりの化かし合いは、日本人が文法のはちゃめちゃさゆえに見捨てた暗号を完璧に解釈し、世界の知性を国ごと逆転させてひれ伏せる、アーサーの日本語への挑戦がはじまる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。