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Arthur David Schloss(アーサー・ダビッド・シュロス)『The Tale of Genji - 源氏物語』を英訳した男  作者: 東曌


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第1話:ロンドンの黄昏

ロンドンの天才たち(大英博物館・書庫編)


アーサー・ダビッド・シュロス(Arthur David Schloss)

実在の背景: 大英博物館・東洋プリント写本部。第一次世界大戦の狂気による同調圧力のなか、ドイツ系の本名を名乗ることを許されず、改姓して「アーサー・ウェイリー」となることを余儀なくされた、国に名前を奪われた男。

生涯で一度も日本に足を踏み入れず、古典古語の和英辞典すら存在しないロンドンで『源氏物語』を世界で初めて完璧に英訳した。


本作における役割: 主人公。 本名を剥奪された深いニヒリズムを胸に秘め、紫式部のはちゃめちゃな文法の文字に溺れる西洋の学者を横目に、それを「女たちが命を削って歌い上げる一篇のオペラ(アリアの声)」として耳から完璧に解釈した、最強の音の翻訳家。

イングランド銀行の二五二ポンドの決済スタンプをなぞり、西洋の白い石の文明(エルギン・マーブル)を東洋の生の音を内側から粉砕していく。



アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)

実在の背景: 幕末から明治初期にかけて日本で活躍した伝説の英国外交官。日本語の「生の音」を完璧にハッキングして裏外交を操った、すべての語学システムの元祖 。


本作における役割: 過去からのキーパーソン。西洋の真似事に狂奔し、足元の国宝を「封建時代の遺物」として焼き捨てようとしていた明治の新政府から、わずか「252ポンド」の移送実費のみで『源氏物語』や『天守物語』の写本を大英博物館の金庫へ一括で封印し、未来のアーサーへとバトンを託した執念の男。



ベリル・デ・ズーテ(Beryl de Zoete)

実在の背景: アーサーの生涯のパートナー。世界中の民族ダンスを研究して旅する、ロンドンで最も尖った高慢な女性ダンサー。


本作における役割: お上の婚姻届という公式な交際記録(文字)をあざ笑い、紳士淑女の仮面を被ってロンドン社交界を騙し倒している「ふたりの化かし合い(共犯関係)」の相棒 。

あのイサドラ・ダンカン直系の、コルセットを脱ぎ捨てた裸足のモダンダンス(肉体の本能)をアーサーの部屋のど真ん中で突きつける魔女。「文字のルール(文法)に溺れちゃダメよ!」という彼女のステップの拍動(リズム)が、アーサーのはちゃめちゃな文法への逆襲を起動させる最大の鍵(ミッシングリンク)となる。



ローレンス・ビニョン(Laurence Binyon)

実在の背景: 大英博物館の東洋美術・写本部の絶対権威であり、高名な詩人。


本作における役割: アーサーの直属の上司。日本画に描かれた紫式部の姿を見つめながら、「この絵の持つ精神世界(源氏)を、我々の文字で解き明かせる男はいないのか」と嘆き、サトウの遺した写本をアーサーへと託す、大英博物館の知性の案内人。




西洋のモダン・インテリジェンス & 日本の才女


ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)

実在背景: 20世紀ロンドンの知性を支配した天才女性作家。心理小説『ダロウェイ夫人』や、男たちの作った権力社会を痛烈に告発した『3ギニー』の著者。


本作における役割: 最先端の「意識の流れ」という文字の技術で人間の深淵を捉えたと自負していたが、アーサーの放った英訳『The Tale of Genji』を読んだ瞬間、1000年前の東洋の『黒髪の知性』によって完璧に先取りされ、コントロールされていたファクトに激しい嫉妬と最大のリスペクトを抱いてひれ伏すことになる、ロンドンの絶対女王。



チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)

