2.雨上がり、コンビニにて
青々とした木々がレンガに鮮やかな影を落とす。
気持のいい爽やかなそよ風と緑の香りを胸に、エレナは渡り廊下からそそと外れ、校舎の脇に入った。
色とりどりのブーケのような花壇やハーブ園を抜けた先……大きな樹で陰る校舎裏に、北条ジュリアはいた。
たたずむ北条ジュリアの足元に、小さな真っ黒の毛玉が転がっている。それはよくよく見ると小さな子猫だった。子猫用の猫缶とミルクも隣に添えてある。綿毛のような毛並みからしてまだ赤ちゃんだろうか、針金のようなシッポをピンと立て、北条ジュリアの鈍器のようなブーツに擦り寄っている。
「わぁ可愛い」
思わず漏れたエレナのその声に、北条ジュリアは応えなかった。
「ねえ、この子のお名前はなんていうの?」
北条ジュリアは返さない。まるでこちらが見えていないかのような清々しいほどの無視だ。
気まずくなりそうな間を取り持ったのは子猫だった。オモチャみたいな可愛い声でエレナに擦り寄る。エレナはついついその細い首筋をかいた。
動物が好きな人に悪い人はいないという。北条ジュリアも心根はいい人なのかもしれない、とエレナは思った。食べやすいようにほぐしてある猫缶と、子猫の安心しきった様子に肩の力が抜けた時だった。
「何か用」
氷のように冷たい声に、エレナは心臓を掴まれた気分で顔を上げた。北条ジュリアの闇色の瞳がエレナを冷ややかに見下ろす。
声色からして歓迎はされていないのは確実だった。北条ジュリアの背にはオニキスのようなギターが黒々と輝いている。
まるで処刑執行人の巨大斧のようだ。
「えぇと……」エレナはまごつき唾を飲む。「私、エレナっていうの。一緒にお昼食べない?」
エレナは自慢の紙袋を突き出す。我ながらなかなかの名案だ。足元で子猫がよこせといわんばかりにせっついた。
「邪魔」北条ジュリアは1mmも動じず続ける。「どっかいって」
たったそれだけだったのに、エレナは蛇に睨まれたような感覚を覚えた。脳みそが〔あ、こりゃやばい奴だ〕と警笛を鳴らす。
「ごめん……」
エレナは消え入りそうな声で、刺激しないようにそっと後ずさりし、ゆっくり踵を返した。
角を曲がり、そのまま壁に背をつく。目の前の穏やかな菜園が風に揺れる。小鳥たちの穏やかなさえずりに力が抜けた。
地獄の底から見つめられたかのようだった。なんだろう、あの底からのぞく闇色は。まるで死神だ。
うつむき、ふと胸元のレンズの可能性に目を見開く。北条ジュリアがエイリアンという可能性も、あるかもしれないと。
(……そうよ、あそこまで異様な雰囲気は逆におかしいもの)
エレナは口の中で呟き、角から覗くようにレンズをかかげて北条ジュリアを見た。
おだやかにゆらめく虹色の先、北条ジュリアが子猫をなでている。……北条ジュリアは人間だ、けど……。
(……んん? 何かしら、あれ……??)
