1.北条ジュリア
悪夢は繰り返す。血まみれの惨夜を。……あの夜から、もう10年にもなる。
★
「気持ち悪い……」
ディナー中、リサはそう吐きつぶし、口元に手をやった。桜色だった顔色に血の気はなく、脂汗がじっとりと額を濡らしている。
「大丈夫? 病院に行こう、すぐタクシーを呼ぶからね」
リサの恋人ハンスはそう言って、彼女リサの肩を優しく抱きかかえた。
その時ふと、床に赤い点が落ちた。
両面を見開いたリサは、口元を押さえハンスの襟元を鷲掴む。ハンスが見やると、リサの指の間から赤い筋が流れていた。ハンスが声をあげる間もなかった。
突如、リサの指の隙間から鮮血が噴き出す。
「リサ!」
バケツをひっくり返したような、おびただしい血が床一面に広がる。リサは力なくその場に倒れ伏せ、吐瀉物と共に血泡をふいた。
店員が悲鳴をあげ、客が驚き立ち上がる。おびただしいほどの返り血をあびたハンスは、目の前の〔何か〕を脳内で必死に整理しようとしていた。痙攣するリサの口から這い出した、〔何か〕を。
ゼリーのようなその〔何か〕は、まるでバカンス中の海水浴客のように血の海をのたうち回っていた。
「誰か! 救急車を!」
誰かが叫んだその声で我に返ったハンスは、とっさにそのゼリーを踏みつぶした。水風船が弾けたような音と共に、〔何か〕の体液が血の海に溶けていったのだった。
★
夜空の月がやわらかな光をおとす。
喉の渇きで目が覚めたエレナは、コップ片手に冷蔵庫を開けた。レモンとハーブを仕込んだピッチャーボトルを傾ける。ひんやりとした爽やかな香りに少し目が覚めた。
リビングを見やると、ゴハンとパンがソファで静かな寝息をたてている。エレナは飲みもって、空いたソファに腰を落とした。抱えた膝に顎を乗せ、2人をまじまじと見る。
パンは長い足がソファから大きく飛び出していた。その足はエレナの顔よりずっと大きく、整ったきれいな形をしている。
対面のソファでは、ゴハンが寝息をたてていた。だらしなく落ちたその腕は鋼のように引き締まっている。革張りのソファは大きなサイズだったが、ベッドにするには男2人には小さすぎるようだった。
(2人用にベッドが必要ね)
エレナがそう思った時のこと。ゴハンが大きく背伸びをし、渋く目をこすった。エレナに気付き2度見する。暗闇のエレナに驚いたようで、ゴハンは目を丸くした。
「……どうしたんだ? 眠れない?」
エレナは軽く首を横に振った。
「ううん、狭そうだなって思って……」
それにゴハンが嬉しそうに微笑み返し、手をひらつかせる。
「平気平気。 俺、木の上でも寝れちゃうよ?」
「なにそれ、その寝相だとすぐ落ちちゃうわよ」エレナが目を細め、くすぐったげに返した。
2人が笑いあうのを断つように、パンが身じろぎ呟いた。
「……狭い」
でしょうね、と言うようにエレナは頷き返す。そしてふとした。
エレナのベッドはキングサイズの特注品だ。大の男2人が寝ても、今よりずっと快適に眠れるサイズだ。
(私なら、ソファ1つで十分事足りるわ。私はソファで寝て、ゴハンとパンはベッドで一緒に寝たらベストかも)
エレナは心の中で納得に頷いた。
「ねぇ、よければ私のベッドで一緒に寝る?」
その一言に、ゴハンとパンの動きが止まった。何だか妙な空気だ。
「……そりゃ~もう俺チャン大歓迎! だけどね、なぁパン?」
パンは返さず、ソファに座り直し呆れたように頭を深く垂れた。ため息ひとつ、エレナをじろりと横目見る。それはなんとも魅力的な仕草だったが、目は口ほどに物を言うもので、エレナは一瞬考え、驚きに顔を赤らめた。
「ち……違う違う! そういう意味じゃなくって……」
言い終える前にパンがやれやれとソファに寝直し、ゴハンが揚々にエレナを立たせた。
「さぁさぁ、お子ちゃまの夜更かしはここまで!」言って、そのまま電車ゴッコのように寝室まで連行する。
「誤解だってば! そういう意味じゃ……」
「ハイおやすみ~」
