EP 6
法務官の傲慢(六法全書と鉄パイプ)
1945年(昭和20年)秋。
帝都・東京の日比谷に聳え立つ、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の本部が置かれた第一生命館。
その一室で、GHQ民政局次長、チャールズ・ケーディス大佐は、不快感に眉をひそめていた。
「……本当に、あの男が極東の『理性の化け物』なのか? ただの頭の悪いマフィアのボスにしか見えないが」
ハーバード大学法学部を卒業し、ニューヨークの超一流法律事務所でエリート街道を歩んできたケーディスにとって、目の前の長机に足を乗せ、軍靴の泥を落としている巨漢――内閣特別防衛補佐官・坂上真一(牟田口)の姿は、野蛮の極みであった。
「見た目で判断すると、エノラ・ゲイと同じ海のアモク(屑)を啜ることになるぜ、弁護士の坊ちゃん」
坂上は、机にブーツを乗せたまま、咥えていた『プレイヤーズ』の紫煙をケーディスの顔に向けて吐き出した。
傍らには、赤錆びた鉄パイプがドンッと置かれている。
「野蛮な暴力はそこまでだ、ミスター・ムタグチ」
ケーディスは、軽蔑の眼差しで鉄パイプを一瞥し、分厚い英語の書類の束を坂上の前に叩きつけた。
「我々GHQが起草した『日本国憲法・マッカーサー草案』だ。……貴国が国際社会に復帰するための、絶対にして唯一の条件である」
坂上は、気怠そうにその書類を手に取った。
ケーディスは、内心で冷笑を浮かべていた。どうせこの英語の羅列など、軍隊という閉鎖社会でふんぞり返っていた東洋の暴走族には読めまい。
「……特に『第9条(Article 9)』をよく読むことだ。そこには、大日本帝国の軍隊の完全なる解体と、国権の発動たる戦争の永久放棄が明記されている」
ケーディスは、勝ち誇ったように宣言した。
これこそが、アメリカの用意した「究極の鎖」である。武力で勝てないのなら、国家の最高法規によって、日本から永遠に「牙」を奪い去る。いかに戦術の天才であろうと、法律という首輪をはめられれば、ただの無力な犬に成り下がるのだ。
「……貴国は今後、一切の戦力(War potential)を保持しない。我々アメリカの庇護下で、平和を愛する無害な非武装国家として生まれ変わるのだ。……さあ、サインをしたまえ。これは交渉ではない、命令だ」
勝利を確信したケーディスの言葉が、会議室に響き渡る。
だが。
「……War potential(戦力)、ねぇ」
坂上は、分厚い英語の草案をパラパラと凄まじい速度でめくりながら、喉の奥でクククッと嗤った。
そして、ハーバード卒のエリート弁護士に向かって、流暢で、かつ法学的に極めて正確な法廷英語で反証を始めた。
「笑わせるなよ、ケーディス。お前、これが『国家の憲法』だと思って書いてるのか? こんなお花畑みたいな条文、どこの三流大学のレポートだ?」
「なっ……!? き、貴様、英語が読めるのか!?」
ケーディスが驚愕に目を見開く。
「お前らが用意したこの第9条の文面……『前項の目的を達するため(In order to accomplish the aim of the preceding paragraph)』という修飾語がくっついてるな。……法律家なら、このガバガバな『抜け穴』のヤバさに気づけよ」
防衛省J5。
それは、ただ兵器を調達するだけの部署ではない。
国会という名の魔窟で、重箱の隅をつつくような野党議員や憲法学者たちを相手に、「自衛隊は戦力ではない」という極限の法解釈を日夜戦わせ、白を黒と言いくるめて国防予算をもぎ取ってきた、現代日本の『最強の法務官僚』の巣窟である。
坂上真一は、そのJ5において、誰よりも法律の網の目を潜り抜けてきた「インテリ・ヤクザの頂点」なのだ。
「……侵略戦争のための戦力(War potential)は持たない。だが、『自国を防衛するための必要最小限度の実力組織(Self-Defense Force)』の保持については、この条文では一切否定できていねぇ」
「ば、馬鹿な! 詭弁だ! 我々は一切の軍備を認めないつもりで……!」
ケーディスが顔を真っ赤にして反論しようとする。
「詭弁じゃねぇ、法解釈だ。……それに、お前らがこれから作ろうとしている国連憲章第51条には『個別的および集団的自衛権の固有の権利』が明記されるはずだ。……日本だけが自衛権を持たない完全な非武装国家になれば、国際法上の主権国家として成立しねぇんだよ。そんな国と、どうやって平和条約を結ぶつもりだ?」
「ッ……!!」
ケーディスの全身から、ドッと冷や汗が噴き出した。
目の前の男は、軍人ではない。国際法と憲法解釈の裏の裏まで知り尽くした、自分よりも遥かに格上の『法学の怪物』だ。
「……いいか、ロイヤーの坊ちゃん」
坂上は、机の上の鉄パイプをガツン! と叩き鳴らし、ケーディスを睨み据えた。
「俺たちは『条件付き降伏』のテーブルに着いた対等の国家だ。お前らの押し付ける、この穴だらけの首輪(第9条)を、大人しく首にはめてやる義理はねぇ」
「き、貴様……GHQに逆らう気か! そんな軍隊の保持を正当化するような憲法、マッカーサー元帥が絶対に承認しないぞ!!」
ケーディスが、最後の拠り所である絶対権力者の名前を出して威嚇する。
だが、坂上は新しいタバコに火を点け、紫煙をゆったりと吐き出した。
「マッカーサーが承認しない? ……そうかい。なら、お前らの内部(GHQ)から、俺の都合のいいように『草案を書き換えさせてやる』よ」
「……なんだと?」
「法律ってのはな、書いた奴の『情』が乗るもんだ。……お前らの起草チームの中に、俺に『一生返せねぇほどのデカい借金(恩)』がある奴が紛れ込んでるのを忘れたか?」
坂上の瞳の奥で、数ヶ月前に特高警察から救い出した「ある老夫婦」の顔と、アメリカ政府に送りつけた一枚のジョーカーが、最凶のカードとなって不気味に裏返った。
「……ベアテ・シロタ・ゴードン。彼女の書く『人権条項』と引き換えに、俺たちの『自衛隊』を明記させてやる」
六法全書という戦場で、J5の官僚が放った、完璧な盤外戦術(ロビー活動)の宣言。
エリート弁護士ケーディスのプライドは、坂上の底知れぬインテリジェンスと謀略の前に、音を立てて崩れ始めていた。