実在の背景: 19世紀のヴィクトリア朝ロンドンを支配した、大衆小説(文字の文明)の絶対的な神。


本作における役割: 西洋の死んだ文字のルールの象徴。彼が『大いなる遺産』で築き上げた精緻な文法(ルール)と完璧なリアリズムは、主語を消し去り、文法をはちゃめちゃに崩壊させた東洋の「感情の生の音(暗号)」によって内側から完璧に粉砕されることとなる。



紫式部(むらさきしきぶ)

本作における役割: 最高に知性的で、最高に性格の悪い「生の本音」を語る女 。宮廷のインテリ男どもや清少納言を「浅浅な連中」と切り捨てた『紫式部日記』の冷徹な毒のグルーヴを宿す 。主語を消し去り、文法をはちゃめちゃに崩壊させた「感情の生の音(暗号)」を写本に毟り取って叩きつけることで、1000年後の西洋の知性を完璧にハッキング・先取りしてみせた、本作の真の影の主役。



泉鏡花(いずみ きょうか)

本作における役割: 2話以降のキーパーソン。主語や時制が完全に融解し、不穏な気配とオノマトペ(生の音)だけで空間を支配する戯曲『天守物語』を書き残した異才。彼の描いた富姫と亀姫の化かし合い(ト書き)は、アーサーとベリルの「婚姻の記録なきふたりの化かし合い」と完璧な鏡像を成し、西洋の論理的な英文法を徹底的に騙し倒す最強の火薬となる 。

第1話:ロンドンの黄昏

 

 一九二〇年代初頭、冬のロンドンは、煤煙と重い湿気を含んだ濃い霧に街ごと窒息させられていた。


 大英博物館の広大な回廊の真ん中には、古代ギリシャのパルテノン神殿から物理的に毟り取られて展示されている至高の白大理石群「エルギン・マーブル」が、冷酷なまでの完璧な形態の肉体美を誇って君臨していた 。


西洋の古典言語学者どもは、その白き神々の比率を見上げながら、「これぞ人類の至高の理性であり、美の絶対的な基準(文字)だ」とふんぞり返り、東洋の二束三文の価格買い取られ流れてきた古い紙切れなどを見下していた。


 だが、その博物館の薄暗い東洋プリント・写本部の片隅で、一人の若い男が、机の上に広げられた一冊の和古書を、その淡い色の瞳に映したまま、静かにペンを握っていた 。


 男の名は、アーサー・ウェイリー。

 ……いや、それはお上の都合で作られた、偽りの衣服(名前)に過ぎない。彼の本当の名前は、アーサー・ダビッド・シュロス(Arthur David Schloss) 。

ほんの数年前までの大戦の狂気と同調圧力によって、祖父の代から受け継いできたドイツ系の本名を名乗ることすら許されず、生きるために国に名前を奪われた男の、それが隠されたのであった。


 その本名を奪われた男の前に置かれているのは、光源氏の物語――『源氏物語』。


 西洋の学者どもは、その主語すら消え失せ、文法体系がはちゃめちゃに崩壊した平安の文字の羅列を見て、クスクスと鼻で笑っていた。


「おい、シュロス。いや、ウェイリー。そんな古語の和英辞典も存在しない未開の文字を追ったところで無駄さ。我々には大文豪ディケンズが精緻な文法(ルール)と膨大な描写で築き上げた『大いなる遺産』という小説の完成形がある。文法が崩壊している東洋の古い遺物に、価値など一文字だってありはしない」

 直属の上司であり東洋美術の権威であるローレンス・ビニョンが、「この日本画に描かれた紫式部の精神世界を解き明かせる男はいないのか」と横で嘆く中 、アーサーはその淡い瞳を細め、収蔵簿の裏に押された『イングランド銀行(Bank of England)・252ポンド支払済』の公式決済スタンプを指先でそっとなぞった。


「学者ども、あんたたちの死んだ目には、これがただの安い古本に見えるかい。これはね、かつてアーネスト・サトウが、西洋の真似事に狂って自国の国宝を焼き捨てようとしていた日本の馬鹿どもから、運送費程度の実費(二五二ポンド)だけで毟り取り、イングランド銀行の金庫から金貨を吐き出させてこのロンドンに封印していった、東洋の生の知性の結晶。