逃げるように閉じられたドアに、それ以上弁明の余地はなかった。
★
エレナは妙な夢をみた。赤ちゃんがずっと泣いている夢だ。
誰かのすすり泣きがきこえる。血まみれの自分にエレナは両耳をふせ、その場にしゃがみこんだ。
……・……
太陽が顔を覗かせ、壊れかけの目覚ましが今日も朝を告げる。あまり寝付けなかったエレナは、自分の頬を両手で軽く叩いた。
「おはよ~……」
親友ミシェル以外に、朝の挨拶をするのは何年ぶりだろうか。リビングで朝食の準備をするゴハンとパンが挨拶を返す。
「よく寝れた?」とゴハン。
エレナは半ば独りごちるように呟く。「変な夢見た」
「へえ、どんな夢?」何気ないゴハンの言葉に赤くなったエレナは「知らない」と一言だけ返し、ゴハンに向き直った。
「あのね」エレナが腰に手を当て、つっけんどんに続ける。
「昨夜の、そういう意味じゃないから! 私がソファで2人がベッドって意味なんだからね」
ゴハンが百も承知の笑顔で軽くいなす。
「なーんだ残念! 朝食作ってあるから食おうぜ」
その手の先には随分豪勢な朝食が輝いていた。
トマトとレタスの生ハムサラダ、黄金色のとろとろのスクランブルエッグ。パリッとジューシーそうなソーセージに、野菜とチーズたっぷりのホットサンド。おまけにキャラメリゼプリンまで添えられてある。
「わあ! すごい、とってもおいしそう! 作ってくれたの? ありがとう」
食欲旺盛なエレナは思わず感激の声をもらす。
「ねえねえ、これニンスタにアップしてもいい?」
ニンスタとは正式名称ニンスタグナムという、写真部のエレナも愛用している写真特化型SNSである。さておき、ゴハンは笑顔で頷いた。
「まだフルーツ切ってる途中だからさ、先に顔洗っといで」
ゴハンのありがたい言葉に、エレナはご機嫌に洗面台へ向かったのだった。
顔を洗い、雲のように柔らかいタオルに顔を埋める。ふと、そのいい香りに顔を上げ首をかしげた。
「? こんなにいい匂いの柔軟剤だったっけ……?」
言いもって洗濯籠をみると、洗濯かごは空だった。棚の中には見たこともない洗剤たちが並べてある。……まさか。
エレナはタオル片手に、急くようにバルコニーへ出た。
バルコニーでは、洗濯物が爽やかな風になびいていた。エレナの白フリルつきのピンクレースのブラジャーとショーツも当然のようになびいていた。さらに追い討ちに、その隣には男性物の下着が干してあった。
その光景に絶句したエレナが、信じられないものを見るかのように2人に振り返る。ゴハンは大慌てで首を横に振り、新聞を広げてくつろぐパンを親の敵のように指差した。
「パンーッ!」
タコのように顔を赤くしたエレナの声に、パンがちらりと新聞を下げる。思い当たる節がまったくない顔だ。
「何! 勝手に! 洗濯! してるのよ!!」
エレナは吼え、新聞を奪い引き裂き、怒りままに床に叩きつける。
「おおこわっ、俺は止めたんだぜ~」と悪びれもなく見物するゴハン。
パンがひらめいたように気付き、「ああ」と軽く返す。
「安心しろ、ブラジャーはワイヤーが歪まないよう、専用洗剤で手洗いしてある」
エレナが怒涛に言葉に詰まる。詰まりきって、こんな時でも華を添えるパンに、勢いは追撃されるようにしぼんだ。こんなハンサムなら恋人にも事欠かないだろうし、この部屋が埋まるほどの下着もみてきただろう。自分のことも完全に子ども扱いだから、こういうことができるのだと。
「……私も女の子なのよ、恥ずかしいんだからやめてよ……!」
言って、恥ずかしさと情けなさからなんだか涙が出そうだった。
驚くことに目の前の無神経は、そのしおらしい様子で自分の過ちに気付いたようだった。椅子から立ち上がり、エレナの肩に手をやる。大きな手だ。慣れた手つきでエレナの涙をぬぐう。その仕草にエレナの心臓が跳ねた。
「すまない、勝手なことをした」
「も……いい、やっちゃったあとだし、わかってくれたならいいから……」
エレナは言って、諦めるように肩をすくめてみせた。「次からは気をつけてね」
