EP 2
消えた抗マラリア薬
モンスーンの豪雨が陣地を叩く音に混じって、重苦しい呻き声が響いていた。
「……ううっ、寒い……寒いよ母ちゃん……」
「しっかりしろ! 歯を食いしばれ!」
チンドウィン川東岸、『前進陣地』の最深部に設けられた野戦病院壕。
カビの匂いと泥の湿気が充満するその空間で、坂上真一(牟田口)は無言のまま立ち尽くしていた。
彼の視線の先には、ガタガタと激しい悪寒に震える若い兵士たちの姿があった。毛布を何枚重ねても震えは止まらず、40度を超える高熱が彼らの体力を容赦なく削り取っている。
先日のイギリス軍との戦闘で、無傷で生き残り、コンビーフと白米を食って涙を流して喜んでいたあの若い一等兵も、顔を真っ青にして横たわっていた。
「軍医。状況は」
坂上の低く押し殺した声に、血走った目をした軍医長が弾かれたように振り返り、敬礼した。
「は、ハッ……! 陣地内の水溜りで増殖した蚊媒介による、熱帯熱マラリアのアウトブレイク(集団感染)です。水質管理と防虫には万全を期しておりましたが、この異常な長雨で……」
「言い訳は聞いていない。薬はどれだけ残っている」
軍医長は、無念そうに唇を噛み切り、深く頭を下げた。
「……ゼロ、であります。重症者に投与した分で、昨日完全に底を突きました。後方からの補給が途絶えて久しく……このままでは、数日のうちに死者が続出します」
ギリッ。
坂上の太い指が、軍服のズボンの縫い目を握り潰した。
(俺が完璧に引いた陣地の中で、イギリス軍の砲弾ではなく、蚊という羽虫によって俺の若い衆(部下)が殺されていくというのか)
イギリス軍の砲撃ならば、塹壕とコンクリートで防げる。だが、目に見えない病魔には、近代的な「特効薬」という名の弾薬が不可欠だ。それがない野戦病院は、ただ死を待つだけの霊安室に等しい。
「……持ち堪えさせろ。絶対に死なせるな」
坂上は、高熱にうなされる若い一等兵の泥だらけの手を、自らの分厚い掌で力強く握りしめた。
「薬は、俺が必ず持ってくる」
* * *
司令部壕に戻った坂上は、机の上に山積みにされた「後方からの物資輸送報告書」の束を、鬼気迫る表情で睨みつけていた。
「……久野村」
「ハ、ハッ!」
「この一ヶ月間の、第15軍への補給物資の内訳だ。ラングーンの兵站監部は『悪天候と泥濘により、輸送トラックの七割が崖から転落、あるいは物資を喪失した』と報告してきているな?」
「はい。いかに前線の我々が道を整備したとはいえ、このモンスーンの猛威ならば……」
「馬鹿を言え。数字は嘘をつかない」
坂上は、赤鉛筆で報告書の一箇所を乱暴に丸で囲んだ。かつて防衛省J5において、各部隊から上がってくる予算要求書の『矛盾』を秒で見抜いていた、冷徹な分析官の目がそこにあった。
「よく見ろ。トラックが喪失したと報告されている日付と、後方の燃料集積所から発行された『ガソリンの消費記録』が全く合致していない。……崖から落ちたはずのトラック数十台分のガソリンが、なぜかラングーン市内の闇市周辺で消費された形跡がある」
「なっ……!? それは、一体……」
「さらにこれだ」
坂上は別の書類を叩きつけた。
「特効薬だ。前線には一錠も届いていないのに、書類上は『全量払い出し済み』になっている。おまけに、薬の輸送を担当したはずの部隊長の名前が、存在しない架空の将校だ」
久野村参謀長は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
それは、大自然の猛威などではない。人間の果てしない強欲と悪意が作り出した、極めて計画的で悪質な『大規模横領』の確たる証拠だった。
「兵站監の黒田少将。……あの腐れ外道、初めから前線に薬を送る気などなかったんだ」
坂上の声は、地鳴りのように低く、怒りに震えていた。
タバコが切れたイラつきなど、とうの昔に吹き飛んでいる。
防衛省のエリート官僚としてのロジックが、横領のカラクリを完全に暴き出した。そして今、彼の内面で暴れ狂っているのは、かつて広島・呉で絶対的な掟として君臨した『元・暴走族総長』の、仲間を傷つけられたことに対する純度百パーセントの殺意だった。
「俺の部下が、高熱で苦しんで死にかけている裏で。安全なラングーンで芸者を侍らせ、横流しした薬を闇市で金塊に換え……あろうことか、口封じに現地の孤児たちを裏社会に売り飛ばしているだと……?」
メリッ。
坂上の太い腕に込められた握力により、堅牢な軍用デスクの角が、ひび割れて砕け散った。
背中の『阿吽の仁王像』が、分厚い軍服を突き破らんばかりに隆起し、憤怒の業火を上げている。
「か、閣下……いかがなされますか。大本営へ告発の電報を打ちますか!?」
「そんな生ぬるい真似で、あのダニが潰せるか。軍の腐敗層は根っこで繋がっている。書類で告発したところで、もみ消されて終わりだ」
坂上は、壁に掛けられていた自身の軍用外套を無造作に引っ掴み、肩に羽織った。
「佐藤(賢了)を呼べ。俺が戻るまで、このイージス(陣地)の指揮権はすべて奴に預ける」
「閣下みずから、ラングーンへ向かわれるのですか!? しかし、イギリス軍の砲撃が続くこの状況で、司令官が前線を離れるなど……!」
久野村が必死に制止しようとする。
「うるせぇ。道など俺が切り開く。……それに、これは軍人としての作戦じゃない」
坂上は、腰のホルスターから、自らの手で魔改造を施した『十四年式拳銃』を引き抜き、撃発機構をガチャリと引いて薬室に弾を送り込んだ。
その瞳の奥には、大英帝国すら凌駕する、底なしの暴力の支配者の凄みが満ちていた。
「俺のシマの若い衆(兵士たち)の血をすする寄生虫に……『ケジメ』をつけさせに行くんだよ」
豪雨が降りしきる深夜。
数名の武装した信頼できる護衛兵だけを伴い、一台の泥だらけのジープが、チンドウィン川の陣地から、数百キロ後方のラングーンへと向かって弾かれたように飛び出していった。
イギリス軍の砲撃よりも恐ろしい「絶対的な理性の化け物」の逆鱗に触れた、愚かな死の商人たちへの、情け容赦のない粛清の旅が始まったのである。




