第3幕:江戸の髪結い床
「――おい、絢葉さん。手元が止まっているぞ。」
不意にかけられたしゃがれ声にハッとして顔を上げると、そこは格子戸から柔らかな木漏れ日が差し込む、江戸の髪結い床だった。目の前には、見事な漆黒の髪を長く垂らした武家の娘が、鏡の前にピタッと静かに座っている。
「さあ、お前の腕を見せておくれ。日本一の髪結いになるんだろう?」
声の主を探して振り返るが、そこには誰もいない。《意識体!?》ただ、その声の温もりは、間違いなく五右衛門さんのものだった。《なぁ~~んだ・・・》彼が絢葉の心に灯した「日本髪への情熱」という言霊が、彼女の魂を、その技術が最も華開いた黄金の時代――江戸へと引きずり込んだのだ。
「絢葉さん、今日もお大尽の奥方たちが、噂している最新のやつを頼んだよ。」
私の細胞がビビビッと、勝手に記憶を取り戻したかのように動き出す。そうだ!!今の私は、この江戸の町でその名を知らぬ者はいない、伝説の女髪結い『絢葉』なのだ。《なのだぁ~~》現代の美容学校で、ワインディングの巻き方やカラーの配合に躍乱していた。けれど、この江戸の時代には、ヘアスプレーも、電気アイロンも、便利なケミカルの薬剤なんて何一つない。《弘法筆を選ばず》あるのは、数本の櫛と、元結と呼ばれる紐、そして粘り気のあるツバキ油だけ。それなのに、私の指先はシュルシュルっと魔法のように滑らかに娘の黒髪をすくい上げていく。髪の毛一本一本の流れを見極め、油を馴染ませ、絶妙な力加減で引き出していく。両横の髪――「鬢」を、まるで透き通る蝉の羽か、優美な鳥の翼のように、ふわりと横へと大きく、美しく張らせていく。
(これが……今、江戸中で大流行している『燈籠鬢』……!)
行灯の光が透けるほどに薄く、芸術的に広げられたそのシルエットは、現代のトップスタイリストでも真似できないほどの、緻密で圧倒的な職人技だった。《よッ!さすが・・・》流行を発信し、江戸中の女性たちの憧れをその手で創り出す。 スプレーがないからこそ、技術だけで髪を固定する。 道具に頼り切っていた現代の私に、絢葉の身体は、美容師としての「本当の凄み」を叩き込んでくるようだった。
「まぁ……! なんて綺麗なこと。絢葉さん、やっぱりお前の腕は日本一だよ。」
完成した燈籠鬢を、合わせ鏡で見た娘が、ポッと頬を染め、弾けるような笑顔を咲かせた。
「とっても、気に入ったわ。ありがとうございます。」
――あ。脳裏で、十三歳の私が見た夢の記憶がパチリと合致した。 時代を超えて、私の手の中で、ひとりの女性の心が今、キラキラと最高の輝きを放っていた。
江戸の風に揉まれ、職人としての「手応え」を掴みかけた絢葉。しかし、その余韻に浸る間もなく、別れの時は突然やってきた。《なななんと・・・!!》夕暮れ時、長屋の片隅で道具の手入れをしていた絢葉に、五右衛門が一本の古びた手鏡をスッと差し出した。それは、鈍い銀色に光る不思議な装飾が施された鏡だった。
「絢葉、おめえの腕前は確かに良くなった。だがな、過去を知っただけじゃ、まだ半人前だ。」
「半人前……? 五右衛門さん、これは?」
「その鏡を覗き込んでみな。」
言われるがまま、絢葉が手鏡に写る自分の瞳をじっと映したその瞬間だった。
ジジ……、ジジジッ。
鏡の奥で、ギュイーーーン!あり得ないはずの電子音が鳴り響いた。驚いて手を離そうとしたが、指先が鏡の枠に吸い付いて離れない。鏡面が液体のように波打ち、青白い稲妻のような光が絢葉の視界をジャックしていく。
「あ、足元が……!」
「いいか絢葉! 道具に使われるんじゃねえ、道具を変幻自在に操る! 未来の美容師ってやつを、その目で見てきな!」
重力が歪み、絢葉の身体は光の渦へと飲み込まれていった。