どういうわけか、北条ジュリアの下腹部だけがまるでスリガラス越しのように霧がかって見えた。
その時だった。砂利の音と背後の気配に、エレナは目覚めたかのように振り返る。
「ゴハンの言ったとおりだ、探したよ……」
見覚えのない男子が思い詰めた表情でエレナを見つめていた。気弱そうな上級生だ。その男子は重々しげに口を開いた。
「……あの、君だよね? ゴハンからきいたんだけど、写真部兼オカルト研究部の部長だって……」
エレナはそれに目をぱちくりさせ、おまけにもうひとつぱちくりさせた。いつ写真部がオカルト研究部兼用になったのだと。
ゴハンの名前にあえてツッコミを入れず、エレナは怪訝にたずね返す。
「……何の用?」
「俺、高等部2年のハンスっていうんだ、その……。あの、相談したいことが、あッて……ッ」
喘ぐように声がうわずり、歯を食いしばる。とたん堰を切ったように涙があふれ、涙がレンガに落ちた。
「助けてほしいんだ……頼む!」
ただごとではない様子のハンスに、鳥たちが逃げるように空へと消える。ハンスは矢継ぎ早に声を荒げた。
「本当なんだ、警察からは精神科をすすめられるし、幻覚だと誰もまともにとりあっちゃくれない! でも俺は確かに見たんだ、あの透明なゼリーの生き物がリサを……ッ! リサの口から、変な生き物が!!」
「ちょ、ちょっと待って、何の話?」
焦ったエレナは、意味不明に喚くハンスの頬にハンカチを当てる。どうしたものかと、ふと目と鼻の先の旧校舎に目が行く。
「えっと……、ここじゃ目立つから、部室で話しましょ。さ、顔を上げて」
旧校舎へと消えた2人の背を、北条ジュリアは黙って見つめていた。
★
部室前ではゴハンがオニギリを両手に口いっぱいに頬張って座り込んでいた。エレナ達を見るやいなやペットボトルのお茶を一口、腰を上げる。
「ちょっと、写真部兼オカルト研究部ってなによ」
エレナが腰に手を当て、開口一番にゴハンに口を尖らせる。ゴハンは悪びれる様子もなく、いたずらっ子の笑みでウィンクを返した。
「へっへへ、ちょっと盛っちゃった。記念すべき相談者第1号だぜ、部長チャン!」
写真部の黒塗の机が、日光を淡く照り返す。ゴハンは人目をさけるように遮光カーテンを閉め、手洗い場の縁に座った。エレナとハンスは向かい合って、木製の椅子に腰を落とす。ハンスは膝に祈るように硬く握られた両手を見つめていた。
「その……」
エレナが言葉をさぐる。
「写真部兼……その、オカルト研究部? に何の相談?」
ハンスのかたく握り締めた拳に涙が落ちた。
「……リサが……。恋人のリサが……」
★
事のなりゆきをすっかり聞き納めたエレナは、驚愕ままにゴハンを見やった。ゴハンは事ともせず鼻を掻いている。
「リサさんの一命はとりとめたものの、昏睡状態じゃなあ……」と他人事のように呟くゴハン。
「リサさんに最近何か変わったことは? 新しい友達ができたとか、変なもの食べたとか」
ハンスは探るように考え、ふと思い出したようにつぶやいた。
「そうだ、ダイエット……。リサはダイエットを最近やり始めて、すぐにどんどん痩せて……3ヶ月で110キロから45キロになって、……その矢先だったんだ」
しぼむように言葉尻が消え、しまいに黙り込む。
「えっ! 3ヶ月で110キロから45キロって、普通ありえないわよ」とエレナ。
言って、顔色を伺うようにハンスを見る。
「それは、どんなダイエットだったの……?」
ハンスは床に涙を落とし、悔やむように口を開く。
「リサは【スラムで買ったダイエット薬】を使ってた。雨の日だけ現れる、【白いスーツの男】から買えたって……」
その言葉にゴハンが没我の境に目を見開く。
「白いスーツの男?」
同時、空気を裂くようにベルが鳴った。お昼休みが終わったのだ。ひとつ間があった。ゴハンは顎先をつまんで少し考え、手短に続ける。
