EP 5
血まみれの答弁(クーデターの完成)
翌朝。
帝都・市ヶ谷の大本営、最高首脳会議室。
分厚いコンクリートに守られたその部屋には、昨日のような怒号はなく、ただ重苦しく、ひどく焦燥感に満ちた沈黙だけが漂っていた。
「……遅い。昨夜放った特務将校たちから、未だに定時連絡がないとはどういうことだ」
上座に座る東條英機が、神経質に貧乏ゆすりをしながら、丸眼鏡の奥の目を血走らせていた。
国賊・牟田口廉也の暗殺。
世論を味方につけたあの男を合法的に排除できない以上、闇に葬るしかなかった。大和魂に溢れる三十名の精鋭に、軍刀と拳銃を持たせて夜の赤坂へ放ったのだ。いかにあの巨漢が腕に覚えがあろうと、多勢に無勢。今頃は冷たい石畳の上で物言わぬ肉塊となっているはずであった。
「おそらく、死体の処理に手間取っているのでしょう。なにせ、あれだけの巨体ですからな」
側近の参謀が、作り笑いを浮かべておもねる。
「……そうだな。奴の死は『インパールの激務による急病死』として処理する。新聞社には既にそのように圧力を……」
東條が言いかけた、その時。
ドゴォォォォンッ!!!
会議室の重厚なマホガニーの扉が、凄まじい蹴りによって蝶番ごと吹き飛ばされ、会議室の長机の上に叩きつけられた。
「なっ……!?」
「ひぃっ!?」
土煙と、強烈な血の匂い。
吹き飛んだ扉の向こうから、軍靴の重い足音を響かせて現れたのは、急病死したはずの男――坂上真一(牟田口)であった。
「……おはようさん、老害ども。朝から随分と血圧が高そうだな」
その姿を見た瞬間、東條をはじめとする将官たちは、全員が肺の空気を凍りつかせた。
坂上が羽織っている軍用外套は、どす黒い返り血でべっとりと染まり、その顔には、地獄の底から這い上がってきた修羅のような、底知れぬ凄みが張り付いていた。
右肩には、インパールで振り回していたあの無骨な『鉄パイプ』が担がれている。
「き、貴様ッ……! なぜ生きている! 警備兵! 警備兵は何をしているッ!!」
東條が裏返った声で絶叫する。
「無駄だ。外に立ってた憲兵の犬どもは、インパールから連れてきた俺の若い衆が、今頃全員ロープで縛り上げてる頃だ。……俺のシマで、勝手な真似はさせねぇよ」
坂上は、血まみれの軍靴で会議室の絨毯を踏みしめ、東條の目の前まで歩み寄った。
そして、左手に提げていた「軍用外套で包まれた重い束」を、ドンッ! と長机の上に放り投げた。
チャキン、ガラガラッ……!
外套が解け、中からこぼれ落ちたのは、無残にひん曲がり、あるいは根元からへし折られた『軍刀』の山であった。
さらには、撃鉄がひしゃげた南部十四年式拳銃も混ざっている。
「ひっ……! こ、これは……!!」
東條の顔から、完全に血の気が引いた。
「昨日の夜、赤坂の路地裏で拾った『おもちゃ』だ。持ち主に忘れ物を届けに来てやったぜ」
坂上は、懐からタバコを取り出し、火を点けた。
「安心しろ、殺しちゃいねぇ。腕と足を何本か『物理的に使い物にならなくしてやった』だけだ。……俺は慈悲深いからな」
「ば、化け物め……! たった一人で、三十名の精鋭を……刀を素手で……!?」
参謀の一人が、腰を抜かして床にへたり込んだ。
「素手じゃねぇよ。俺にはこいつ(鉄パイプ)があるからな。……お前らの言う大和魂ってのは、鉄パイプ一本でへし折れるほど安い金属で出来てるらしいな」
坂上は、紫煙を東條の顔に吹きかけ、軍服の胸ポケットから数枚の『書類』を取り出して、机の上に叩きつけた。
「さあ、茶番は終わりだ。……お前ら、全員今すぐこれにサインしろ」
東條が震える目でその書類を見た。
そこには『辞任届』と書かれており、陸軍大臣、参謀総長をはじめとする、この場にいる全首脳陣の役職を即座に退く旨が、完璧な官僚のフォーマットで記されていた。
「き、貴様……! 軍の中枢を脅迫し、国を乗っ取る気か! そんな紙切れ一枚で、帝国が……!」
東條が最後の意地で、辞任届を払いのけようとした。
――ヒュンッ!!
ドガァァァァンッ!!!!
東條の鼻先、わずか数ミリの距離。
坂上の振り下ろした鉄パイプが、分厚い会議室の長机を、木っ端微塵に粉砕した。
舞い散る木屑と、顔に当たる凄まじい風圧に、東條は情けない悲鳴を上げて椅子ごとひっくり返った。
「乗っ取るんじゃねぇ。お前らがこれ以上、無駄に赤字(死者)を垂れ流さないように、経営陣を刷新してやるって言ってんだ」
坂上は、真っ二つに割れた机の上にブーツを乗せ、見下ろすように冷酷に言い放った。
「世論は俺の味方だ。お前らの放った暗殺部隊は俺が物理的に制圧した。……カードはもう残ってねぇぞ、東條。大人しくハンコを押すか、それともここで、お前の脳天をこの鉄パイプでカチ割って、物理的に『空席』を作るか。……選べ」
圧倒的な『理詰め(世論と大義名分)』。
そして、それを裏打ちする逃げ場のない『暴力(鉄パイプ)』。
現代の防衛省J5のエリート官僚の頭脳と、元暴走族総長の腕力。その両極端な才能が完璧に融合した男を前に、昭和の軍事独裁者たちは、完全に心をへし折られた。
「……わ、わかった……! 書く、書くから……!」
東條英機は、ガタガタと震える手で万年筆を握り、自らの辞任届に署名した。
それに続くように、他の将官たちも次々と泣きそうな顔で書類にサインを入れていく。
昭和19年、秋。
数百万の若者を死地に追いやった大日本帝国の強硬派中枢は、たった一人の男と、一本の鉄パイプによって、一発の銃弾も消費されることなく、完全に制圧されたのである。
「……賢明な判断だ。退職金くらいは出してやるよ」
すべての辞任届を回収した坂上は、血まみれの軍用外套を翻し、会議室を背にした。
大英帝国のインパールを攻略し、大日本帝国の大本営を制圧した男。
だが、彼の視線はすでに、この腐った島国の内政などではなく、太平洋の向こう側――最終にして最大の敵、『アメリカ合衆国』へと向けられていた。
「さあ、掃除は終わった。……仕上げ(終戦交渉)に入るぞ」




