EP 9
論破と粛清(北辰一刀流)
チンドウィン川東岸、第15軍司令部地下壕。
薄暗いランプの光に照らされた空間は、極寒のシベリアよりも冷え切っていた。
「ひっ……!?」
大本営派遣参謀・辻政信は、目の前にそびえ立つ巨漢――坂上真一(牟田口)から放たれる、常軌を逸した「殺気」に射すくめられ、無様に後ずさった。
小太りの愚将だと思っていた男の瞳の奥底に、東京の安全な会議室では決して出会うことのない、本物の『暴力の支配者(ヤンキーの総長)』の底知れぬ闇を見たからだ。
「な、なんだその口の利き方は……! 私は大本営の特使だぞ! 陛下の御意を体現する参謀に対して、貴様、抗命罪で銃殺されたいのか!」
辻は震える手で腰の軍刀の柄を握りしめ、必死に権威という名の虚勢を張った。
だが、坂上は口に咥えていた高級タバコの煙を、辻の顔面に向かってふうっと吹きかけた。
「抗命罪? 笑わせるな」
坂上の声は、ドス黒いヤクザのトーンから一転、氷のように冷徹な『防衛省J5(官僚)』のそれへとシームレスに切り替わった。
「私の提出した『前進陣地の構築と、敵の誘致・殲滅』に関する作戦命令書は、方面軍司令官の裁可を経て、大本営の正式な承認印が押されている。……つまり、我々が今ここで陣地を構築し、一歩も動いていないのは、大本営が認めた『正規の命令』に従っているからだ」
「そ、それは机上の空論を取り繕っただけで……!」
「黙れ、三流」
坂上が低く一喝すると、辻の言葉が喉の奥で凍りついた。
「大日本帝国陸軍は、法と命令系統で動く組織だ。正式な文書による命令撤回もなしに、現場の参謀が口頭で『今すぐ突撃しろ』と喚くことこそが、指揮系統の重大な攪乱であり、利敵行為だ。……違うか?」
「ぐっ……!」
「お前が持っている『大本営の意志』とやらを証明する、正式な命令書と総長印をここに出せ。出せないなら、お前の言葉はただの野犬の遠吠えだ。……俺のシマ(陣地)で、キャンキャン吠えてんじゃねぇぞ」
完璧な論破。
官僚組織のルールを逆手に取り、手続き(ロジック)で完全に逃げ道を塞ぐ。辻がこれまで「作戦の神様」と持て囃されてきたのは、誰もが彼の背後にある「大本営の威光」を恐れて反論しなかったからに過ぎない。
だが、現代の市ヶ谷で本物の政治家や財務省と渡り合ってきた坂上にとって、辻の強弁など、子供の我儘にも劣る稚拙なものでしかなかった。
「き、貴様ァァァッ!! 皇軍の精神を泥で汚す国賊めッ!!」
論理で完全に追い詰められ、己のプライドをズタズタにされた辻は、ついにヒステリーの臨界点を突破した。
狂気に顔を歪め、抜刀する。
白刃が地下壕のランプの光を反射し、無防備に立つ坂上の脳天へと振り下ろされようとした。
「閣下ッ!!」
背後にいた佐藤師団長と久野村参謀長が悲鳴を上げる。距離が近すぎる。軍刀の凶刃を避けることは不可能に思えた。
――だが。
坂上真一は、毎朝4時に起き、自らを極限まで追い込む素振りを何十年と続けてきた『北辰一刀流 免許皆伝』の達人である。
「……遅い」
シュッ、と。
坂上の巨体が、まるで蜃気楼のようにブレた。
辻の振り下ろした軍刀が空を切り、デスクの角を虚しく叩き割る。
その直後、辻の視界が上下に反転した。
坂上は、刃を躱すと同時に一歩踏み込み(間合いをゼロにし)、辻の右腕の関節を正確に捉えて捻り上げていた。北辰一刀流の柔術(体術)。剣の理合を応用した、完全なる制圧。
「ガァァッ!?」
メキメキと骨が悲鳴を上げ、辻の口からカエルのような濁った絶叫が漏れる。軍刀が手から滑り落ち、泥の床に突き刺さった。
「痛いか? 大本営の坊ちゃん」
坂上は、辻の腕をギリギリと極めながら、その耳元で悪魔のように囁いた。
「貴様らが机の上で『突撃しろ』と線を引くたびに、前線の兵士たちはこれ以上の痛みと絶望を味わいながら、腹を空かせて死んでいったんだ。……その重みが、少しは理解できたか」
「は、離せッ! 貴様、ただで済むと……ギャアアアアッ!!」
坂上がわずかに力を込めると、辻は白目を剥き、苦痛で痙攣した。
圧倒的な物理的暴力。
狂気の参謀が、完全に「力の差」を理解し、心がへし折られた瞬間だった。
「……久野村。佐藤」
坂上は、ゴミを捨てるように辻を床へ放り投げた。
「ハ、ハッ!!」
一部始終を見ていた幕僚二人は、恐怖と、それ以上の凄まじいカタルシスに震えながら直立不動の姿勢をとった。
「この『疲労で精神錯乱を起こした可哀想な参謀』を、今すぐラングーンの病院へ送り届けろ。軍医に頼んで、強力な鎮静剤を致死量の一歩手前までぶち込んでおけ。二度と前線に出てこられないようにな」
「承知いたしました!! すぐに手配します!」
佐藤師団長が、これ以上ないほど晴れやかな顔で敬礼し、兵士たちを呼んで気絶した辻を引きずり出していく。
史実において数多の地獄を生み出した疫病神は、こうして一発の銃弾も使うことなく、完璧に前線からパージ(粛清)された。
「……ふぅ。タバコの火が消えちまったな」
坂上は、デスクの灰皿からプレイヤーズのタバコを拾い上げ、再びマッチを擦った。
深く煙を吸い込み、地下壕の天井へ向かって吐き出す。
これで、背後(味方)の懸念はすべて消え去った。
ゴロゴロゴロ……。
その時、地下壕の奥深くまで、重い雷鳴が響いてきた。
「閣下」
天幕の外へ出ていた副官が、濡れた軍服のまま駆け込んでくる。
「雨です。……雨季が、始まりました。土砂降りです!」
坂上は、タバコを咥えたまま、静かに口角を吊り上げた。
史実において日本軍の息の根を止めた死の雨季。しかし、盤石の陣地と食料、そして水処理システムを完備した第15軍にとっては、最強の「盾」の完成を意味していた。
「……さあ、ここからが本番だ。大英帝国(スリム将軍)よ、この泥の海で、俺のイージス(要塞)をどう攻略するか、見せてもらおうか」
狂気の参謀が去り、恵みの死雨が降り注ぐ中。
現代の理性の化け物が作り上げた無敵の要塞戦が、いよいよ最終局面に突入しようとしていた。