 自宅に戻っても、アーサーの解読は難航していた。


文法がはちゃめちゃなのだ。さらにその写本の底には、もう一束の恐るべき和古書――主語も時制も完全に融解し、不穏な気配のト書きだけで空間を支配する、泉鏡花の『天守物語』という魔界の暗号までが眠っていた。それは白鷺城の富姫と猪苗代の亀姫が、美しい言葉の裏で互いの化けの皮を剥ぎ取ろうと生の気配をぶつけ合う、妖艶な化かし合いの記録だった。


 だがその夜、薄暗い私邸の書斎の真ん中で、生涯のパートナーであり高慢なダンサーのベリル・デ・ズーテが、あのイサドラ・ダンカン直系の、コルセットを脱ぎ捨てて裸足で激しく躍り狂うモダンダンスを突きつけてきた 。文字を持たぬ肉体の拍動。


 国や教会が作った婚姻届という公的な記録をあざ笑い、紳士淑女の仮面を被ってロンドン社交界を騙し倒している「ふたりの化かし合い(共犯関係)」が、ベリルの裸足のステップとなって床を叩く 。


「アーサー、紙の上の文字のルール(文法)に溺れちゃダメよ。言葉ってのはね、この肉体の跳躍、五感のリズム(本能)から生まれるのよ!」


 ベリルのステップを耳に聴いた瞬間、アーサーの脳髄に稲妻が走った。


 彼は紫式部のはちゃめちゃな文章を「ルールのある文字」として読むのを完全に捨て去った。


これは文章ではない。女たちが命を削って歌い上げる一篇の『オペラ(アリアの声)』であり、


『紫式部日記』の裏側に隠された、最高に性格の悪い「剥き出しの本音」なのだ。


 アーサーはカラスの濡れ羽色の墨をペンに浸しながら、写本の余白から聴こえてくる、紫式部の冷徹な毒のグルーヴを、その耳で完璧にインテリプリート(解釈)していた。


『――文法がはちゃめちゃだって? へっ、紙の上の死んだ規則(ルール)ばかり後生大事に抱え込んで、得意顔で漢字を書き散らしている清少納言のような浅浅(スッカスカ)な連中や、ロンドンの頭の硬いインテリ男どもが、よお喋るねぇ』

 写本の裏から、カラスの濡れ羽色の黒髪をかき上げ、吸い込まれるような漆黒の瞳をした紫式部が、ニヒルに笑う声が聴こえる。


『主語が誰だか分からないって、あんたたちのその死んだ耳(インテリの脳髄)でしか読めないからそう見えるだけさ。言葉ってのはね、文字の記号なんかじゃない。女が胸の奥に隠した剥き出しの嫉妬、男たちの汚い欲、言葉にすらならない生霊の叫び――その感情の生の音(リズム)を、私はそのままこの紙に毟り取って叩きつけたんだ。


 チャールズ・ディケンズの旦那が、貧しい孤児の少年(ピップ)がロンドンで紳士になる『大いなる遺産』をどれほど綺麗な文字の法律で写し取ろうともね、生まれながらにこの世のすべての愛と富(大いなる遺産)を総取りし、その頂点から人間の剥き出しの孤独と業を見つめ続けた『源氏の君の話』や、あの富姫と亀姫が化かし合う魔界のト書きの深淵には、逆立ちしても及ばないんだよ。


西洋の白い石の文明も近代小説の限界も、私のこのはちゃめちゃな言葉のグルーヴ(音)だけで、千年も前にとっくにハッキング(先取り)して、足元を見透かしてコントロールしてやってるんだよ』


 アーサーの瞳が、カラスの濡れ羽色の墨を吸い込むように鋭く光る。


 彼は、机の上の和紙に滲む墨の跡を完璧に毟り取り、ペンの先端を狂ったように走らせた。



《いずれの御時にか、女御、更衣あまた侍ひ給ひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり》



"At the Court of an Emperor (he lived it matters not when) there was among the many gentlewomen of the Wardrobe and Chamber one who, though she was not of very high rank, was favored far beyond all the rest."



