第三章 裏切りの兵站線と、大英帝国からの略奪
枯渇する紫煙と、名将の反手
ズドォォォォンッ!!
地響きと共に、地下の司令部壕の天井からパラパラと土埃が落ちてきた。
昭和19年、6月。
雨季の豪雨に沈むチンドウィン川東岸。第15軍の『前進陣地』は、かつてない激震に晒されていた。
「……第4観測壕より報告! 敵の砲撃、依然としてやまず! 25ポンド野砲による無差別な面制圧(絨毯爆撃)と思われます!」
有線電話を握りしめた通信将校が、耳をつんざくような爆音の中で叫ぶ。
大英帝国・第14軍司令官、ウィリアム・スリム中将。
彼は泥濘によって戦車部隊と歩兵の突撃を封じられたが、決して無能ではなかった。機動力を奪われた彼が次に選んだ手は、圧倒的な物量に物を言わせた「遠距離からの大砲撃戦」であった。
攻め込めないなら、敵が音を上げるまで、あるいは要塞が削り取られるまで、安全な距離から砲弾の雨を降らせ続ける。極めて理にかなった、冷徹な名将の反手である。
「くそっ、イギリスの野郎ども、泥に足を取られてビビり上がりやがって! 遠くから石を投げるしか脳がねぇのか!」
佐藤賢了師団長が、天井の土埃を払いながら毒づいた。
工兵隊が死に物狂いで構築した地下要塞は強固であり、直撃弾にもある程度は耐えられる。しかし、昼夜を問わず降り注ぐ砲弾の嵐は、確実に陣地を削り、兵士たちの睡眠を奪い、精神(神経)をゴリゴリとすり減らしていた。
だが、この地下壕の中で、現在最も深刻な「限界」を迎えようとしている男がいた。
第15軍司令官、坂上真一(牟田口)である。
彼はデスクの前に座り、不機嫌の極みのような顔で、指先にあるものを弄んでいた。
くしゃくしゃに潰れた、ブリキの平缶。
先日の戦闘で鹵獲した、大英帝国の高級タバコ『プレイヤーズ・ネイビー・カット』の空き缶だ。
(……切れた)
坂上の太い指が、空のブリキ缶をギリッと握り潰す。
最後の1本を吸い終えてから、すでに丸二日が経過していた。
現代の防衛省J5(防衛計画部)で、徹夜の予算折衝を乗り切るためのガソリンだった「ブラックコーヒー」は、とうの昔に得体の知れない泥水に成り下がっている。そして今、唯一の精神安定剤であった「ニコチン(高級タバコ)」すらも底を突いたのだ。
ドンッ! と、ひときわ大きな着弾音が響く。
「……チッ。うるせぇな」
坂上の口から、舌打ちと共に、ドス黒い声が漏れた。
J5のエリート官僚としての「理性のタガ」が外れかかっている。呉の夜を支配した元・暴走族総長の、沸点スレスレの凶暴なイラつきが、巨体から陽炎のように立ち上っていた。
「か、閣下……」
久野村参謀長が、イギリス軍の砲撃よりも、目の前の上官から放たれる殺気に怯えながら報告書を差し出した。
「野戦病院からの報告です。砲撃による負傷者もさることながら、ここ数日の長雨で、塹壕内に溜まった不衛生な水溜りから『マラリア』を媒介する蚊が大量発生している模様です。……すでに数十名の発症者が確認されました」
「……特効薬はどうした。後方のラングーン(方面軍兵站基地)から、定期便で送られてくるはずだろう」
坂上は、血走った目で久野村を睨んだ。
「そ、それが……。天候不良と、悪路による輸送トラックの『喪失』を理由に、ここ一ヶ月、一錠たりとも前線に届いておりません。食料の配給も、予定の三割にまで落ち込んでいます」
ピタリ、と。
坂上の指先が止まった。
ヤンキーとしてのイラつきがスッと引いていき、代わりに、J5の『ロジスティクスの専門家』としての冷徹な計算式が脳内で高速回転を始める。
(……おかしい)
坂上は、机上の地図と、これまでの補給データを睨み据えた。
確かにモンスーンの悪路は輸送を困難にする。しかし、坂上は事前にルートの整備を命じ、天候悪化を織り込んだ上で「最低限の物資が届く歩留まりの計算」を完璧に行っていたはずだ。
(喪失率が七割? 馬鹿な。いくら雨季でも、そこまで輸送隊が全滅するはずがない。何より、後方の兵站基地からは『送った』という帳簿上の記録だけが上がってきている)
数字は嘘をつかない。
物が届かないのに、書類上は消費されている。これは、軍隊という巨大な組織において、最も醜悪で、最もありふれた病魔の兆候だ。
「……久野村。ラングーンの兵站監は、今誰がやっている」
「は、たしか、大本営から赴任してきた……××少将であったかと」
「そいつの周辺を、憲兵隊の特務機関を使って徹底的に洗え」
坂上の声は、北極の氷床よりも冷たかった。
「……天災じゃねぇ。これは『人災』だ」
「人災、ですか……? まさか、味方による横流し(汚職)と……!?」
「ただの横流しならまだいい」
坂上は、ギリッと奥歯を鳴らした。
防衛省のキャリア時代、彼が目にしてきた腐敗は、単なる物資の横領にとどまらなかった。
兵士の命に直結する薬や食料が消える時、その裏には必ず、よりドス黒い「闇の市場」と、想像を絶する悪行が隠れているものだ。
「……情報部の末端から、奇妙な噂を耳にしたことがある。ラングーンの後方基地周辺で、孤児たちが次々と姿を消し、その直後に、出所不明の莫大な『裏金』が、一部の将校の懐に入っているとな」
「こ、孤児が消える……? まさか、子供の……!?」
佐藤師団長が、あまりの恐ろしさに絶句した。
「まだ推測に過ぎん。だが、もし俺の若い衆(部下)の命を救うための薬を売り飛ばし、あろうことか『子供の臓器』や『人身売買』で私腹を肥やしている外道がいるとすれば……」
バリィッ!!
坂上の手の中で、分厚い作戦計画書の束が、真っ二つに引き裂かれた。
「大本営の猟犬(辻政信)よりも先に、そいつを地獄の底へ叩き落としてやる」
イギリス軍の砲弾が陣地を揺らす中。
ニコチン切れで限界を迎えた元・暴走族総長の瞳に、同胞(味方)の裏切りに対する、絶対的な『粛清の炎』が宿った。




