EP 6
泥濘を這う悪鬼(鉄パイプの死神)
月明かりすらない、漆黒の夜だった。
視界を真っ白に染め上げるほどのモンスーンの豪雨が、ジャングルのあらゆる音を叩き潰している。
チンドウィン川東岸から数キロ離れた、小高い丘陵地帯。
そこに、連日連夜、第15軍の陣地に向かって嫌がらせのような砲弾を撃ち込み続けているイギリス軍の『25ポンド重砲陣地』があった。
「……ファック。こんな土砂降りの中で歩哨(見張り)なんて、正気の沙汰じゃねぇ」
ゴム製の雨合羽を着込んだイギリス兵が、泥水に足を取られながら悪態をついた。
彼らの視線の先、眼下に広がるジャングルは、文字通りの『泥の海』である。
(あんな泥沼の中から、大砲も持たない日本軍が攻めてくるわけがない。奴らは今頃、塹壕の中で震えながら餓死を待っているはずだ)
歩哨の兵士は、タバコに火をつけようと、雨風を避けてテントの陰へと身を隠した。
マッチを擦る。シュッ、と小さな炎が上がり、男の顔をほんの一瞬だけ照らし出した。
その、光の輪のすぐ外側。
泥の海と同化した『闇』が、音もなく盛り上がったことに、イギリス兵は気づかなかった。
「――――」
闇の中から現れたのは、顔と軍服に真っ黒な泥を塗りたぐった、一人の巨漢だった。
第15軍司令官、坂上真一(牟田口)である。
彼の背後には、同じく泥にまみれ、息を殺して地面を這う五十名の決死隊が控えていた。
いずれも、内地でヤクザや不良として鳴らした、気性の荒い札付きの兵士たちだ。彼らは銃を持たず、手には鹵獲したグルカ兵のククリ刀や、研ぎ澄まされた銃剣だけを握りしめている。
(……雨と泥が、足音も匂いもすべて消し去ってくれる。最高の『殺し』の舞台だ)
坂上は、ゆっくりと立ち上がった。
通常、これほどの泥濘の中で動けば、必ず泥をすする音や水音が鳴る。だが、坂上の足運びは、北辰一刀流の極意である『摺り足』の応用だった。
つま先から泥に侵入し、重心を滑るように移動させる。泥の表面張力を乱さない、完全なる無音歩行。
坂上の右手に握られているのは、名刀でも拳銃でもない。
赤錆と泥にまみれた、無骨な『鉄パイプ』である。
「……ふぅ。やっと火がつい――」
歩哨のイギリス兵が、タバコの煙を吐き出そうと顔を上げた瞬間。
ヒュンッ!!!
雨音を切り裂き、見えない鋼鉄の塊が、イギリス兵の側頭部へ向かって横薙ぎに振り抜かれた。
腕力任せのフルスイングではない。
鉄パイプの自重、坂上の巨体の踏み込み、そして丹田の捻り。それらすべての運動エネルギーを『一点』に集中させる、北辰一刀流の恐るべき打撃術。
――メシャァッ!!!
悲鳴を上げる暇すらなかった。
分厚い鋼鉄製のブロディ・ヘルメットが、まるで薄い卵の殻のようにひしゃげ、内部の頭蓋骨ごと完全に粉砕された。
脳震盪すら通り越し、中枢神経を一撃で破壊されたイギリス兵は、糸の切れた操り人形のように、音もなく泥の上へ崩れ落ちた。
「……一人目だ」
坂上は、血と脳漿のへばりついた鉄パイプを雨水で無造作に洗い流し、背後の部下たちに向けて「前進」のハンドサインを出した。
「……すげぇ……」
「あれが、司令官閣下の腕前……」
泥を這う札付きの兵士たちは、暗闇の中で戦慄と、爆発的な興奮に打ち震えていた。
将官といえば、安全な後方から偉そうに命令を下すだけの存在だと思っていた。だが、目の前にいる男は違う。誰よりも率先して最前線に立ち、泥にまみれ、あの無骨な鉄パイプ一本で、敵の頭をスイカのように叩き割って見せたのだ。
元ヤンキーや極道上がりの彼らにとって、これほど絶対的な『暴力のカリスマ(総長)』はいない。
「お前ら、遅れをとるなよ! 閣下の通った後に、生きたイギリス兵を一人も残すな!」
決死隊の分隊長(元・浅草のヤクザ)が、ククリ刀を舐めながら低く唸った。
そこからの制圧劇は、まさに『一方的な屠殺』であった。
豪雨と油断により、完全に感覚を塞がれていたイギリス軍の陣地。
そこへ、闇に溶け込んだ日本軍の荒くれ者たちが、文字通り悪鬼のごとく忍び寄る。
テントの中でカードゲームに興じていた兵士の背後から忍び寄り、口を塞いで喉笛を掻き切る。
見回りに出た将校を、泥沼に引きずり込んで窒息させる。
そして何より、陣地の中央を単騎で蹂躙する坂上真一の姿は、圧巻であった。
――ゴパァッ!!
「ぐえっ!?」
二人組の歩哨の懐に、蜃気楼のように潜り込んだ坂上。
鉄パイプの先端で一人目のみぞおちを正確に突き上げ、内臓を破裂させる。
倒れ込む一人目を盾にしつつ、驚愕してライフルを構えようとした二人目の顎を、鉄パイプのカチ上げ(斬り上げ)で粉砕した。
刀のように血振るいをする必要もない。ただの鉄の棒だからこそ、泥に塗れようが、骨を断とうが、一切の威力低下を招かない。
圧倒的な質量と、極限まで洗練された剣術のハイブリッド。
大英帝国の最新鋭の防具も、この『鉄パイプの死神』の前では、文字通り紙屑と同義であった。
「閣下! 外周の歩哨および、重機関銃座の無力化、完了しました!」
血まみれのククリ刀を下げた分隊長が、暗闇から坂上の傍らに駆け寄り、報告した。
「ご苦労。……手際がいいな、お前ら」
坂上は、泥と血にまみれた顔で、ニヤリと笑った。
わずか十数分。
五十人の部隊は、一発の銃弾も消費することなく、イギリス軍の防衛線を完全に突破したのだ。
「さあ、ここからが本番だ。見ろ」
坂上が鉄パイプの先で指し示したのは、陣地の奥に鎮座する巨大な『25ポンド野砲』の群れ。
そして、その隣に設営された、ひと際巨大な防雨テントだった。
「あのデカいテントの中に、イギリス軍が後生大事に抱え込んでいる『お宝(補給物資)』が眠っている。……俺たちを連日連夜、大砲で寝不足にさせてくれた坊ちゃん共に、きっちり『落とし前』をつけさせてやるぞ」
「へへっ……! 奪って、奪って、奪い尽くしてやりましょうや、総長!」
興奮のあまり、分隊長が思わず「閣下」ではなく、その場に最もふさわしい呼称を口走る。
坂上はそれを咎めることもなく、鉄パイプを肩に担ぎ直し、獲物を前にした肉食獣のように目を細めた。
「ああ。根こそぎだ。……野砲に爆薬を仕掛けろ。派手な花火と共に、大英帝国の宝物庫を空っぽにしてやる」
豪雨の夜。
圧倒的な暴力による「静かなる制圧」を終えた決死隊は、いよいよ欲望の赴くままの「大略奪戦」へとその牙を剥こうとしていた。