「ハンス、リサさんの件は俺たちが調査を続けるよ。わかったことがあったら必ず報告する。
売人はマフィア系と繋がってる可能性が高いから、その間ハンスはリサさんに変わった訪問者が来ないか十分警戒してほしい。
もちろんハンスも、動くゼリーはここだけの話として胸に納めてくれ。売人の耳に届くと危険だ」
ハンスは戸惑ったものの、確信めいたゴハンの瞳に目が覚めたように頷いた。
「わかった、リサのそばにいる。……ゴハンにエレナ、信じてくれて、ありがとう」
その真剣な様子に、エレナはかける言葉もなくハンスの背を見送ったのだった。
…
静まり返る写真部に2人。
いつもの軽いノリが失せたゴハンの背は、椅子に座っていてもなんだか大きく感じた。その風情は学年が近いとはいえ、男子というより男性だ。筋肉の目立つ腕と喉仏の出っ張りに、同級生の男子とは違う大人を感じる。
「……まいったなぁ……」ゴハンは思案に沈んだ様子で、罰が悪そうにひとりごちた。
何がまいったのだろう、とエレナはゴハンの動きを待つ。ゴハンは腕を組み、少しうなだれた後、意を決したように顔を上げた。
その真剣な眼差しにエレナが無意識に姿勢を正す。
「エレナちゃん、今朝お願いした【北条ジュリアの調査】は一旦保留にしよう。俺とパンはしばらく調査に当たるから、イイ子でお留守番できるかな?」
そう言うゴハンは、いつものひょうひょうとした笑みに切り替わっていた。あっけにとられるエレナの手をとり、ゆびきりゲンマンに続ける。
「危ない場所には、絶対行かないこと~」と。
「もう。子どもじゃないんだから」
エレナは恥ずかしげに手を引っ込めた。ゴハンはかまわずその手を取り返す。仕切り直しに指を絡ませた。
「エレナちゃん、約束。……な?」
真剣な瞳がエレナを射抜く。まるで口説き落とすかのような空気まま、ゴハンはまっすぐエレナに告げた。
「君を危険な目にあわせたくない。絶対にスラムには……【白いスーツの男】には近付かないでくれ。お願いだ」
エレナはそのいつにないゴハンの真摯な様子に言葉詰まり、小刻みに頷き返した。
「よしイイ子!」
ゴハンはうって変わって太陽のようなあたたかい笑みで、指をからませたままエレナの手に軽く唇を当てウィンクをする。
「! ひゃっ……」
耳を赤くしたエレナが、火傷でもしたかのように手をひっこめた。ひっこめて、赤面まま後ずさる。
「~なッ何するのよ、ばか! そういうのは彼女にだけするものなの、この女たらし!」
賑やかな声が響く。窓の外では、青々とした木々が地に鮮やかな影を落としていた。その影で、北条ジュリアがひとり静かに耳をすませていた事に、ゴハンもエレナも気付かなかった。
★
青い空が陰り、屋根に小石が散ったかと思えば雨だった。
曇天にささやく雨音が窓を叩き、地鳴りのような雷雨に変わる。窓を叩きつける雨はさながら機関銃の一斉射撃だ。雷でも落ちたのか、教室の灯りがふと消えた。
担任が教科書をさげ、生徒たち同様に窓の外の嵐に見入る。森は津波のように荒れ狂っていた。携帯に耳を当てた担任が自習を促し、教室をあとにする。しばらくして、校内放送で午後から休校との放送が流れた。
その放送に歓喜の声が上がる中、エレナは洗濯物が心配でそれどころではなかった。風呂場の窓が開けっ放しなのはまだいいが、出掛けに寝室の窓を閉めたかは判然としない。
(どうしよう、家具を雨ざらしで痛めたなんて言えば、またマリア叔母さんの雷が落ちるわ……)
マリア叔母さんは、亡き父の妹だ。両親のいないエレナの唯一の肉親であり、保護者だ。幼い頃は一緒に住んでいたが、仕事でとても忙しい人のため、幼いエレナは寂しい時間を過ごすことが多かった。
エレナが一人で買い物ができるようになってからは完全別居となり、年に数回のセレモニーや年始などでしか顔を会わせない。その分厳しい人で、事があろう時は鬼のように恐ろしいのだ。