パンが誓ったように頷き返す。
「わかった。次からはいつもの柔軟剤を使おう」
「ふざけてんの?!」
「それよりエレナ、大事な話がある」
パンが低く、澄んだ声でエレナを見つめた。
「何言って……!」言いかけ、パンの真面目な面持ちにもごつく。「……な……何」
「私達は今日から、君の通うセリオン学園に〔教師〕と〔生徒〕として潜入する。そこでだ」
パンは言って、TVボードに立てかけてあるファイルから1枚の写真を差し出した。
「……この生徒と接触し、友達として動向を探ってほしい」
エレナは写真を手に取り、その女生徒を見た。
ゴスパンクな衣装に、縁起の悪いグリーンの髪が目立つ。見た目は幼女そのものだが、できるだけ関わり合いになりたくない意味で見覚えのある女生徒だ。
「たしか……北条って子よ。この子がどうしたの? ……まさかエイリアン?」
パンは首を横に振った。
「私達がまずセリオン学園に目をつけたのも、この女生徒と接触を計るためだ。こう見えて北条ジュリアは1000以上のエイリアンを虐殺している」
それにエレナが仰天の声をあげる。パンはかまわず続けた。
「北条ジュリアがどうやってエイリアンの判別を行っているかは不明だが、数が数だけに問題になっている。【北条ジュリアがなぜ、どうやってエイリアンを虐殺するのか】が知りたい。調査には危険が伴う可能性があるから、十分に注意してくれ。調査が危険だと判断したら、すぐに手を引くんだ」
パンは言って、エレナの首から下がったレンズのペンダントを指差す。
「使い方は伝えた通りだ。そのレンズごしにエイリアンを判別できる。あと……」
パンのセリフにかぶせるようにエレナが続けた。
「レンズごしに光をあてると、悪いエイリアンにダメージを与えることができる、よね」
それにパンが少し笑み、ビンゴとでもいうように指を鳴らし返す。その仕草にエレナはまた胸が鳴った。
「ねぇ食事にしないー? 俺もうお腹ペッコペコ」
真剣な雰囲気さておき。ゴハンのその言葉に応えるかのように、エレナのお腹も鳴ったのだった。
★
森に囲まれた学校、セリオン学園は中等部と高等部があり、莫大な広さと生徒数を誇っている。樹木がつたう赤レンガ造りの門構えを抜けると、まず樹齢500年はありそうなコケまみれの樹木達が生徒を迎えるのだ。
奥に続く歴史ある校舎は魔法学園のような風情で佇んでいる。続く足元の緑豊かな芝生は猫の背のようにしなやかで、毎日ピクニックしても飽きがこないだろう。
そのセリオン学園高等部1年のエレナは、ちょうど真ん中の学年にあたる。
エレナは友人たちに挨拶をかわしながら、自分のロッカーに鞄を押し込んだ。その時を待ってましたといわんばかりに写真部で撮った写真が数枚こぼれ落ちる。いつものようにそれを集め一緒に押し込んだが、ロッカーは腹いっぱいのようで次々と荷物が床にこぼれた。
壊れたけど直すのが面倒なキーホルダー、あまりおいしくないキャンディー、あまり聴かなくなったCD、そしてまた写真。
ごく稀に抜き打ちで様子をみにくるマリア叔母さんの雷が落ちるので、自宅は掃除には抜かりはない。だが学園のロッカーはエレナのズボラさが如実に出ていた。
「しまった、いいかげん片付けなきゃ」
エレナは大きく抱え、全部押し込んだ。盛り上がった荷物をさらに押し込む。中から押し返される。また背中で押し返した。やっと扉が閉まった時だった。
「コラっ!」
その声にエレナの肩が跳ねた。階段を見上げ、その声の主に挨拶を返す。
「……あっおはようミシェル!」
白のアッシュ混じりのカラス色のハネッ毛が印象的なミシェルは、細身の高身長かつ男前な発言から女生徒の人気の的だ。
仕事の関係で常に黒のパンツスーツ姿なのだが、それがまた人気を博している。エレナにとっては幼い頃から姉のような親友であり、いつだってエレナの一番の理解者だ。
「おはよエレナ。ちゃんと掃除しなきゃダメだよー?」
