EP 2
腹ペコ帝都とコンビーフの救世主(世論の鎧)
立川飛行場の正門前は、異様な熱気と喧騒に包まれていた。
今朝配られた『帝都日報』の号外。そこには、大本営の検閲をすり抜けたインパールの真実――牟田口将軍による大英帝国十万の無血降伏と、おびただしい戦利品の写真がデカデカと掲載されていたのだ。
「牟田口閣下だ! インパールの英雄が凱旋されたぞ!!」
「万歳! 大日本帝国万歳!!」
押し寄せた数万の市民たちの顔には、狂喜と、そして隠しきれない『極限の飢え』の色が浮かんでいた。
連日の配給制限。大豆の搾りかすや、サツマイモの蔓をすする毎日。大本営は「精神力で耐えろ」「欲しがりません勝つまでは」と強いるばかりで、彼らの胃袋は限界を迎えていた。
そこへ、飛行場の重厚な鉄門が、ギギギ……と音を立てて開いた。
「……道を開けろ! 俺たちの『親分(英雄)』のお通りだぜ!!」
元・浅草のヤクザである分隊長が、ダコタ輸送機から降ろしたトラックの荷台から身を乗り出し、メガホンで怒鳴り声を上げる。
先頭の無蓋車に乗っているのは、泥だらけの軍用外套を羽織り、肩に赤錆びた『鉄パイプ』を担いだ巨漢――坂上真一(牟田口)であった。
その後ろには、決死隊の五十人が乗ったトラックが十台以上も連なっている。
そして、その荷台に積まれていたものを見た瞬間、数万の群衆の息がピタリと止まった。
「……な、なんだあれは……」
「白米……。嘘だろ、あんな山のような純白の米……何年ぶりに見た……?」
麻袋からこぼれ落ちる、真珠のように輝く精米。
さらに、木箱の中にぎっしりと詰められた、赤と白のパッケージ。大英帝国が誇る最高級の『コンビーフ缶』であった。
「おい、帝都のシマの連中!」
坂上が、トラックの上から重く、よく響く声で群衆に呼びかけた。
大本営の将官たちのような、小難しく勿体ぶったお役所言葉ではない。裏路地で生きてきた人間の、腹の底に直接響く『生きた言葉』だ。
「大本営の馬鹿どもは、お前らに草や木の根を食えと言ったそうだな。……ふざけるな。戦争ってのは、勝って、敵から奪って、美味い飯を食うためにやるもんだ」
坂上は、荷台のコンビーフ缶を一つ手に取り、群衆の最前列にいた、痩せこけた少年に向かって放り投げた。
「受け取れ。イギリスの坊ちゃん共から巻き上げた、本物の『肉』だ」
「あ……肉……ッ!」
少年が、震える手でコンビーフ缶を抱きしめる。その瞬間、群衆の中で、何かが堰を切ったように爆発した。
「ほらよ! 白米もあるぞ! 砂糖も紅茶もある! 今日は俺たちの奢りだ、遠慮なく持っていきな!!」
決死隊の元ヤンキーたちが、ヒャッハーと笑いながら、トラックの上から次々と物資を群衆へとばら撒き始めた。
「うおおおおおッ!!」
「牟田口閣下! 牟田口閣下ぁぁぁッ!!」
それは、パレードという名の『暴動』であった。
精神論を押し付けられ、飢えて死ぬのを待つだけだった帝都の市民たちにとって、実際に目の前に「カロリー」を提示し、敵を物理的に叩き潰した坂上は、もはや将軍という枠を超えた『現人神(救世主)』に等しかった。
号泣しながら白米をポケットに詰め込む母親。コンビーフの缶を拝む老人。彼らは、大本営が押し付けてきた「美しい自己犠牲」の欺瞞を完全に投げ捨て、坂上の提示した「圧倒的な暴力と飽食」に熱狂したのだ。
「か、閣下! お止めください! 戦利品の勝手な分配は軍法会議ものであります!!」
慌てて追いかけてきた憲兵隊の将校が、青ざめた顔で叫ぶ。
だが、坂上はタバコの煙をふかしながら、冷たく鼻で笑った。
「軍法会議? ……やってみろよ。この数万の市民を敵に回して、俺を逮捕できるって言うならな」
「ヒィッ……!?」
憲兵将校が周囲を見渡す。
数万の群衆の目は、すでに完全に血走っていた。もし今、憲兵が牟田口に指一本でも触れようものなら、飢えた市民たちが暴徒と化し、憲兵隊など一瞬で八つ裂きにされるだろう。
圧倒的な『世論』という名の防弾チョッキ。
防衛省J5において、マスコミと世論のコントロールを熟知していた坂上は、たった数台のトラックと戦利品で、帝都のパワーバランスを完全にひっくり返したのだ。
* * *
「……なんたる失態だ。憲兵隊は何をしている!!」
同じ頃。帝都の中心、市ヶ谷の『大本営』地下会議室。
内閣総理大臣兼陸軍大臣、東條英機は、叩きつけられた『帝都日報』の号外と、窓の外から微かに聞こえてくる群衆の歓声を前に、怒りで顔を真っ赤に染めていた。
「反逆者・牟田口が、我が物顔で帝都をパレードしているだと!? すぐに近衛師団を出動させろ! 奴を引っ立てい!!」
「と、東條閣下! それは悪手です!」
参謀次長が、滝のような冷や汗を流しながら制止する。
「現在、牟田口中将の周囲には数万の市民が群がり、彼を神のように崇め奉っております。ここで軍を動かせば、大規模な市民暴動に発展しかねません! 奴は……世論を完全に人質に取っているのです!」
「世論だと……? 我々大本営の命令より、あの狂人のばら撒く肉の缶詰の方が重いというのかッ!」
東條はギリッと歯を食いしばり、机を拳で叩き割らんばかりに打ち据えた。
彼らが築き上げてきた「大本営発表」という情報統制の壁が、ただ一人の男の圧倒的な暴力と合理性の前に、音を立てて崩れ去っていく。
「……よかろう。奴の好きにはさせん。明日の『御前会議』に牟田口を喚問せよ」
東條の瞳に、暗く冷たい殺意が宿った。
「会議室で、奴の独断専行を徹底的に糾弾し、法的・軍事的に完全に包囲してやる。……野蛮な暴走族上がりに、大日本帝国の中枢がどれほど恐ろしいか、思い知らせてくれるわ」
大本営の老害たちは、まだ気づいていない。
彼らが呼び寄せようとしている男が、かつて霞が関で数千億円の国防予算を動かし、政治家たちを舌先三寸で手玉に取ってきた『現代官僚の頂点』であるということに。
インパールのジャングルを制した死神は今、帝都のコンクリートジャングルという『最大のホームグラウンド』に降り立っていた。