 文字の直訳ではない。

 チャールズ・ディケンズのように「いつ、どこで」という死んだ文字のルールで縛るのを、アーサーは最初の (he lived it matters not when) — いつ生きていたかなど、どうでもいいことだ という不敵な一言で完璧に、あざ笑いしてみせたのだ。



 主語のはちゃめちゃさを、言葉の壁を超えた「一篇の普遍的な悲劇のメロディ(オペラ)」へと完全に昇華させる知性。



《はじめより我はと思ひ上がり給へる御方々は、めざましきものにおとしめ嫉み給ふ》



"The great ladies who had long regarded the place as their own by right were deeply offended, and from the first they showed her nothing but malice and ill-will..."



 エルギン・マーブルがどれほど完璧に神々の形態を固定しようとも、世界に辞書も英訳もないこの『源氏の君』の奥でのたうち回る、生の心理の深淵には逆立ちしても及ばない。


 ロンドンに名前を奪われた男が、日本人が文法のはちゃめちゃさゆえに見捨てた暗号を、音の知性と、世界の知性を国ごと逆転させてひれ伏せる。

アーサーの真の知の夜明けが今、はじまった。

アーサーが日本文学の沼に落ちた3つの理由


【きっかけ】上司ビニョンから手渡された「絵画(ビジュアル)」


1913年、大英博物館の東洋写本部に入局したアーサーは、直属の上司であるローレンス・ビニョン(東洋美術の権威)から、博物館が所蔵する大量の中国・日本の古画の「目録(カタログ)作成」を命じられました。


その絵画の余白にカラスの濡れ羽色の墨で書かれた、はちゃめちゃな文法の崩壊した古い文字(和歌や題画詩)を見た瞬間、アーサーの淡い色の瞳は射抜かれました 。

西洋のエルギン・マーブルが「目に見える完璧な固定された形態」を誇るのに対し、日本の絵画と文字には「目に見えない人間の情念や、自然の不穏な気配の音(アリア)」がどろどろに融解して宿っている。


彼は「文字のルール」で世界を縛る西洋のディケンズ流の文学に飽き飽きしていたからこそ、この東洋の暗号の構造を解き明かしたいという狂気的な好奇心に突き動かされたのです。



【独学の狂気】「古語の辞書がない」からこそ燃え上がった天才の知性


当時、ロンドンには現代語の薄い和英辞典(ヘボン式など)しかなく、平安古文や鎌倉の候文を解読するための古語辞典など一冊もありませんでした 。

普通の人間なら絶望して諦めるところですが、国に名前を奪われてお上のルールを憎んでいたアーサーは、逆に脳髄を激しく焦がしました。「誰も文法を説明できねえのなら、このはちゃめちゃな暗号(文字)の裏にある『生の感情の音』を、世界で最初に私の耳(知性)だけでハッキングしてやるさ」

彼は大英博物館の書庫に引きこもり、サトウが二五二ポンドで封印した写本を貪り読むことで、自力で独自の「音の翻訳システム」を開発していったのです。



【恋人ベリルの影響】ダンス(肉体のリズム)と言葉の完全なシンクロ


さらに彼の背中を押したのが、生涯のパートナーであり、婚姻届をあざ笑って家を共にした魔女、ベリル・デ・ズーテでした。

彼女が世界中を旅して持ち帰る「文字(文法)を持たぬ民族たちの生のダンス(ステップ)」。

主語がなく文法が崩壊した日本の古文(紫式部の原文や泉鏡花のト書き)は、ベリルが刻む裸足のモダンダンス(イサドラ・ダンカン直系)の「肉体のスコア(振付)」と完全に同じグルーヴ(本能)であることに気づいたからこそ彼は日本文学の深淵へ迷わずダイレクトに飛び込んでいけたのです。

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