EP 3
ラングーンの死の商人(極悪人の宴)
ビルマ方面軍の兵站(補給)拠点であり、かつてのビルマの首都・ラングーン。
モンスーンの雨が街を濡らしているが、イギリス軍の砲弾も届かないこの安全な後方都市の一部には、戦争の悲惨さなど微塵も感じさせない「別世界」が存在していた。
軍の高級将校向けに接収された、豪奢な造りの料亭『満月亭』。
その最も奥まった大広間では、三味線の音色と、嬌声、そして下品な笑い声が夜の闇に溶け込んでいた。
「いやぁ、閣下。今回の『取引』も大成功でございましたな。闇市の相場はうなぎ登りです。特効薬の値段は、もはや金と同等か、それ以上で取引されておりますぞ」
もみ手で笑うのは、軍に出入りしている悪徳商人だ。
彼と向かい合って上座にふんぞり返っているのは、たっぷりと脂の乗った小太りの男。軍服の襟には、きらびやかな少将の階級章が輝いている。
ビルマ方面軍・兵站監、黒田少将。
第15軍へ送られるはずの物資を管理・統括する、後方支援の最高責任者である。
「当然だ。ジャングルで虫けらのように死んでいく兵隊どもにくれてやるより、金を持った現地の富裕層や華僑に売った方が、よほど『帝国の国益』にかなうというものだ」
黒田は、芸者に注がせた高級な日本酒をぐいと飲み干し、醜く顔を歪めて笑った。
彼の目の前の膳には、前線の兵士たちが夢にまで見た豪華な食事が並んでいる。
鯛の尾頭付き、牛鍋、そして舶来品のウイスキーと共に供された、たっぷりと塩と油がまぶされた厚切りの揚げ芋。芋本来の味など完全に殺された、ただ塩辛く脂っこいだけの代物だが、黒田はそれを汚い指で摘み、下品に咀嚼していた。
「それにしても、牟田口の馬鹿もいい気なものだ。『悪天候でトラックが崖から落ちた』という適当な報告書に判をついてやれば、大人しく川の手前で泥遊びをしているのだからな。あいつの部隊は、どうせ雨季で全滅する。死人に薬は不要だ」
「左様でございますな! 補給路の途絶は、すべて大自然の猛威のせいでございますからな。ガッハッハ!」
商人と黒田が、下劣な笑いを交わす。
書類上の数字をいじり、架空の部隊に物資を引き渡したことにして、横流しする。その利益の半分は商人の懐へ、もう半分は黒田の裏口座へと消えていくのだ。
「ああ、そうだ閣下。本日の『上納品』をお持ちしました」
商人が、恭しく桐の箱を黒田の前に差し出した。
蓋を開けると、ベルベットの布の上に、鈍い銀色の光を放つ拳銃が鎮座していた。
アメリカ製の『コルトM1911(ガバメント)』。それも、ただの軍用品ではない。グリップには象牙が埋め込まれ、スライド部分には豪奢なエングレービング(彫刻)が施された、特別製の美術品だった。
「おお……! これは美しい! 大英帝国の将校から巻き上げたものか」
黒田は脂ぎった手でその銃を掴み上げ、うっとりと眺めた。
堅牢な設計と、.45ACP弾がもたらす強烈なストッピングパワー。銃器としての本来の『機械的な美しさ』や『実用性』など、この男には全く理解できていない。泥にまみれても作動する信頼性よりも、ただ表面のきらびやかな装飾と「ステータスシンボル」としての価値しか見ていないのだ。
「気に入っていただけて何よりです。……ところで閣下、キニーネの横流しだけでは、最近の『孤児院』の運営資金が少々足りなくなってきましてな。例の『身寄りのない子供たち』ですが、南方の鉱山や、怪しげなブローカーから買い取りの打診が……」
商人が、声を潜めて悪魔の相談を持ちかける。
「構わん、さっさと売り飛ばせ。戦災孤児の数など、誰も正確に把握しておらん。適当に『病死』とでも処理しておけば済む話だ。……金だ。金さえあれば、戦後、帝国がどうなろうと我々は生き残れる」
黒田は、コルトM1911の銃口を天井に向け、無邪気な子供のように笑い声を上げた。
前線では、高熱にうなされた若い兵士が、母親の名を呼びながら死の淵を彷徨っている。
その命を救うはずの薬は、この醜悪な男たちの懐で、女と酒と美術品に化けていた。
「さあ、飲もう! 今日は朝までドンチャン騒ぎだ!」
黒田が芸者の腰に手を回し、杯を高く掲げた、まさにその時だった。
――ドゴォォォォンッ!!!
落雷のような凄まじい轟音が、料亭の玄関から響き渡った。
三味線の音がピタリと止む。
芸者たちが悲鳴を上げ、黒田の手から杯が滑り落ちた。
「な、なんだ!? 敵の空襲か!?」
黒田が慌てて立ち上がる。
だが、廊下から聞こえてきたのは、爆音ではなく、複数の男たちの重い足音と、料亭の用心棒たち(憲兵の崩れ)が次々と叩き伏せられる鈍い打撃音だった。
「ぎゃあっ!」
「ぐふっ……ば、化け物……!」
悲鳴が近づいてくる。
そして。
バァァァンッ!!
大広間の重厚な襖が、蹴り破られるようにして左右に吹き飛んだ。
そこに立っていたのは、雨と泥にまみれた、一人の巨漢だった。
分厚い軍用外套から滴る泥水が、料亭の高級な畳をドス黒く汚していく。
外套の隙間から覗く軍服には、第15軍司令官の階級章。
坂上真一(牟田口)である。
その後ろには、同じく泥だらけになりながら、自動小銃を構えた数名の精鋭護衛兵たちが、死神のような無表情で控えている。
「む、牟田口ィ!? なぜ貴様がここにいる! 最前線で泥遊びをしているはずでは……ッ!」
黒田は、腰を抜かしそうになりながら絶叫した。
商人は、恐怖のあまりガタガタと震え、部屋の隅へと這いずって逃げようとしている。
坂上は、ゆっくりと大広間の中へ足を踏み入れた。
その視線が、黒田の膳に並んだ豪華な食事と、塩まみれの芋、そして傍らに置かれた『装飾用』のコルトM1911を一瞥する。
「……随分と、景気のいい宴会だな」
坂上の声は、地を這うように低かった。
防衛省J5の冷徹な分析官としての顔は、もはや一ミリも残っていない。
そこにいるのは、身内の血をすする外道を決して生かしては帰さない、広島・呉の夜を支配した『元・暴走族総長』の、純度百パーセントの殺意をまとった暴力の化身であった。
「黒田。……テメェにくれてやる特効薬を持ってきたぜ」
泥だらけの右手が、軍用外套の内側へとゆっくりと伸びる。
極悪非道な兵站監の命運が、ついに尽きようとしていた。




