EP 8
冷戦のプレゼン(未来の防波堤と、ハーバードの敗北)
帝都・東京。GHQ本部、第一生命館の会議室。
「……ミスター・ムタグチ。これが我々民政局が総力を挙げて起草した、新しい日本国憲法の最終草案だ」
GHQ民政局次長、チャールズ・ケーディス大佐は、自信に満ちた笑みを浮かべて分厚い書類を長机に置いた。
「貴国の議会や学者が書いた、明治憲法の焼き直しのような時代遅れの代物ではない。主権在民、基本的人権の尊重、そして何より……第9条における『完全なる戦力の不保持』。……さあ、これを受け入れ、過去の野蛮な軍国主義と決別したまえ」
ケーディスは、勝利を確信していた。
原爆を撃ち落とすほどの軍事力を持つ男でも、国家の最高法規という「絶対のルール」で首輪をはめてしまえば、ただの無力な犬になる。
坂上真一(牟田口)は、出された英語の草案を手に取り、咥えていたプレイヤーズの紫煙を吐き出しながら、パラパラとページをめくった。
そして、ある一文に目を止め、喉の奥で低く嗤った。
「……なるほど。よく書けてるじゃねぇか。特に、俺が指定した通りの『人権条項』と……この、第9条の『修飾語』がな」
「何がおかしい?」
ケーディスが不快そうに眉をひそめる。
「お前の部下の翻訳チームは、随分と優秀らしいぜ」
坂上は草案を机に放り投げ、第9条第2項の冒頭部分を指差した。
「『前項の目的を達するため(In order to accomplish the aim of the preceding paragraph)、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』……。お前、これがどういう法的意味を持つか、ハーバードの頭で理解してるか?」
「……!?」
ケーディスが、自身の起草したはずの英語のテキストを凝視する。
そこには確かに、当初の草案にはなかったはずの、極めて不自然な接続詞(抜け穴)が、流麗な英語の文脈の中に滑り込んでいた。ベアテ・シロタ・ゴードンが、徹夜の翻訳作業の中で「この方が文章として自然だ」と主張し、巧みに混ぜ込んだ毒である。
「この文脈なら、『侵略戦争の目的を達するための戦力は持たない』が、『自国を防衛するための必要最小限度の実力組織(Self-Defense Force)』を持つことは禁止されていない、という完全な解釈が成り立つ」
「ば、馬鹿なッ!! 誰だ、こんな修正を勝手に入れたのは! 詭弁だ、我々は日本の完全な非武装化を……!」
ケーディスが激昂し、草案を破り捨てようと手を伸ばす。
――ドンッ!!
坂上が、その手を押さえつけるように、分厚いファイル(J5の極秘データ)を机に叩きつけた。
「感情的になるなよ、三流のロイヤー。……俺は、お前らアメリカを助けてやるために、この『抜け穴』を残してやったんだ」
「助けるだと……? 敗戦国の分際で、ふざけるな!」
「なら、この『未来の計算書』を見てから喚け」
坂上が開いたファイルには、ヨーロッパと極東の巨大な地政学マップ、そして、数年後におけるソ連の軍事力増強の予測データが、緻密なグラフと共に記されていた。防衛省J5において、第三次世界大戦のシミュレーションを日夜行ってきた坂上の、圧倒的な情報分析の結晶である。
「ドイツが消え、日本が武装解除した今、ユーラシア大陸の東と西には巨大な『力の空白』ができている。……いいか、ケーディス。ヨシフ・スターリンは、五年以内に必ず極東へ牙を剥く」
坂上は、地図上の朝鮮半島の北緯38度線、そして北海道を赤鉛筆で力強く丸で囲んだ。
「赤軍が南下してきた時、完全に非武装化した日本列島は、ただの無防備な肉の塊だ。……お前らアメリカは、太平洋の防衛線を守るために、この極東の泥沼に何十万人というアメリカの若者を送り込み、ソ連の戦車と血みどろの地上戦をやらせるつもりか?」
「ッ……!!」
ケーディスは、息を呑んだ。
まだ「冷戦」という概念すら世界に浸透していないこの時期に、目の前の巨漢は、数年後の共産主義陣営との世界規模の衝突を、完璧なリアリティをもって予言しているのだ。
「……莫大な軍事予算と、若者の死体袋。それが、お前らが日本から『軍隊』を奪った時に払う、未来の代償だ」
坂上は、紫煙をケーディスの青ざめた顔に吹きかけた。
「だが、この第9条に『自衛隊』という名の抜け穴があればどうなる? ……俺たちが、お前らの代わりに極東の『不沈空母(イージスの盾)』になってやる。ソ連の野郎どもが海を渡ってきても、俺たちの軍隊が、俺たちの血を流して最前線で食い止めてやるんだよ」
会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。
「……日本に自衛の牙を残すことが、アメリカの国益にとって最大のメリットになる。……ハーバード出のエリートなら、どっちの計算書が正しいかくらい分かるよな?」
完全なロジック。
一切の精神論を排した、冷徹な地政学と資本主義による究極のプレゼンテーション。
ケーディスは、震える手で草案を見つめた。
理想(完全な非武装)と、現実(ソ連の脅威とアメリカの犠牲)。
エリート弁護士の明晰な頭脳は、坂上の突きつけた「J5の未来予測」が、反論の余地がないほどに正論であることを認めざるを得なかった。
「……ミスター・ムタグチ」
ケーディスは、深く、重い溜息をつき、草案の「抜け穴」のページをそっと閉じた。
「貴官の……いや、貴国の主張する『自衛の権利』の解釈について、我々民政局は……沈黙をもってこれを容認する。……ただし、文面はこのままだ。これ以上の修正は認めない」
「十分だ。……賢明な判断に感謝するぜ、ロイヤーの坊ちゃん」
坂上は、獰猛な牙を剥き出しにして嗤い、手を差し出した。
ケーディスは苦渋の表情で、しかし、ある種の畏敬の念を込めて、その分厚い巨掌を握り返した。
昭和21年。
大日本帝国の終焉と引き換えに。
軍事力を保持し、自らの手で国を守る権利をアメリカに認めさせた『真の独立国家・日本』が、産声を上げた瞬間であった。




