EP 3
狂気の「ジンギスカン作戦」
第15軍司令部の作戦室は、安いたばこの煙と、男たちの脂ぎった体臭で飽和していた。
壁一面に貼られた地図。
そこには、赤い矢印が幾重にも書き込まれ、アラカン山脈を越えてインド・インパールへ至る「夢のルート」が示されている。
現代の海上自衛隊のブリーフィング・ルームとは似ても似つかない。
ここには、空調もなければ、デジタルデータもない。あるのは「必勝」という名の妄想と、机上の空論だけだ。
「閣下、ご提案申し上げた『ジンギスカン作戦』の詳細計画であります!」
唾を飛ばしながら説明するのは、作戦参謀の某少佐だ。
彼の目は異様な光を帯びていた。
「牛や羊を数千頭調達し、弾薬や糧食を運搬させます。そして、いざとなればその家畜を食料とすればよいのです! これならば、補給線が伸びきっても問題ありません。まさに一石二鳥、名案中の名案かと!」
周囲の幕僚たちが、どっと沸く。
「素晴らしい」「これぞ日本軍の知恵だ」と賛辞が飛ぶ。
上座に座る坂上真一(外見は牟田口廉也)は、組んだ腕の中で拳を握りしめていた。
爪が掌に食い込む。
怒りで血管が切れそうだ。
(……馬鹿か、貴様らは)
坂上の脳内で、現代のロジスティクス計算ソフトが瞬時に解答を弾き出していた。
――牛一頭に必要な飼料と水は、兵士数人分に相当する。
――ジャングルの急峻な山道で、牛の歩行速度は人間の半分以下。
――渡河作戦で牛が流されれば、物資もろともロスト。
――そもそも、牛が食べる牧草が、ジャングルのどこにある?
これは作戦ではない。ただの「動物虐待を伴うピクニック」だ。
しかも、史実ではこの牛たちはチンドウィン川を渡る際に大半が流され、あるいは崖から落ち、あるいは米軍の爆撃でパニックを起こして逃げ去り、兵士たちは何も持たずに敵前へ放り出されたのだ。
「閣下? いかがなさいました?」
沈黙を続ける牟田口(坂上)に、参謀が訝しげな顔を向ける。
かつての牟田口なら、「うむ、やれ!」と即決しただろう。
だが、今の坂上は違う。
彼はゆっくりと立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、不快な音を立てる。
その巨体がゆらりと揺れると、部屋の空気が凍りついた。
178cmの現代人の魂が、160cm台の牟田口の体を内側から膨張させているような、得体の知れない威圧感。
「……貴様」
坂上は、説明していた少佐の前に歩み寄り、その胸ぐらを掴み上げた。
「ひっ、か、閣下!?」
「貴様は牛を飼ったことがあるのか?」
「は? い、いえ……」
「俺はある」
嘘だ。坂上にあるのは「こんごう」型護衛艦の操艦経験と、趣味の陶芸だけだ。だが、ハッタリの強度はイージス艦の装甲並みである。
「牛は水を飲む。大量にな。草も食う。山道で牛が歩ける幅がどこにある? 牛が歩く速度に合わせて、兵を進めるつもりか? それとも、兵の糧食を削って牛に食わせるつもりか?」
「そ、それは現地で適当に草を……」
「適当、だと?」
ドォン!!
坂上の拳が、作戦卓を叩き割らんばかりに振り下ろされた。
地図上の「インパール」の文字の上に、ひびが入った湯呑みが転がる。
「戦争は『適当』で勝てるものではないッ! ロジスティクス(兵站)とは科学だ! 計算だ! 貴様らの頭の中には、精神論という名のカビが生えているのか!」
一喝。
作戦室が静まり返る。
全員が目を丸くしていた。
牟田口廉也といえば、「精神論の権化」であり、「補給など敵から奪え」と豪語していた男だ。その口から「ロジスティクスは科学だ」などという言葉が出るとは、誰も予想していなかった。
「で、ですが閣下! この作戦は、閣下が以前『これしかない』と……」
久野村参謀長が恐る恐る口を挟む。
痛いところを突かれた。確かに、この狂気の作戦を立案したのは、他ならぬ「以前の牟田口」だ。
坂上は、冷や汗を隠して鼻を鳴らした。
ここで怯んではいけない。
彼は、北辰一刀流の呼吸法で気を整え、眼光を鋭く細めた。かつて部下がミスをした際に見せた、あの「仁王」の目だ。
「……だから、貴様らは『二流』なのだ」
低い声で、彼は切り捨てた。
「俺が以前言ったのは、あくまで『敵を油断させるための欺瞞』だ。本気で牛を連れて行く馬鹿がどこにいる」
「は、はあ!? 欺瞞、ですか!?」
「そうだ。英軍は我々を野蛮人だと思っている。だから『家畜を連れてのろのろ来る』と思わせておくのだ。……だが、実際は違う」
坂上は地図の上を指でなぞった。
その指先は、牛が通るルートではなく、より隠密性が高く、かつ補給拠点を構築可能なポイントを正確に示していた。
「牛は却下だ。一頭も連れて行かん。現地住民からの徴発も禁止する」
「なっ……では、荷物はどう運ぶのですか! トラックも足りません!」
「ないなら作れ。……いや、違うな」
坂上は、ポケットから無意識にコーヒーキャンディを探そうとして、空振った。舌打ちをし、代わりに机の上にあった鉛筆をへし折る。
「運ばなくていい場所まで、あらかじめ運んでおくのだ。開戦前に」
「は?」
「佐藤(賢了)師団長を呼べ。それから、工兵隊の責任者もだ。……これから、この『ジンギスカン作戦』を、すべて白紙に戻す」
幕僚たちは顔を見合わせた。
混乱している。だが、不思議と反論する者はいなかった。
目の前の牟田口廉也からは、これまで感じたことのない、「勝てる指揮官」特有の、冷たく澄んだ殺気が放たれていたからだ。
「……何をしている。さっさと動け!」
「は、はいッ!」
慌ただしく動き出す作戦室。
その喧騒の中で、坂上は一人、額の脂汗をぬぐった。
心臓が早鐘を打っている。
(危なかった……。とりあえず牛は止めた。だが、根本的な問題は何も解決していない)
食料がない現実は変わらない。
トラックもない。
制空権もない。
あるのは、数万の兵士の命と、3ヶ月後に迫る雨季だけ。
(コーヒーが飲みたい……)
切実にそう願いながら、坂上は「地獄の撤退戦」を「勝利の行軍」へと書き換えるための、孤独なパズルに取り掛かった。




