EP 2
目覚めれば、そこはビルマの泥沼
暑い。
不快な、ねっとりとした湿気が全身にまとわりつく。
市ヶ谷の空調が故障したのか? いや、それにしてもこの空気の重さは異常だ。黴と、腐った植物、そして微かな線香の匂いが鼻孔を刺激する。
坂上真一は目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、無機質な防音壁でも、システム設計図のモニターでもなかった。
高い天井。そこから吊り下げられた、色あせた蚊帳。
そして、窓の外から聞こえるのは、聞いたこともない極彩色の鳥の鳴き声と、遠くで響くトラックのエンジン音だ。
「……どこだ、ここは」
声を出す。
自分の声ではない。
喉に痰が絡んだような、少ししゃがれた、しかし妙に通りが良い太い声。
体を起こそうとして、坂上は違和感に息を呑んだ。
重い。
毎朝の剣術修練と走り込みで鋼のように鍛え上げたはずの肉体が、まるで鉛の塊のように鈍重だ。腹部にたっぷりとついた脂肪が、シャツ越しに揺れるのを感じる。
(筋力が落ちている……いや、これは俺の体か?)
坂上は慌てて自分の腕を見た。
そこに在るべき、陶芸で荒れた指先はない。あるのは、日焼けし、むくんだ中年男の手だ。
そして、背中。
あの「仁王」の刺青が彫られた皮膚が、奇妙なほど静かだ。いつものような、皮膚の下で暴れるような熱情を感じない。ただ、脂汗が流れる不快感だけがある。
彼は蚊帳を払いのけ、ベッドから転がり落ちるようにして立ち上がった。
板張りの床がきしむ。
部屋の隅、洗面台の上に小さな鏡が置かれているのが見えた。
坂上はよろめきながら、その鏡を覗き込む。
そこには、見知らぬ男が映っていた。
いや、「見知らぬ」ではない。
軍事史を学ぶ者ならば、誰もが一度は教科書で、あるいは戦記物の悪役として目にしたことのある顔。
特徴的なカイゼル髭。
禿げ上がった額。
傲慢さと小心さが同居したような、神経質そうな瞳。
「……嘘だろう」
坂上は戦慄した。
この顔を、俺は知っている。
日本陸軍史上、最も無謀で、最も兵站を軽視し、数万の将兵を白骨街道へと追いやった男。
戦後も生き延び、「私は悪くない」と言い続けた、ある種の怪物。
――第15軍司令官、牟田口廉也中将。
現代の自衛官として、最も忌み嫌い、反面教師としてきた男の中に、あろうことか自分が入り込んでいる。
「閣下! 起きておられますか!」
不意に、部屋の扉がノックもそこそこに開かれた。
入ってきたのは、軍刀を吊り、参謀飾緒をつけた小柄な男だ。顔には隠しきれない興奮が張り付いている。
坂上の脳内のデータベースが、即座にこの男の情報を検索する。
久野村桃代少将。第15軍参謀長。牟田口のイエスマンとして知られる男だ。
「閣下、朗報です! ついに、ついに来ましたぞ!」
久野村は、坂上の――いや、牟田口の顔色の悪さになど気づきもせず、一枚の電報用紙を掲げた。
「大本営より、ウ号作戦の認可が降りました! 方面軍も総軍も、もはや反対できません。これでインパールへ進撃できます! 閣下の悲願が叶うのです!」
――ウ号作戦。
通称、インパール作戦。
補給線を無視し、険しいアラカン山脈を越えてインドへ侵攻する、狂気の沙汰。
これから始まるのは、戦闘ではない。飢餓と疫病による虐殺だ。
坂上は眩暈を覚えた。
よりによって、一番「ヤバい」タイミングだ。
作戦立案段階ならまだ止められたかもしれない。だが、認可が降りてしまった今、これを覆すことは軍の命令系統そのものへの反逆となる。
「……閣下? いかがなさいました? 感激のあまり、言葉も出ませんか?」
久野村が不思議そうに首を傾げる。
坂上は、こみ上げる吐き気を飲み込んだ。
胃の奥が熱い。ブラックコーヒーが欲しい。カフェインで脳を焼き切りたい。だが、ここにあるのは泥のような現実だけだ。
彼はゆっくりと息を吐き出し、鏡の中の「愚将」と目を合わせた。
その瞳の奥に、かつてイージス艦の艦橋でミサイル警報を聞いた時と同じ、冷徹な光が灯る。
(……状況は最悪だ。装備は旧式、補給計画はゼロ、部下は精神論者ばかり)
坂上は、震える手で久野村から電報用紙を受け取った。
紙の感触は粗悪だが、そこに書かれた文字は、何万人もの死刑執行命令書に等しい。
(だが、俺がいる)
鏡の中の牟田口が、微かに口角を上げたように見えた。それは、かつて「仁王」を背負った男が見せた、覚悟の笑みだった。
「……久野村参謀長」
低い声が出た。
久野村がビクリと肩を震わせる。いつものヒステリックな甲高い声とは違う、腹の底から響くようなドスの効いた声色。
「直ちに幕僚を全員集めろ。作戦要綱の『細部』について、重大な変更を伝える」
「は、変更……ですか? 認可が降りたばかりですが」
「そうだ。……我々が目指すのは、ただの勝利ではない」
坂上は、背中の(見えない)仁王に問いかけるように、言い放った。
「完全なる勝利だ。一兵たりとも無駄死にはさせん。……行くぞ」
昭和19年1月。ビルマ、メイミョー。
歴史の歯車が、一人の「未来人」という異物を噛み込み、悲鳴を上げて逆回転を始めようとしていた。




