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Arthur David Schloss(アーサー・ダビッド・シュロス)『The Tale of Genji - 源氏物語』を英訳した男  作者: 東曌


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『Arthur David Schloss』前日譚:大英博物館の写本室

 一九一三年、冬。


ロンドンを包む霧は、石炭の煤煙と地中海から這い上がる湿気を吸ってどろりと濁り、大英博物館の巨大な回廊すらもその輪郭を曖昧に濡らしていた。


 東洋プリント・写本部の助手として入局して間もない二十二歳のアーサー・ダビッド・シュロスは、冷え切った地下の執務室で、無味乾燥な役所の文字の羅列に埋もれていた。


 ヨーロッパの頭上には、第一次世界大戦の巨大な暗雲がすでに音を立てて渦巻いている。ロンドンの街角には、ドイツ系の姓を持つ住民への不穏な猜疑の視線が満ち始めていた。祖父の代から受け継いできた「Schloss(シュロス)」という誇りある文字が、お上の都合と時代の狂気によって、いつ剥奪され、歴史の闇に沈められるか分からない。

そんな窒息寸前の孤独のなかで、彼は毎日、館内に君臨するパルテノン神殿の白大理石群「エルギン・マーブル」の完璧な肉体美を、その淡い色の瞳で見上げていた。


「西洋の美は、目に見える確かな形態を文字の法律(文法)で固定してふんぞり返るばかりだ。大文豪ディケンズがどれほど精緻な描写を重ねて『大いなる遺産』を書き上げようとも、そこには人間の無意識の奈落――言葉を失った魂の生霊の叫びなど、一文字も載ってはいないじゃないか」


 紙の上の死んだ規則(ルール)に支配された近代ロンドンのすべてに対し、若きアーサーの胸中には、冷徹なニヒリズムの霧が深く立ち込めていた。


 その静寂の境界線を破ったのは、直属の上司であり、高名な詩人、そして東洋美術の絶対権威であるローレンス・ビニョンであった。


「シュロス、少し手を止めてくれ。お前にしか頼めない厄介な仕事がある」

 薄暗いビニョンの執務室の机の上には、かつて外交官アーネスト・サトウらが幕末の動乱期に日本の古本屋の奥から毟り取るようにして買い集め、ロンドンの金庫へと運び込まれた大量の古画や写本――のちに「サトウ・コレクション」と呼ばれる東洋の遺産が、うず高く積み上げられていた。


「この東洋の絵画の目録(カタログ)を作ってほしいのだ」

 ビニョンは、日本画に描かれた最高に性格の悪い紫式部の幻影のような、漆黒の瞳の女の姿を見つめながら深く嘆息した。


「だが、我々西洋の学者には、絵の価値は分かっても、その余白にカラスの濡れ羽色の墨で書かれた、はちゃめちゃな東洋の文字が一行も読めんのだ。主語もなければ時制のルールも崩壊している。

ヘボン博士の薄い和英辞典をいくらめくったところで、この平安の古語など一文字だって載ってはいない。文字の法律が通用しない、ただの死んだ暗号にしか見えんのだよ」


 ビニョンから手渡された和紙の質感は、乾いていながらも、どこか人間の肌のような妖艶な湿り気を帯びていた。そこに滲む、カラスの濡れ羽色の墨の線のうねり。


それは『源氏物語』の「いとやむごとなき際にはあらぬが……」という、主語を完全に融解させた千年前の生の原文の跡だった。


 深夜。大英博物館の誰もいない写本室の片隅で、アーサーはただ一人、緑色のランプの光の下でその和古書と対峙していた。


古典古語の辞書など、この世界のどこを探しても影も形もない絶望の壁。


 だが、彼が西洋の論理的な英文法を完全に捨て去り、和紙に顔を近づけて、その墨の線のうねりを「文章」ではなく、空間そのものを震わせる「生の音(アリア)」として脳内で再生させた瞬間――彼の脳髄は、激しい稲妻によって完璧に支配された。


 そこに鳴り響いていたのは、お上品な文字の規則に溺れる西洋の言語学者どもが、何百年かけても文字にできなかった、人間の剥き出しの嫉妬、性(さが)、そして言葉にすらならない生の情念のグルーヴだった。

「――そうか。文法がはちゃめちゃで辞書がないんじゃない。これは文字の記号なんかじゃないんだ。女が胸の奥に隠した剥き出しの心理が、一篇のオペラ(アリアの声)として、今もここで生々しく歌い狂っているんだよ」


 アーサーの瞳が、東洋の深い夜の闇を吸い込むように、一段と鋭く、そして美しく光った。彼は笑い、カラスの濡れ羽色の墨をペンに浸すと、まっさらな目録の紙へ最初の一行を叩きつけた。


「辞書(ルール)がないなら最高だ。大英博物館の学者どもがどれほどエルギン・マーブルの白い石の文明を崇めようとも、このはちゃめちゃな言葉の底にある人間の剥き出しのパッションには、逆立ちしても及ばない。誰も翻訳できねえのなら、私のこの耳で、世界で最初にこの暗号を世界一の小説として逆ハッキングしてやるさ」


 国に名前(Schloss)を奪われた男が、日本人が文法のはちゃめちゃさゆえに見捨て、埃に埋もれさせていた東洋の生の音を毟り取り、世界のすべてをひれ伏せさせるための――これが、一生涯を賭けた美しき戦争の、最初の引き金(起動装置)であった。


 霧に包まれたロンドンの夜空には、西洋の退屈な近代小説の文字をすべて飲み込もうとする、巨大な『東洋の黒い雲』の、その確かな最初のうねりが静かに、しかし圧倒的な威容で広がり始めていた。

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