ミシェルは手をひらつかせ、エレナの隣のロッカーに鞄を入れた。ふと、ミシェルの人差し指がエレナのレンズをつつく。
「どうしたのこれ、可愛いペンダント」
「あっ、これはね……」
エレナが言いかけ、宙に目が泳ぐ。このレンズは国家密命にかかわる重要アイテムなのだ。
「……可愛いでしょ!買ったんだ」
エレナはそう笑顔ではぐらかした。
大好きなミシェルを巻き込んで、万一があってはいけない。エレナは事が落ち着いたら、きっと話せる日がくると思った。それまでは、いつもの自分でいたかったのだった。
幼馴染のミシェルは、エレナがうそをつく時のささやかな癖も熟知していた。その癖が今まさに、エレナに如実に表れている。ミシェルはエレナの秘密を尊重し、眉をハの字に苦笑した。
「……ね、エレナ。まだ時間あるし何か飲まない? あたしノドかわいちゃった」
ミシェルの思いもつゆ知らず、エレナは笑顔でうなずいたのだった。
★
校舎ぞいの購買は、はげたペンキが古臭くも、生徒達の憩いの場だ。先客の生徒達が会話に花を咲かせている。朝練とは名ばかりのサッカー大会を横目に、ミシェルが自販機に人差し指をおよがせる。紅茶を飲むエレナに、ふと不安が影をさした。
(……もし、ミシェルがエイリアンだったら?)
エレナは疑惑をふりきるように頭をふった。家から見下ろしたのレンズの光景が頭をよぎる。人に擬態するエイリアンを、見分けるレンズ。エレナはお守りをにぎりしめるように、その虹色のレンズを手に取った。そしてひと呼吸。
(……気になったままだと気持ち悪いし、もしエイリアンだったとしても、ミシェルはミシェルだもの)
エレナは意気込み、レンズをかかげミシェルを視た。
おだやかにゆらめく虹色の先……、いつものミシェルがいちごみるくの栓を開けている。ミシェルが人間だったことに、エレナは安堵の溜息をついた。
体育館横の階段に腰かけ、いつもの2人の時間が穏やかに流れる。
ミシェルがふとエレナを横目見た。エレナはいい事でもあったのか、さっきからずっと笑顔だ。ミシェルはそれに思わずほころんだ。ほころんで、ふと思いふける。
長年の付き合いがあると、相手のちょっとした癖や仕草から色々わかるものだ。ましてやミシェルは、エレナが赤ちゃんのころから家族のように過ごしてきた。昔はなんでも話してくれたのに、いつの間にかこの手を離れ、一人の女の子になっていると感じたのは最近のことではない。エレナの保護者よりエレナを知るミシェルは、それが喜ばしくもあり、少し寂しくもあった。
「ああそうだ、ねぇミシェル。訊きたいことがあるんだけど……」
エレナはやおら続けた。
「ミシェルは【北条ジュリア】さんと同じクラスでしょ? どんな子なの?」
ミシェルは目を丸くした。
「北条ジュリア? なんでまた?」
エレナはええと、と返す。
「気になっちゃって……その、目立つ子だけど全然知らないから」
少々まごつくエレナにミシェルは腕を組む。組んでひとつ唸り、端的にまとめた。
その内容は想像以上にぶっ飛んだものだった。身長が低めで、見た目は園児か小学生ほどの鉄仮面幼女。これはエレナも知っていた。
「それだけじゃないよ」とミシェル。
【北条ジュリア】は天才的な頭脳をもつ特待生で、テストは常に満点。暴力事件が絶えないが、なんでも後見人がセリオン学園の創始者の関連企業の人間のため、学園側も退学にはできないらしい。
自身の身長を馬鹿にした上級生の男子の頭をギターをフルスイングして殴り飛ばしたり、わざと足をかけてきた女子のデスクを目の前で叩き割った……などなど。
「まあ、どれもこの目で見ただけだから、これ以上の逸話はざくざくあるだろうね」
と、ミシェルは肩をすくませ軽く締めくくった。
「うそ、本当にヤバい子じゃない」エレナは顔を青くし、それ以上言葉にできなかった。
「ああ、うわさをすれば、ほら……」
ミシェルが声を潜ませ、校舎入り口を顎でさす。その先で、まるでモーゼのように人だかりが割れた。
