EP 6
影の宰相と、白衣の天使(低コストな敗戦計画)
大本営首脳陣の「一斉辞任」というクーデターから数日後。
帝都・東京の陸軍第一病院、最上階の特別室には、すっかりこの部屋を自らの「新たなシマ(執務室)」として占拠した巨漢の姿があった。
「……痛っ。おい、もう少し優しく拭けねぇのかよ」
「文句を言わないでください、牟田口閣下。三十人を相手に大立ち回りをして、かすり傷一つで済んだんですから、感謝してほしいくらいです」
ベッドに腰掛け、咥えタバコで悪態をつく坂上真一(牟田口)に対し、アルコール綿で彼の手首の切り傷を消毒しているのは、雪川美奈子――弱冠22歳の、うら若き看護師であった。
大英帝国を震え上がらせ、東條英機を失脚させた「理性の化け物」を前にしても、彼女は全く怯む様子がない。それどころか、血まみれで病院に乗り込んできた坂上に対し、「ここは病院です、タバコは窓を開けて吸ってください」と平然と言い放った肝の据わった女である。
「……お前、俺が怖くねぇのか。外じゃ『鉄パイプの死神』とか呼ばれてるんだぜ」
「死神だろうが総長だろうが、私の前ではただの『怪我人』です。はい、消毒終わり。包帯を巻きますから動かないで」
美奈子は、坂上の丸太のような腕にテキパキと真っ白な包帯を巻いていく。
坂上は、その手際の良さを眺めながら、フッと短く笑い、紫煙を窓の外へ吐き出した。
軍部のイエスマンばかりに囲まれるより、こういう専門職として物怖じしない人間の方が、彼にとってはよほど信用できた。
コンコン、と。
控えめなノックと共に、佐藤賢了と久野村参謀長が特別室に入ってきた。
「閣下。……お怪我の具合は」
「かすり傷だ。それより、外の様子はどうなってる」
坂上の問いに、佐藤が興奮を抑えきれない様子で報告書を差し出した。
「帝都は、完全にお祭り騒ぎです! 東條内閣の総辞職と、軍部首脳の入れ替えを『帝都日報』が大々的に報じました。コンビーフと白米の熱狂も冷めやらず、国民はこぞって『インパールの英雄、牟田口将軍を次の総理大臣に!』と声を上げております!」
「……そうか」
「はい! 今や、組閣の大命は閣下に下ったも同然。閣下が総理の座に就けば、この大日本帝国は完全に我々(第15軍)のものです!」
目を輝かせる佐藤と久野村。
だが、坂上はベッドから立ち上がり、窓際の美奈子に「コーヒーを淹れてくれ」と顎でしゃくると、冷ややかな声で言い放った。
「断る。……総理大臣なんぞ、誰か適当な『神輿』のジジイにでもやらせとけ」
「なっ……!? お、お断りになるのですか!? なぜですか! 国民の支持は圧倒的ですよ!」
久野村が目を丸くする。
「馬鹿野郎。政治家(オモテの顔)なんてのはな、国民の不満の『サンドバッグ』になるのが仕事なんだよ。……いいか、これから俺たちがやるのは、華々しい勝利じゃねぇ。アメリカを相手にした、泥沼の『敗戦処理(店じまい)』だ」
美奈子が淹れてくれたコーヒーのマグカップを受け取り、坂上は一口啜った。
「戦争が終われば、今まで我慢してきた国民の怒りは必ず爆発する。その時、矢面に立つのは総理大臣だ。……俺は防衛省J5の官僚だ。表舞台で泥を被る気は毛頭ねぇ。一番美味しい権力だけを吸い上げる『影の宰相』で十分だ」
坂上の徹底的にドライな権力論に、二人の将官は絶句した。
権力の頂点に立てる絶好の機会を、「コストに見合わない」と一蹴する。これこそが、昭和の軍人には絶対に理解できない、現代のエリート官僚の絶対的な合理性であった。
「……では、今後の国家運営はどのように……」
「俺は『内閣特別防衛補佐官』とでも名乗って、実務と軍の指揮権だけを握る。オモテの総理には、国民受けのいい温厚な海軍大将(鈴木貫太郎あたり)でも据えておけ」
坂上は、部屋の壁に掛けられた巨大な『太平洋全図』の前に立った。
そこには、マリアナ諸島を陥落させ、今まさに日本本土へ向けて圧倒的な物量で迫り来る「超大国・アメリカ合衆国」の巨大な矢印が描かれている。
「イギリスの坊ちゃんとは規模が違う。アメリカの工業力と資源は、日本の数十倍だ。……まともに殴り合えば、国ごと消し飛ぶ」
坂上は、鉄パイプの先端で、太平洋上の「不要な防衛線(南洋の島々)」を次々と指し示した。
「無駄な島から、即刻すべての兵力を撤退させろ。玉砕など絶対に許さん。補給の続かない戦線はすべて放棄し、本土と台湾、沖縄周辺だけに戦力を『超・集中』させる」
「し、しかし閣下! それでは絶対国防圏が……!」
「守れない防衛線に意味はねぇんだよ。……俺の目的は、アメリカに勝つことじゃない。奴らに『日本とこれ以上戦争を続けるのは、コストが高すぎて割に合わない』と思わせることだ」
坂上の瞳に、J5で「イージス・アショア」やミサイル防衛網を構築してきた、現代の『防衛のプロフェッショナル』としての冷酷な光が宿る。
「本土を巨大な『イージスの盾』にする。……無数のレーダー陣地と、対空砲火の完全なシステム化。そして、上陸してくる米兵を泥沼に引きずり込む『縦深防御』。……アメリカの世論が『もうこれ以上、若者の死体袋を見たくない』と悲鳴を上げるまで、徹底的に出血を強いてやる」
それは、大和魂でも精神論でもない。
超大国アメリカの弱点である「民主主義(世論の厭戦気分)」をピンポイントで突くための、極めて冷徹で、数学的な『条件付き降伏(低コストな敗北)』へのロードマップであった。
「……さあ、忙しくなるぞ。大英帝国から奪ったコンビーフを食って、徹夜で図面を引く準備をしろ」
坂上は、美奈子に向かって空になったマグカップを差し出した。
彼女はため息をつきながらも、どこか楽しげに、新しいコーヒーを注ぐ。
影の宰相として、大日本帝国を裏から完全に支配した「理性の化け物」。
彼がアメリカ合衆国という未曾有の怪物に突きつける『史上最悪の防衛システム』の構築が、白衣の天使の淹れるコーヒーの香りとともに、静かに幕を開けた。




