EP 3
宰相の影(東條からの電報)
チンドウィン川の手前に構築されつつある、第15軍の巨大な前進陣地。
その最深部に設けられた司令部天幕に、暗号取扱所の通信将校が血相を変えて飛び込んできた。
「閣下! ラングーンの方面軍司令部経由で、大本営より『特電』であります!」
通信将校の震える手から電文を受け取った久野村参謀長が、一読するなり顔面を蒼白にさせた。
「……な、なんと無茶苦茶な……」
「どうした、久野村。幽霊でも見たような顔をして」
坂上真一(牟田口)は、急造の木製デスクで陣地の設計図を引きながら、視線も上げずに尋ねた。傍らには、いつものマグカップに入った泥コーヒーが湯気を立てている。
「東條英機内閣総理大臣・兼陸軍大臣からの、直接の親電に近い内容であります。……『国内ノ士気高揚ノタメ、来タル天長節(天皇誕生日)マデニ、インパールヲ陥落セシメヨ』と……!」
天幕の中にいた幕僚たちが、一斉に息を呑んだ。
天長節とは、4月29日。
現在地からインパールまでは、道なきジャングルとアラカン山脈を越えて数百キロもある。しかも、陣地構築のために史実より作戦開始を遅らせているのだ。
期日までにインパールを落とすなど、文字通り「兵士に不眠不休で山を走らせ、補給ゼロのまま要塞に素手で突撃しろ」と言っているに等しい。
「……ふざけるなッ!!」
怒号が響いた。
ちょうど陣地の視察から戻り、天幕に入ってきた第31師団長・佐藤賢了である。
泥にまみれた猛将は、軍刀の柄をへし折らんばかりの力で握りしめ、顔を真っ赤にして激怒した。
「大本営の阿呆どもは、地図上の定規の長さだけで戦争をしているのか! 現場の地形も、兵の疲労も、一切無視して『誕生日のお祝いに敵の首を取ってこい』だと!? 兵隊は、東條の点数稼ぎのための玩具ではないぞ!!」
佐藤の怒りはもっともだった。
戦局の悪化に伴い、東條内閣の国内支持率は急落している。配給すらまともにできない窮状から国民の目を逸らすため、何がなんでも「華々しい大勝利のニュース」が喉から手が出るほど欲しいのだ。
その焦りが、この狂気じみた督戦状の正体であった。
「司令官閣下! 断固として抗議の電報を打つべきです! 『補給網の構築未完了につき、期日までの進撃は不可能』と!」
佐藤が坂上の机に両手をつき、血走った目で訴えかける。
「……落ち着け、佐藤」
坂上は、鉛筆を置き、ゆっくりと泥コーヒーを一口すすった。
その顔は、佐藤とは対照的に、不気味なほど冷え切っていた。かつて防衛省の冷暖房完備の会議室で、理不尽な要求を突きつけてくる大物政治家や財務官僚を相手にしていた時と同じ、「論理の化け物」の顔だ。
「ここで『不可能です』と馬鹿正直に打電すればどうなる? 東條は激怒し、方面軍の河辺司令官を突き上げ、最悪の場合は私や前線の師団長を『非国民の臆病者』として更迭するだろう。そして後任には、喜んで兵を死地に追いやるイエスマンが送り込まれてくる」
「くっ……! では、この理不尽な命令に従い、全軍に死の行軍を命じると仰るのですか!?」
「そんなわけがないだろう」
坂上は鼻で笑い、引き出しから官給品の便箋を取り出した。
「いいか、佐藤。官僚組織において、上からの理不尽な命令に『NO』と答えるのは三流だ。……超一流は、表面上は『YES』と答えながら、実質的に『一歩も動かない』状況を作り出す」
「な……?」
佐藤と久野村が、ぽかんと口を開ける。
「久野村。ペンを持て。大本営および東條閣下への『天長節の祝電』兼『戦況報告』を口述筆記させる」
「ハ、ハッ!」
坂上は、目を細め、現代の市ヶ谷で磨き上げた『霞が関文学』の極致を、昭和の密林に解き放った。
『――天長節ノ佳き日ヲ迎エルニ当タリ、第15軍ハ、インパール『方面』ニオケル敵ノ主要防衛拠点網(前進陣地)ヲ完全ニ制圧・構築セリ。コレハ即チ、インパール攻略ノ絶対的足場ヲ固メタルモノデアリ、本作戦ノ『実質的勝利ノ第一歩』トシテ、陛下ニ謹ンデご報告申し上げ奉ル――』
久野村のペンが走る音が、静まり返った天幕に響く。
『――尚、残敵ハ我が軍ノ威風ニ恐レヲナシ、山脈ノ奥深クニ逃走中ナリ。皇軍ハこれヨリ、必勝ノ陣形ヲ『維持』シツツ、雨季ノ到来ヲモッテ敵ヲ泥濘ニ沈メ、完全包囲ノ罠ニ嵌メル所存ナリ――』
書き終えられた電文を見て、佐藤は目を剥いた。
一見すると、勇ましい「大勝利の報告」である。しかし、よくよく読めば、インパール本市を陥落させたとは一言も書いていない。「インパール『方面』の拠点を制圧(自分たちで陣地を作っただけ)した」と言い換えているのだ。
しかも、「必勝の陣形を維持(その場から動かない)」し、「雨季を使って罠に嵌める(雨が降るまで陣地に引きこもる)」と宣言している。
「閣下……これは……」
佐藤の顔に、驚愕と、そして悪びれた笑みが浮かび始めた。
「東條が欲しいのは、国民を騙すための『景気のいい見出し』だ。この報告書なら、新聞は『インパール方面を制圧! 実質的勝利!』と大文字で書ける。手柄は東條のものだ。我々は一歩も動かずして、あいつらの顔を立ててやったのだ」
坂上は、便箋を指先で弾いた。
「政治家という生き物は、手柄さえ手に入れば、現場の泥臭い実態などどうでもいいのだ。この祝電を送っておけ。東條は満足して、しばらくは何も言ってこないはずだ」
「……見事。見事としか言いようがありません、牟田口閣下」
佐藤賢了は、深々と頭を下げた。
もはや彼の目に映っているのは、精神論を振りかざす無能な上官ではない。巨大な国家の狂気を、知略とペン一本で手玉に取る、底知れぬ怪物であった。
「誉めている暇があったら、現場に戻れ佐藤。書類上の時間は稼いだが、雨季は容赦なく近づいている。そして、イギリス軍の偵察機が、この陣地の上を飛び始める日も近いぞ」
「ハッ! 直ちに防空壕の補強と、擬装網の展開を急がせます!」
天幕を出ていく佐藤の力強い背中を見送りながら、坂上は小さく息を吐いた。
背中の仁王が、ニヤリと笑った気がした。
(待っていろ、スリム将軍。政治屋のお遊びはこれで終わりだ。ここからは、本物の純粋な『殺し合い(戦争)』の時間だ)
史実の悲劇のタイムリミットを、現代の「官僚の盾」で完全にへし折った坂上。
彼らが築き上げる前代未聞のジャングル要塞の全貌が、いよいよ明らかになろうとしていた。




