EP 8
ジャングルの大宴会(泥とコンビーフと黒い黄金)
夜が明け、空が白み始めた頃。
モンスーンの雨脚が少しだけ弱まったチンドウィン川東岸の『前進陣地』には、戦場とは思えないほど芳醇で、暴力的なまでに食欲をそそる香りが漂っていた。
「うおおおっ……! 肉だ! 本物の牛肉の匂いだ!!」
「おい、こっちの鍋にはバターが入ってるぞ! ビスケットを砕いて入れるんだ!」
陣地の中央広場(といっても、防水シートを張り巡らせた泥の上だが)は、お祭り騒ぎになっていた。
昨夜の「鉄パイプの死神」こと坂上真一率いる決死隊が持ち帰った、山のような戦利品。
大英帝国御用達の高級コンビーフ缶、ポークビーンズ、そして大量のビスケットとジャムが、惜しげもなく全軍に開放されたのだ。
* * *
グツグツと煮える大鍋。
炊事係の兵士が、震える手でコンビーフの缶詰を次々と鍋に空けていく。
赤い牛肉の塊が、内地から送られてきた乾燥野菜や味噌と混ざり合い、奇跡のような「日英同盟シチュー」へと姿を変えていく。
「……配給だ! 列を乱すなよ!」
飯盒の蓋にたっぷりと注がれた、脂の浮いた熱々のシチュー。
泥だらけの決死隊の兵士――元・浅草のヤクザの分隊長が、それを一口すすった。
「ッ~~~~~~!!」
言葉にならなかった。
濃厚な牛の脂。塩気。そして肉の繊維が解ける食感。
これまで啜っていた泥水のような代用食とは、次元が違う。五臓六腑にエネルギーが染み渡り、脳髄が痺れるほどの美味さだ。
「美味え……! 畜生、美味えよぉ……!」
「イギリスの野郎ども、こんな良いモン食って戦争してやがったのか……!」
あちこちですすり泣く声が聞こえる。
鹵獲したスコッチウイスキー『ジョニー・ウォーカー』の瓶が回され、兵士たちは涙と雨と酒にまみれて、互いの肩を叩き合った。
餓死寸前だったはずのインパール戦線は今、坂上という一人の男の手によって、地上で最も幸福な宴の場へと変貌していた。
* * *
その宴の輪から少し離れた、司令部壕の入り口。
坂上真一(牟田口)は、弾薬箱に腰を下ろし、手元の小さな作業に没頭していた。
ゴリ、ゴリ、ゴリ……。
彼が回しているのは、工兵に作らせた即席のコーヒーミル(臼)だ。
中に入っているのは、昨夜の命懸けの略奪で手に入れた、最高級のコーヒー豆。
「……いい香りだ。豆の焙煎具合も悪くない」
湿気たジャングルの空気を切り裂くように、香ばしい『黒い黄金』の香りが立ち上る。
坂上は、挽いたばかりの粉をネル(濾過布)に入れ、沸騰させた湯を、細く、丁寧に注ぎ込んだ。
ポタ、ポタ、ポタ……。
黒い雫が、愛用のマグカップに落ちていく。
防衛省J5の徹夜明けに飲んだ、あの泥のような自販機コーヒーではない。
本物の、挽きたてのドリップコーヒーだ。
「閣下。……毒見もせずに、よろしいのですか?」
佐藤師団長が、コンビーフの缶詰を片手に心配そうに覗き込む。
「構わん。イギリス紳士が毒入りの豆なんぞ嗜むか」
坂上はマグカップを両手で包み込み、湯気を吸い込んだ。
そして、一口。
「――――」
熱い液体が喉を通り、胃袋へと落ちる。
強烈な苦味と、その奥にある酸味、そしてコク。
カフェインが血管を駆け巡り、泥のように重かった思考回路が、パチパチと音を立ててクリアになっていく。
「……最高だ」
坂上は、至福の溜息を漏らした。
続いて、胸ポケットから『プレイヤーズ・ネイビー・カット』の缶を取り出す。
純白の巻き紙に火を点け、紫煙を深く吸い込む。
コーヒーとタバコ。
現代社会では当たり前の嗜好品。だが、この極限のジャングルにおいて、これ以上の贅沢は存在しなかった。
「……生き返ったぜ。これでまた、あと十年は戦える」
坂上はニヤリと笑い、半分ほど残ったコーヒーのマグカップを、佐藤師団長に差し出した。
「飲め、佐藤。大英帝国の奢りだ」
「は、拝借します!」
佐藤は恐縮しながらカップを受け取り、一口すすると、目を丸くした。
「苦い! ……ですが、なんと香ばしい……! これが文明の味ですか!」
「そうだ。俺たちが守りたかったのは、精神論やメンツじゃねぇ。こういう『当たり前の日常』だ」
坂上は、タバコを指に挟んだまま、遠くで歓声を上げる兵士たちを見つめた。
泥だらけの顔で笑い合う、元ヤンキーや農家の次男坊たち。
彼らは今、坂上のために命を捨てる覚悟ではなく、坂上と共に「生きて帰る」ための活力を養っている。
「……食ったら寝かせろ。そして、次の雨が止むのを待て」
坂上の瞳から、安らぎの色が消え、再び冷徹な『イージス艦長』の光が宿る。
「腹は満たした。タバコも補充した。……次は、いよいよ仕上げ(反転攻勢)にかかるぞ」
ジャングルの大宴会。
それは、大英帝国への最後の一撃を加える前の、束の間の、しかし強固な結束の儀式であった。
満たされた胃袋と、血管を駆け巡るカフェインの熱狂を乗せて、第15軍の歴史的な逆襲が始まろうとしていた。




