EP 9
スティーブンスの絶望(敵将の悲鳴)
翌朝。
豪雨が小康状態となったインパール郊外、イギリス軍第4軍団の前線基地。
そこは、お通夜のような……いや、悪霊に魂を抜かれたかのような、異様な静寂と敗北感に包まれていた。
「……報告せよ。被害状況は」
第14軍司令官、ウィリアム・スリム中将は、泥だらけのジープから降り立ち、破壊された重砲陣地を前にして呻くように問うた。
彼の自慢であった『25ポンド野砲』の列は、無惨にも砲身がひしゃげ、スクラップの山と化している。
「は、はい……。野砲12門が全損。歩哨の死者は48名。……全員、銃撃によるものではありません」
副官のスティーブンス大佐が、青ざめた顔で報告書を読み上げる。
「死因は、頭蓋骨の陥没および頸椎の粉砕。……まるで、巨大な鉄の棒か何かで、ヘルメットの上から一撃で叩き割られたような……」
「鉄の棒だと……? 野蛮な棍棒か?」
スリムは眉をひそめた。
日本軍といえば、銃剣突撃か日本刀だと思っていた。だが、昨夜の襲撃者は、音もなく忍び寄り、鈍器で的確に急所を破壊していったというのか。
「しかし閣下、被害はそれだけではありません。……もっと、深刻な事態が」
スティーブンスが、言い淀みながら視線を逸らす。
「言え。何があった」
「は、補給倉庫が……『空』なのです」
「空? どういうことだ」
「破壊されたのではありません。……盗まれたのです。それも、我々将校用の『嗜好品』だけが、綺麗さっぱりと」
スリムは言葉を失い、大股で補給テントへと歩み寄った。
引き裂かれた防水布の奥。
そこには、昨夜まで積み上げられていたコンビーフの山も、ビスケットも、ウイスキーも、影も形もなかった。
残されているのは、泥だらけの床と、空っぽの木箱だけ。
「……馬鹿な。日本兵が、飢えた野良犬のように食料を奪ったというのか?」
スリムが呟いたその時、空の棚の隅に、一枚の紙切れが置かれているのが目に入った。
泥のついた指紋と共に、そこには見覚えのある空き缶が重石として置かれている。
『Player's Navy Cut』の空き缶。
スリム自身が最も愛飲していた、最高級のタバコだ。
「……ッ!」
スリムは震える手で、その紙切れを拾い上げた。
そこには、万年筆による流麗な筆記体で、完璧なクイーンズ・イングリッシュが記されていた。
『Thanks for the coffee & smoke. The beef was excellent, too. —— From 15th Army, Mutaguchi』
(コーヒーとタバコをありがとう。牛肉も最高だったよ。――第15軍、牟田口より)
ビリッ、と。
スリムの頭の中で、何かが決定的に切れる音がした。
「……な、舐めおって……ッ!!」
スリムは紙切れを握り潰し、地面に叩きつけた。
顔は屈辱で真っ赤に染まり、こめかみの血管がブチ切れそうに脈打っている。
「泥棒猫め! 飢えた野蛮人だと思っていた奴らが……我々の倉庫で『買い出し』をしただと!? しかも、わざわざ礼状まで残して……我々を嘲笑っているのか!!」
「か、閣下! 落ち着いてください!」
スティーブンスが慌てて制止するが、スリムの震えは止まらなかった。
これは単なる略奪ではない。
「我々はいつでもお前らの喉元を掻き切れるし、物資を奪う余裕すらある」という、最強のメッセージ(マウンティング)だ。
飢餓に苦しみ、補給線が崩壊しているはずの日本軍が、あろうことか大英帝国の物資で腹を満たし、イギリス製のタバコを吸って余裕綽々としている。
(……負けた。兵站でも、情報戦でも、そして『胆力』においても……私はあの男に完敗したのか)
スリムは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえた。
脳裏に浮かぶのは、まだ見ぬ敵将・牟田口廉也の顔だ。
しかし、その顔は、報告にあったような「小太りの無能な精神論者」ではない。
鉄パイプを片手に、紫煙をくゆらせながらニヤリと笑う、底知れぬ『闇の支配者』の姿が、スリムの恐怖心の中で巨大な幻影となって膨れ上がっていく。
「……閣下。兵たちの士気は崩壊寸前です。『ジャングルには鉄パイプを持った死神がいる』と怯え、夜間の歩哨に出るのを拒否する者が続出しています」
スティーブンスの悲痛な報告に、スリムは力なく首を振った。
「……全軍に告ぐ。現戦線を維持し、防御を固めよ。……二度と、軽率にあのジャングルへ手を出すな」
「は、反撃はしないのですか!?」
「できるわけがないだろうッ!!」
スリムは絶叫した。
「相手は亡霊だ! 泥に溶け、音もなく忍び寄り、我々の物資を奪って嘲笑う化け物だ! ……雨季が明けるまで待て。空軍が飛べるようになるまで、あの悪魔の森には近づくな!」
大英帝国の名将は、ついに完全に心を折られた。
インパール攻略どころか、自軍の陣地を守るだけで精一杯の「引きこもり」へと追い込まれたのである。
その頃。
数キロ先の日本軍陣地では、坂上真一が、奪ったばかりのタバコを美味そうに吹かしながら、東の空――雨雲の隙間から差し込む一筋の太陽を見上げていた。
「……聞こえたか、佐藤。イギリス軍の悲鳴が」
「はっ。もはや敵に、攻撃の意志など欠片も残っておりますまい」
坂上は、ゆっくりと立ち上がり、泥だらけの軍靴で大地を踏みしめた。
「時は満ちた。……雨季はもうすぐ終わる。そして、敵は恐怖で縮み上がっている」
彼は、吸い殻を携帯灰皿にしまい、ギラリと目を光らせた。
「……いよいよ、この泥仕合に『王手』をかけるぞ」




