EP 4
チンドウィン・イージス(ハブ構築)
大河チンドウィン。
ビルマとインドの国境を隔てるこの雄大な川は、史実において、日本軍が「補給線」という命綱を自ら切断し、狂気の餓死作戦へと足を踏み入れた『ルビコン川』であった。
昭和19年、春。
第15軍の先陣を切る部隊が、ついにこの大河の東岸に到達した。
兵士たちの顔には、決死の覚悟と、隠しきれない絶望が張り付いている。この川を越え、道なきアラカン山脈に突入すれば、二度と生きて祖国の土を踏むことはできない。誰もがそう悟っていた。
「……前衛部隊、渡河点に到着しました! 指揮官より、いかだの準備と渡河開始の命令を仰ぎたいとの通信です!」
伝令が、司令部天幕の坂上(牟田口)に報告する。
かつての牟田口であれば、「全軍、一気呵成に渡河せよ! 弾が尽きれば銃剣で、食料が尽きれば草を食って進め!」と怒鳴り散らしただろう。
だが、坂上真一は、泥コーヒーの入ったマグカップを机に置き、深く静かに命じた。
「渡河は中止だ。全軍、現在地にて停止。直ちに『前進陣地』の構築に移行せよ」
「……は? 停止、でありますか?」
伝令が目を丸くする。
「そうだ。俺は『ここ』を、本作戦の絶対的な兵站拠点とする。工兵隊と輜重隊を最前列に出せ。歩兵は彼らの指示に従い、塹壕を掘り、地下弾薬庫を作り、巨大な擬装網で空からの目(偵察機)を欺け。……スコップを握れ。ここからが本当の戦いだ」
命令は、無線の波に乗って全軍に伝播した。
兵士たちは戸惑った。進撃を旨とする帝国陸軍において、「川の手前で穴を掘って引きこもれ」という命令は異端中の異端である。
しかし、彼らの戸惑いは、数時間後には『驚愕』へ、そして数日後には『狂信的な歓喜』へと変わっていくことになる。
* * *
ジャングルの木々を切り払い、巨大な地下壕が次々と穿たれていく。
その一角、設営が終わったばかりの休憩所で、泥にまみれた若い一等兵が、フラフラと座り込んだ。
喉が渇ききっている。だが、生水を飲めば赤痢で死ぬと厳命されていた。
「おい、新兵。水だ。飲め」
不意に、古参の下士官が彼に水筒を差し出した。
「あ、ありがとうございます……!」
一等兵は震える手で水筒を受け取り、口をつける。
――美味い。
泥臭さも、カビの匂いもない。ただの透き通った水だ。
「班長殿……この水は一体……?」
「工兵隊の奴らが徹夜で作った『素焼きの濾過器』を通し、さらにドラム缶で完全に煮沸した水だ。司令官閣下の厳命でな、各小隊に専用の給水タンクが配備されている。……生水をすすって腹を下す心配は、もうないぞ」
「えっ……!?」
一等兵が驚愕していると、陣地の後方から、ギシギシと車輪の軋む音が聞こえてきた。
廃トラックのサスペンションと木材を組み合わせて作られた、あの高機動型の手押し車の部隊だ。牛や馬ではない。兵站の重要性を叩き込まれた輜重兵たちが、見事なローテーションで物資をピストン輸送してきたのだ。
「メシだぞ! 第一大隊、配給に並べ!」
炊事係の怒号と共に、ジャングルに『信じられない匂い』が漂い始めた。
「こ、この匂い……味噌……!?」
一等兵は涙をこぼした。
彼の手の飯盒に注がれたのは、内地から送られてきた鋸屑のような代用食ではない。
後方の安全な補給線から、リヤカー部隊によって最前線へ届けられた「温かい銀シャリ」と「乾燥野菜の入った味噌汁」、そして貴重な「塩」だった。
「食え。そして休め。司令官閣下は『腹が減っては陣地は作れん。睡眠不足では敵は殺せん』と仰っている。交代で必ず八時間の仮眠を取れ」
「う、うっ……うわぁぁんッ……!」
一等兵は、味噌汁をすすりながら、子供のように声を上げて泣き崩れた。
周囲の兵士たちも皆、泥だらけの顔をくしゃくしゃにして、無言で白米を咀嚼している。
彼らは、初めて「使い捨ての駒」ではなく、「人間」として、そして「国を守るための兵士」として扱われたのだ。
『牟田口閣下万歳……! 司令官閣下のためなら、俺は悪魔とでも戦えるぞ!!』
『ああ、ここは地獄じゃない。俺たちの城だ!!』
陣地のあちこちで、兵士たちの熱狂的な声が沸き起こっていた。
精神論ではなく、物理的な「水」と「飯」、そして「睡眠」が、帝国陸軍の兵士たちを、かつてないほど強靭な、狂気すら孕んだ『最強の防衛部隊』へと作り変えていた。
* * *
その夜。
完成しつつある地下の司令部壕で、坂上真一は一枚の巨大な戦況図を睨んでいた。
薄暗いランプに照らされたその図面には、彼が構築した陣地の全貌が描かれている。
最前列に、敵の侵攻を遅らせるための幾重もの鉄条網と地雷原。
その後方に、十字砲火を形成する機関銃座。
さらに奥には、野戦病院と、巨大な弾薬・食料の備蓄壕。
それらを繋ぐ、毛細血管のような連絡交通壕と、リヤカー部隊が駆け抜けるための補給路。
上空から見れば、ジャングルの植生に擬装され、何も見えないだろう。
だが、その地下には、現代の合理主義と、数万の将兵の血の滲むような努力が結晶化した、絶対不抜の要塞が息づいている。
(……まるで、イージス艦のCIC(戦闘指揮所)だな)
坂上は、満足げに唇の端を吊り上げた。
各部隊からの情報が、伝令の有線電話を通じてこの司令部に集約され、弾薬と食料がシステマチックに分配されていく。
兵站という名の『システム』が、ついにこの狂気のジャングルに完成したのだ。
「閣下。佐藤師団長より通信です。第31師団の担当区画、防衛陣地の構築完了。兵の士気は……過去最高、異常なほどに高い、とのことです」
久野村参謀長が、どこか恐れ慄くような声で報告する。
彼もまた、兵士たちが牟田口(坂上)に向ける狂信的なほどの忠誠心の熱量に、当てられていた。
「ご苦労。全軍に伝えろ。これより我が軍は、この『チンドウィン・イージス(防衛陣地)』にて、徹底的な迎撃態勢に入る」
坂上は、地図上のインパールの文字に、太い赤鉛筆でバツ印を書き込んだ。
「さあ、盤面は整ったぞ。スリム将軍。……来い。大英帝国の誇る最新鋭の機甲部隊を、ジャングルの泥ごとすり潰してやる」
理性の化け物が築き上げた、無敵の兵站要塞。
彼らの前に、史実において日本軍を壊滅させたイギリス軍の巨大な影が、ついにその姿を現そうとしていた。




