EP 8
大本営の猟犬(作戦の神様と、冷徹なる怪物)
チンドウィン川東岸、『チンドウィン・イージス(前進陣地)』。
イギリス軍の先遣隊を完膚なきまでに粉砕し、圧倒的な士気と強固な補給線を維持する第15軍の陣地に、場違いな軍用車が泥を跳ね上げながら到着した。
車から降り立ったのは、軍服に一切の泥の跳ねがない、小柄で神経質そうな男だった。
丸眼鏡の奥の瞳は、野心と狂気にギラギラと血走っている。
大本営派遣参謀、辻政信大佐。
かつてノモンハン事件やガダルカナル島の戦いにおいて、現場の兵站を一切無視した狂気の突撃作戦を立案し、数多の将兵を白骨街道へと追いやった「作戦の神様」にして「最悪の疫病神」である。
「……なんだ、この弛緩しきった空気は」
前線を視察し始めた辻は、即座に顔を真っ赤にして激昂した。
彼の目に映ったのは、血眼になってジャングルを進撃する皇軍の姿ではなかった。塹壕の陰で、イギリス軍から鹵獲したコンビーフのおかずに白米を頬張り、談笑しながらタバコを吹かす兵士たちの姿だったのだ。
「貴様らッ! 最前線で飯など食っておる場合か!!」
辻のヒステリックな金切り声が、陣地に響き渡る。
兵士たちが驚いて振り返った。
「大英帝国の鬼畜どもが、すぐそこまで迫っているのだぞ! 貴様らには大和魂というものがないのか! 飯など食わずとも、皇軍は精神力で勝てる! 今すぐ銃剣を握り、敵陣へ突撃せんか!!」
わめき散らす辻に対し、泥にまみれた古参の下士官が、呆れたような、しかし明確な敵意を込めた冷たい視線を向けた。
「……大佐殿。我々は牟田口司令官閣下の厳命により、この陣地を死守し、次の敵襲に備えて英気を養っております。無謀な突撃は、閣下より固く禁じられておりますので」
「なんだと!? 牟田口中将の命令だと!?」
辻はギリッと奥歯を鳴らした。
彼はそのまま、大股で泥を蹴立てながら、陣地の最深部――第15軍司令部の地下壕へと怒鳴り込んだ。
* * *
バンッ!!
司令部壕の重い木の扉が、乱暴に蹴り開けられた。
「牟田口閣下はおられるかッ!!」
怒髪天を衝く勢いで踏み込んできた辻政信を、司令部内の幕僚たち(佐藤師団長や久野村参謀長)が苦々しい顔で睨みつける。
だが、部屋の最奥、軍用デスクにどっかりと腰を下ろしている巨体の男――坂上真一は、視線すら上げなかった。
坂上は、鹵獲したイギリス製の高級タバコ『プレイヤーズ・ネイビー・カット』を指に挟み、優雅に、そしてひどく美味そうに紫煙を吐き出していた。
「……騒々しいな。ここは最前線の司令部だぞ、参謀」
坂上の声は、防衛省J5の会議室で若手官僚をあしらう時のように、低く、冷徹で、感情の起伏が一切なかった。
「牟田口閣下! 貴官はいったい何を考えておられるのですか!」
辻はデスクの前に詰め寄り、唾を飛ばした。
「我が皇軍が、川の手前で穴を掘って引きこもるなど前代未聞です! 天長節までにインパールを落とすのが、大本営の……いえ、天皇陛下のご意志なのですぞ! なぜ進撃を命じないのです!」
「……大本営の意志、だと?」
坂上は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥には、現場の苦労を知らず、安全な東京から「陛下」という絶対の盾を利用して無理難題を押し付ける「三流の政治屋」に対する、極限の軽蔑が宿っていた。
「私の提出した『前進陣地の構築と、敵の誘致・殲滅』の作戦命令書は、正規のルートで方面軍から大本営まで上がり、すでに裁可を得ている。……書類のハンコも読めないのか、貴様は」
「詭弁ですッ! あんなものは、進撃の遅れを取り繕うための方便に過ぎないことは分かっている! 大本営は、今すぐの『抜刀突撃』を要求しているのです!」
辻は、己の権力を笠に着て、さらに声を張り上げた。
「もし、このまま一歩も前に進まぬというのであれば……大本営特使たるこの私の権限において、貴官の指揮権を剥奪し、軍法会議に――」
「……オイ」
直後。
司令部壕の空気が、文字通り『凍結』した。
坂上が、深く腰掛けていた椅子から、ゆっくりと立ち上がったのだ。
防衛省のエリート官僚としての『理性の仮面』が、剥がれ落ちた瞬間だった。
分厚い羅紗の軍服の下で、背中に彫り込まれた『阿吽の仁王像』が、かつて広島・呉の夜の街を暴力と気合で支配した『暴走族総長』のドス黒い殺気と共に、目を覚ましたのである。
「誰のシマで、デカい面してんだ……三流が」
坂上の口から漏れ出たのは、将官の言葉でも、官僚の言葉でもない。
絶対的な暴力の頂点に立つ者だけが持つ、純度百パーセントの『凄み』だった。
タバコの煙越しに辻を見下ろすその眼光は、人間を人間として見ていない。ただの「轢き潰すべき路上のゴミ」を見る目だ。
「ヒッ……!?」
これまで数多の上官を言葉の刃で切り捨ててきた辻政信が、初めて、本能的な恐怖で喉を引き攣らせた。
一歩、後ずさる。
小太りで精神論しか喚かないはずの牟田口から、なぜこんな、ヤクザの親分すら裸足で逃げ出すような圧倒的な殺気が放たれているのか。辻の矮小な脳では、全く処理が追いつかなかった。
「お前みたいな、現場の血の匂いも知らねぇクソガキが……俺の引いた図面に口出ししてんじゃねぇぞ」
坂上は、吸いかけの高級タバコをデスクの灰皿に押し付けると、ゆっくりと、しかし逃げ場のないプレッシャーを放ちながら、辻政信の目の前へと歩み寄った。
「大本営の命令書だぁ? ……上等だ。その紙切れが、前線の弾より重てぇか、今ここで俺が教えてやるよ」
圧倒的な論理に、暴力の絶対的統率力(ヤンキーの凄み)が加わった、完全無欠の冷徹なる怪物。
安全圏から偉ぶっていた大本営の猟犬は今、自ら進んで『最強の捕食者』の檻へと足を踏み入れてしまったのだ。