緑の髪が目立つ、全身凶器のような漆黒のゴスパンク少女……北条ジュリアのおでましだ。生で見るのは久々だった。相変わらず色白で顔も小さく、暴力事件とは裏腹にまるでお人形のように可憐だ。
「謹慎とけたみたいだね」とミシェル。
「謹慎?」とエレナ。
ミシェルは視線は北条ジュリアままに、ひとつ頷いた。
「うん。先週、担任をギターで殴って腕を折ったらしいよ。あたし、先週バイトだったから見てはいないけどね」
「ああ、あの日に……」エレナは心ここにあらずに返した。
〔何百ものエイリアンを虐殺している〕のは確実だろう。その身から溢れる異様な雰囲気に納得できる。しかし、〔どうやってエイリアンの判別を行っているかは不明だが、特に害のないエイリアンまで見境なく殺している〕には疑問が残った。
人間100人ぶっ飛ばしたうち1人がエイリアンでも成立する話だ。
「あたし思うんだけど」ミシェルが視線はジュリアままに物憂げに続けた。
「北条さんってやっぱり、例の事件のせいでああなちゃったんじゃないかなって」
「例の事件?」とエレナ。
ミシェルは囁くように告げた。
「【北条家虐殺事件】だよ。北条さんはあの事件の、唯一の生き残りらしいよ」
【北条家虐殺事件】。それはエレナも耳覚えのある、言語に絶するほどの残虐な怪事件だ。
10年前、深夜に何者かに押し入られた北条一家が惨殺された怪事件。母親は生きたまま脳髄を抜かれ、父親も生きたまま首をねじ切られ……3人いた子どものうち2人は行方不明だが、2人分の致死量の血液と歯が、天井一面に固まっていたそうだ。犯人は今だ不明で、その常軌を逸した反抗内容は当時社会問題にもなったほどだ。
エレナもまさかその唯一の生き残りが北条ジュリアだとは知らなかった。なぜなら、その報道はゴシップ誌やメディアを連日占めたにもかかわらず、急な報道規制で、まるで最初から事件がなかったかのように一切の続報が消えたからだ。
その異様なまでの切り替わりに、当時子供心ながら不気味に感じたのを覚えている。
「バイト先じゃ有名な話だよ、人の口に戸は立てれないもんだね……」
ミシェルはため息ひとつ、仕切り直しに続けた。
「……そういや代わりの先生が今日から来るらしいけど、飛びぬけたハンサムらしいよ! エレナも職員室に見に行く?」
ハンサムは間違いなくパンのことだろう。どうりでいつも賑やかな校庭が寂しいわけだ。
〔調査に危険と判断したら、すぐに手を引くんだ〕、パンの言葉を思い出す。もう十分危険を感じていたが、接触しない限りは調査は平行線だ。
さて、どうしたものか。
★
爽やかな風に乗って、お昼のベルが鳴り響く。
やれ食堂だ弁当だと一気に賑わうクラスよろしく、エレナも机からお弁当の紙袋を取り出した。
「転校生のゴハンくん、すっごいカッコイイらしいよー! アイドルみたいなんだって!」
「私、パン先生見たけどハンサムすぎてヤバい……生きた芸術品初めて見た……」
黄色い声に耳が動く。ゴハンとパンは上手く潜入したようだ。もしその2人と一つ屋根の下だと噂が回ったら、とんでもなく面倒くさそうだ。転校生と新任教師で話題が持ちきりの中、エレナは北条ジュリアとどう仲良くなるか考えていた。
情報通のミシェルいわく、北条ジュリアはお昼は校舎裏で一人過ごしているそうだ。エレナは普段ミシェルとお昼を食べるのだが、当のミシェルからのメールで、仕事で急な呼び出しで早退したとの連絡があった。
ミシェルがいつも黒のパンツスーツ姿なのは、今日のように急な仕事が入ることが多いためだ。慣れた事とはいえ、こういう日は決まって寂しいのだった。
ともかく、ミシェルも不在な今こそ北条ジュリアと接触を計るチャンスだ。天気なり行事なり気軽な話でもふって、北条ジュリアとお友達にならなければ。
紙袋の中身は今朝の朝食の余りだ。とんでもなくおいしかったので、これをおすそ分けするのもいいかもしれない、とエレナはよしと立ち上がる。
エレナは紙袋片手に、教室を後にしたのだった。




