EP 7
兵站がもたらす熱狂と、名将の戦慄
インド・インパール。イギリス第14軍司令部。
ウィリアム・スリム中将は、新しく淹れ直されたダージリンティーに口をつけることすら忘れ、目の前に立つ情報参謀の報告に耳を疑っていた。
「……もう一度言え。我が軍の誇るグルカ兵の先遣隊が、どうなったと?」
「は、全滅……いえ、正確には部隊の九割が損耗。生存者はわずか数名です。交戦時間は、わずか十数分と推測されます」
情報参謀の声は、恐怖で微かに震えていた。
「馬鹿なッ!!」
スリムは立ち上がり、デスクを両手で強く叩いた。
グルカ兵は、大英帝国が世界に誇る最強の山岳・密林戦闘集団である。彼らがジャングルでの白兵戦で後れを取るなど、到底あり得ないことだった。
「奴ら(日本軍)の陣地は、航空写真で見る以上の『死の罠』でした。しかも……生存者の報告によれば、日本軍の機関銃は泥濘の中でも全く作動不良を起こさず、完璧な十字砲火を形成していたと……!」
「作動不良を起こさない機関銃だと? あの工作精度の低いイエローモンキーの兵器が!?」
「それに……敵の射撃は、極めて統制されていました。弾薬の残量を全く気にする素振りがなく、無尽蔵に弾幕を張ってきたそうです」
スリムは、どさりと椅子に崩れ落ちた。
冷や汗が、軍服の襟を濡らしていく。
(……無尽蔵の弾薬。泥に強い兵器。そして、完璧に計算された射線……。これではまるで、ヨーロッパ戦線のドイツ軍と戦っているようではないか)
精神論で突撃してくるだけの野蛮な軍隊。
そんな日本軍のイメージは、スリムの中で完全に崩壊した。
チンドウィン川の向こうにいる「レンヤ・ムタグチ」という男は、ジャングルという最悪の環境下で、近代的な物流網と防衛システムを完璧に構築してのけたのだ。
「……閣下。いかがなされますか。主力部隊を投入し、敵陣地をすり潰しますか?」
「ならん!!」
スリムは血走った目で参謀を怒鳴りつけた。
「相手は我々が攻めてくるのを、要塞の中で口を開けて待っているのだ! 行けばグルカ兵の二の舞になるぞ! ……総員に防御陣地構築を命じろ! 敵の罠には乗らん。こちらから攻め込むのは自殺行為だ!」
大英帝国の誇る名将は、ついに「攻勢」を諦め、ジャングルでの「睨み合い」を選択させられた。
それはすなわち、圧倒的な物量を誇るイギリス軍が、防衛省J5出身の「アーキテクト」が引いた図面の前に、完全に屈服した瞬間であった。
* * *
一方、チンドウィン川東岸。第15軍の前進陣地。
硝煙の匂いが薄れゆく塹壕の中で、兵士たちの間には、信じられないほどの静寂と、それに続く爆発的な歓喜が満ちていた。
「おい……俺たち、本当に生きてるのか?」
「ああ。かすり傷一つねぇ。それどころか……見ろよ、これを」
若い一等兵が、泥だらけの手で掲げて見せたのは、鹵獲したイギリス軍の背嚢から出てきた「コンビーフの缶詰」と「チョコレート」であった。
史実であれば、飢餓の極致でイギリス軍の陣地に突撃し、この缶詰を一口食べるためだけに何千人という日本兵が命を散らしたのだ。
だが今、彼らは「圧倒的優位な防衛戦」の副産物として、いとも容易くそれを手に入れていた。
「メシだぞーッ! 第一大隊、配給だ!」
歓喜に沸く塹壕のすぐ後方まで、手押しリヤカー部隊が到着した。
激しい戦闘の直後だというのに、前線には「温かい白米」と「乾燥野菜の味噌汁」がシステマチックに届けられたのだ。
「戦闘の後に、あたたかいメシが食えるなんて……!」
一等兵は、コンビーフを乗せた白米を口に放り込み、あまりの美味さと安堵にボロボロと涙をこぼした。
「すべて、牟田口司令官閣下のおかげだ……。閣下の言う通りに陣地を掘り、武器を手入れし、ここで待っていただけで……イギリス兵が勝手に死んでいったんだ……!」
兵士たちの目に、狂信的な光が宿り始めていた。
精神論で彼らを死地に追いやる大本営の参謀たちと、絶対の合理性で自分たちを「生かし、勝たせてくれる」司令官。
どちらに命を預けるべきか、泥まみれの兵士たちは本能で理解していた。
「牟田口閣下万歳! 第15軍、万歳ッ!!」
「俺たちは無敵だ! 司令官閣下がいれば、何が来ても負ける気がしねぇッ!!」
地鳴りのような歓声が、陣地のあちこちから沸き起こる。
その様子を、地下の司令部壕から続く連絡通路の陰で、坂上真一(牟田口)は静かに見つめていた。
彼の太い指には、先ほど鹵獲したイギリス製の高級タバコ『プレイヤーズ・ネイビー・カット』が挟まれている。
深く吸い込み、上質な紫煙を肺の奥底まで染み渡らせる。
「……どうやら、末端の兵の『気合』は十分に入ったようだな」
坂上の口から、ふと、呉の暴走族時代を彷彿とさせるドス黒い言葉が漏れた。
ヤンキーの絶対的な統率力は、「背中を見せること」と「圧倒的な恩恵(メシと勝利)を与えること」で完成する。
イージス艦長としての冷徹なシステム設計が勝利を呼び、暴走族総長としてのカリスマが兵士の心を完全に掌握したのだ。
「閣下。兵たちの士気は天井知らずです。今なら、インパールまで一気に駆け抜けることも可能かと……!」
佐藤師団長が、血気盛んな顔で進言してくる。
だが、坂上はタバコの灰を無造作に落とし、冷ややかに首を振った。
「馬鹿を言え。俺の引いた図面は『防衛用』だ。ここから一歩でも外に出れば、ただの的になる。……それに、忘れるな佐藤。俺たちの本当の敵は、目の前のイギリス軍だけではない」
「……は。と、仰いますと?」
坂上は、東の空――遠く離れた帝都・東京の方角へ、氷のように冷たい視線を向けた。
「現場がこれだけ完璧に事を運んでいれば、必ず『面白くない』と思う三流の官僚どもが出てくる。大本営という名の、無能な害虫どもがな」
予感は、イージス艦のレーダーよりも正確だった。
坂上が紫煙を吐き出したのとほぼ同時刻。
ラングーンのビルマ方面軍司令部に、大本営からの「特命」を帯びた、一人の小柄な参謀が降り立っていた。
史実において、インパール作戦、ガダルカナル戦、ノモンハン事件など、数々の地獄を引き起こしながらも生き延びた『作戦の神様』にして『狂気の猟犬』。
辻政信を彷彿とさせる、冷酷無比な大本営参謀の影が、絶対不抜のチンドウィン・イージスに忍び寄ろうとしていた。




