EP 4
裏帳簿と総長の落とし前(決着の銃弾)
泥にまみれた軍用外套から滴り落ちる汚水が、料亭の高級な畳を黒く染めていく。
大広間の空気は、坂上真一(牟田口)が放つ、内臓を凍らせるような殺気によって完全に支配されていた。
「き、貴様……! 前線司令官が許可なく後方地域に武力介入するなど、重大な軍規違反だぞ! ただで済むと思っているのかッ!」
兵站監・黒田少将は、腰を抜かしそうになりながらも、必死に少将という階級の威光にしがみついた。
だが、坂上は無言のまま、懐から一冊の薄汚れた革表紙のノートを取り出し、黒田の目の前の膳に叩きつけた。
バァンッ!!
鯛の尾頭付きが跳ね飛び、酒瓶が倒れて割れる。
「……な、なんだこれは……」
「お前と、そこの商人が隠し持っていた『裏帳簿』の写しだ。憲兵隊の特務機関に、お前らの事務所をガサ入れさせた」
坂上の声は、防衛省J5の会議室で不正な予算要求を糾弾する時と同じ、氷点下の響きを持っていた。
「貴様らが『悪天候で喪失した』と報告したトラックの台数と、ラングーン市内の燃料集積所から払い出されたガソリンの消費量が、どう計算しても合わない。……喪失したはずのトラックが、なぜか市内の闇市と港を何十往復もしていた記録が残っている」
「ひっ……!?」
部屋の隅で震えていた悪徳商人が、悲鳴を上げた。
「さらに、特効薬の受領欄だ。受領者のサインにある『山田大尉』なる人物は、第15軍の名簿には存在しない。架空の人物だ。……あまりに杜撰な手口だな。三流の詐欺師でも、もう少しマシな帳簿を作るぞ」
完璧な論理的詰問。
黒田の顔から、みるみる血の気が引いていく。言い逃れは不可能だった。
「こ、これは……何かの間違いだ! 部下が勝手にやったことで、私は知らん! 私は帝国の少将だぞ! こんな薄汚い紙切れで……!」
黒田は錯乱し、視線を彷徨わせた。その目が、膳の横に置かれた『装飾用のコルトM1911』に釘付けになる。
彼は反射的に、その拳銃に手を伸ばした。
――だが。
「……遅ぇんだよ、デブ」
ドォォォンッ!!!
坂上の軍用ブーツが、黒田の顔面を蹴り飛ばす鈍い音が響いた。
「ぶげぇっ!?」
黒田は鼻血を噴き出しながら、後ろの障子を突き破って廊下まで吹っ飛んだ。装飾用の拳銃が、虚しく畳の上を滑っていく。
「あがっ……ぐ、貴様……上官に手を上げて……!」
鼻を押さえてのたうち回る黒田を見下ろしながら、坂上はゆっくりと、腰のホルスターから自らの愛銃『十四年式拳銃』を引き抜いた。
泥と油にまみれ、用心金が無骨に広げられた、実用一点張りの魔改造銃である。
坂上は、床に落ちていた黒田の『装飾用コルト』を拾い上げ、鼻で笑った。
「象牙のグリップに、彫刻だぁ? ……笑わせるな。こんなオモチャ、泥の中に落としたら一発で終わりだ。お前そのものだな。中身のねぇ、張り子の虎だ」
カラン、と音を立てて、高級なコルトをゴミのように投げ捨てる。
そして、泥だらけの十四年式拳銃の銃口を、黒田の眉間に突きつけた。
「ヒッ……! や、やめろ! 助けてくれ! 金ならある! 金塊でも何でもやるから!」
命乞いをする黒田の醜い顔を見下ろす坂上の瞳には、もはやエリート官僚の理性など欠片も残っていなかった。
そこにあるのは、広島・呉の闇社会で「掟」を破った者に絶対的な制裁を加える、本物の『暴走族総長』の眼光だけだった。
「金? ……お前が売り飛ばしたのは、ただの薬じゃねぇ。俺の若い衆の命だ。代紋(国旗)を背負って泥水すすってる連中の血を吸って肥え太った寄生虫が……今さら命乞いしてんじゃねぇぞ」
坂上の背中の『阿吽の仁王像』が、見えざる怒りの業火を噴き上げ、部屋の空気を灼熱に変えていく。
「お前は軍法会議にはかけねぇ。東京の安全な刑務所で税金使って生き延びるなんざ、俺が許さねぇ」
チャキッ。
冷たい金属音が響き、撃鉄が起こされた。
「お前は今日から『二等兵』以下だ。俺と一緒に最前線に来てもらう。特効薬なしで、泥水すすって、塹壕掘って……マラリアの熱に苦しみながら、お前が見殺しにした兵隊たちの痛みをたっぷり味わえ」
「い、いやだ! あんな地獄に行きたくない! 死んでしまう!」
「安心しろ。簡単には死なせねぇよ。……地獄を見るのはこれからだ」
坂上は引き金を引いた――かに見えたが、銃口をわずかにずらし、黒田の耳元で発砲した。
ズドンッ!!
「ぎゃあぁぁぁっ!! 耳が、耳がぁぁっ!!」
鼓膜を破られ、黒田が絶叫して転げ回る。
坂上は、硝煙の匂いを深く吸い込み、冷たく言い放った。
「これは手付金だ。残りの借りは、前線で体を使って返してもらうぞ」
彼は振り返り、震え上がっている護衛兵たちに顎でしゃくった。
「この豚と、そこの商人を拘束しろ。吐かせた倉庫の場所から、キニーネと食料を根こそぎトラックに積め。……一錠たりとも残すな。夜明け前に出発する」
「ハ、ハッ!!」
兵士たちが、まるで鬼神を見るような畏怖の眼差しで敬礼し、黒田たちを引きずり出していく。
嵐が過ぎ去った後のような静寂の大広間で、坂上は一人、泥だらけの軍靴で高級な畳を踏みしめた。
膳に残っていた、塩と油でギトギトになった冷たい揚げ芋を一つ摘み、口に放り込む。
「……不味い。塩気が足りねぇな」
彼は吐き捨てるように呟き、料亭を後にした。
その背中は、腐敗した組織の膿を力ずくで抉り出し、再び地獄の最前線へと戻っていく、孤独な「修羅」のそれであった。




