EP 10
モンスーンの足音(泥濘に沈む大英帝国)
ゴォォォォォォ……ッ!!
空の底が抜けたかのような、暴力的なまでの豪雨だった。
昭和19年、5月。
ビルマ・インド国境地帯に、恐るべき雨季が到来した。
視界は白く煙り、数メートル先すら見通せない。ジャングルの地面は瞬く間に巨大な泥の海と化し、アラカン山脈に続く細い獣道は、濁流となってすべてを押し流していった。
史実において、この雨は日本陸軍・第15軍にとって「死の宣告」であった。
食料も弾薬もなく、泥まみれで撤退を続ける兵士たちは、この冷たい雨に体温を奪われ、マラリアに倒れ、数万の白骨となって泥の中に沈んでいったのだ。
だが。
現在のチンドウィン川東岸、『チンドウィン・イージス(前進陣地)』の地下壕の中は、その地獄絵図とは無縁の別世界であった。
「……ひでぇ雨だな。外に出たら一瞬で溺れちまうぞ」
「おう。だが、この壕の中は快適なもんだ。天井の防水シートと排水溝のおかげで、一滴も濡れやしねぇ」
地下に広がる巨大な待機壕。
兵士たちは泥に濡れることもなく、毛布にくるまりながら、配給された乾パンと温かいお茶で一息ついていた。
坑道には工兵隊が設置した換気筒が機能しており、空気が淀むこともない。素焼きのフィルターを通した安全な水は、巨大なタンクにたっぷりと蓄えられている。
「これも全部、牟田口司令官閣下のおかげだ。……あのまま無理に山を登ってたら、俺たち今頃、泥の中で死体になってたぜ」
「ああ。閣下は神様だ。俺たちの命を救ってくれた、戦の神様だよ」
外の豪雨の音を聞きながら、兵士たちの間で交わされるのは、坂上への狂信的なまでの感謝と畏敬の念であった。
精神論を喚き散らす大本営の疫病神(辻政信)はすでに排除され、彼らを脅かす不条理は、この前線には何一つ存在していなかった。
* * *
一方で、この豪雨に阿鼻叫喚の地獄を味わっていたのは、皮肉にも圧倒的な物量と機械化部隊を誇る大英帝国・第14軍の側であった。
「クソッ! キャタピラが完全に泥に噛んだ! 前にも後ろにも進まんぞ!」
インパール市街の外縁部から、日本軍の陣地を強行偵察すべく出撃していたイギリス軍のM4中戦車部隊。
その車長が、ハッチから顔を出して泥まみれになりながら絶叫した。
彼らが頼みとしていた30トンの鋼鉄の装甲と大火力は、ビルマの底なしの泥沼の前では、ただの「重すぎる鉄棺桶」でしかなかった。
キャタピラは虚しく泥を掻き回すだけで、車体は腹まで完全に泥濘に沈み込んでいる。
「隊長! 後続の装甲車もスタックしました! 牽引車も泥でスリップして使い物になりません!」
「駄目だ、全車放棄! 車両を捨てて歩兵だけで後退しろ! こんな泥沼で日本軍の待ち伏せに遭えば全滅するぞ!」
イギリス兵たちは、誇り高き最新鋭の兵器を泥の中に打ち捨て、這々の体で後方へと逃げ帰っていく。
彼らの頭上を、雨季の分厚い雨雲が覆い尽くしている。頼みの綱であった「航空支援(爆撃)」も、この豪雨と極端な視界不良の中では完全に封殺されていた。
「将軍の危惧した通りだ……。あのムタグチという男は、このモンスーンの泥濘すらも味方につけて、無敵の要塞を築き上げたんだ……!」
泥まみれのイギリス兵が、恐怖に顔を引き攣らせて呟く。
大英帝国の誇る機械化部隊と航空戦力。
史実の日本軍をすり潰したその二つの牙は、坂上真一が計算し尽くした『防御陣地とモンスーンの組み合わせ』によって、完全にへし折られたのであった。
* * *
「……見ろ、佐藤。見事なまでの泥沼だ。戦車だろうがなんだろうが、ただの鉄屑だ」
最前線の監視用トーチカ。
分厚いコンクリートと擬装網に守られたその空間から、双眼鏡でイギリス軍の無様な撤退劇を見届けた坂上真一は、低く笑った。
「閣下の仰る通りでした。敵の機動力は完全に死に絶えました。……これならば、我が軍は一発の弾丸を撃つことすらなく、この戦線を維持できます」
傍らに立つ佐藤賢了師団長が、感嘆の吐息を漏らす。
坂上は双眼鏡を下ろし、胸ポケットからあのイギリス製の高級タバコ『プレイヤーズ』を取り出した。
ジッポライターで火をつけ、深く吸い込む。
湿り気を帯びた空気に、極上のバージニア葉の香りが混ざり合う。
「戦ってのはな、佐藤。弾の撃ち合いが始まってから勝敗が決まるんじゃない」
坂上は、紫煙を細く吐き出しながら、トーチカの銃眼から灰色のジャングルを見据えた。
「兵站を組み上げ、陣地を引き、気象条件を計算して……弾が飛ぶ前に『勝つべくして勝つ盤面』を構築した者が勝つ。それが、現代……いや、真の戦争のセオリーだ」
呉の暴走族総長としての『凄み』と、防衛省J5のアーキテクトとしての『冷徹な知性』。
二つの魂を併せ持つ男が作り上げた、無敵の防衛システム。
かつて三万人以上の餓死・病死者を出し、大日本帝国崩壊の序曲となった最悪の作戦は、今ここに『歴史上最も完璧な遅滞防御戦』へと姿を変え、完全に完遂されたのである。
「さて……」
坂上は、足元の泥でタバコを踏み消した。
「雨季が明けるまで、あと数ヶ月。このまま泥の中でイギリス軍と睨み合っていてもいいが……せっかくの無敵の要塞だ。少しばかり、敵の神経(胃袋)を削ってやるとするか」
坂上の唇に、悪魔のような獰猛な笑みが浮かぶ。
死の雨が降り注ぐビルマの密林。
しかし、第15軍の将兵たちの胸には、かつてないほどの熱い希望の炎が灯っていた。
イージス艦長・坂上真一による、歴史と常識を覆す痛快なる防衛戦――その第一幕が、今ここに完全なる勝利をもって幕を閉じた。