エレナは陰鬱まま、鞄に教科書を詰めた。
ふと帰り支度のクラスの賑わいが、水を打ったかのように静まり返った。エレナは何事かと顔を上げる。みんなの視線の先は、教室のドアにあった。正しくは、ドアを開けたその人に。
「臨時で送迎バスが出るから、1組は20分まで教室で待機。地区ごと指示に従い、体育館横へ移動するように」
耳心地のいい、低く澄んだ声。青味がかったきれいな白髪がさらりと揺れた。
(あ! パンが先生してる)
ちゃんと先生らしい格好をしてはいるが、場違い感が半端無い。まるで映画のワンシーンだ。改めて、そのハンサムっぷりについ赤くなる。
パン先生はすぐひっこみ、隣の教室へと指示を出しに向かった。余震のような歎声が漏れ、とたん天と地がひっくり返ったような黄色い悲鳴が響きわたる。同時、パン先生が向かった隣の教室からも同じ現象が起きた。さながらパニック映画だ。
その黄色い悲鳴に潜るように、1人の生徒がエレナの机の前に立つ。濃緑の髪に全身凶器のような漆黒のゴスパンク衣装、北条ジュリアがエレナを見下ろした。
「話があるんだけど」
それはまるでナイフを首筋に当てたかのような声だった。
★
渡り廊下に茶色い雨水が筋を作る。
写真部兼オカルト研究部の床に、雨に降られた2人の雫がおちる。
静かな間はひと時もなかった。窓の明るさが影を作り、殺人鬼も腰を抜かすような冷淡な声が口火を切る。
「私を調査してどうしようっての、エレナ・モーガン」
確信的なその言葉に、エレナは一瞬まごついた。なぜ北条ジュリアがそのことを知っているのだろう? その答えは容易だった。
ここ写真部兼オカルト研究部を話の場として選択したということは、北条ジュリアが昼休みの件を耳にしたからに他ならない。
しかし考察するその間を、北条ジュリアは許さなかった。
まるでラケットの素振りのような音が風を切ったかと思えば、エレナの手元に固い振動が走る。走ったかと思えば、さっきまで手元にあった携帯が壁に散っていた。遅れて手の痺れが感覚を鈍らせる。
「うわあああ! 私の携帯!」
「人が穏便に話をしてやってるのよ。自分の脳髄見たいの?」
粉々に割れた携帯に屈むエレナを、起伏ない北条ジュリアがギターを肩に見下ろす。
(ど……どこが穏便よ……!)
エレナは言葉を飲み、手を上げ静止を求めた。
「ちょっ、ちょっと待って! その、ゴハンを呼んでちゃんと説明するから!」
「彼女もグルかしら」
北条ジュリアのそのセリフに、エレナは冷や水を浴びせられたかのような感覚を覚えた。
「な……彼女、って……」
エレナは色を失い、携帯にかまわず北条ジュリアを見上げる。
「ミシェル・ダルシャン。どんな顔するでしょうね」
北条ジュリアが割れた携帯を顎でさし、歩み寄る。厚底のローファーの下で携帯が鈍い音を立て、基盤がはらわたをちらつかせた。暗に〔ミシェルもこのようにしてやろうか〕という脅しに、エレナは心臓を鷲掴みされる。
「やめて!」
エレナは思わず声を荒げた。腹の底が一気に苦しくなる。憎しみと焦りをごちゃ混ぜにした感情で心臓が破裂しそうだった。北条ジュリアがミシェルに手を出すと想像しただけで殺意が沸き上がる。呼応するように北条ジュリアの動きが止まった。
少し驚いている様子だったが、エレナはかまわず自身を抑えるように、一言一句きっぱりと続けた。
「ちゃんと話すわ。でも、ミシェルに手を出をだしたら絶対許さない……!」
…
エレナは重々しく口を開いた。
昨日、夜中にエイリアンに遭遇したこと。助けてくれたMIBの2人組に、調査要員として協力していること。レンズがエイリアンを判別したり、攻撃できたりすること。2人が教師と転校生として潜入していること。
そして、その一環で〔北条ジュリアの調査〕があった事を告げた。北条ジュリアは黙ってそれを聞いていた。
エレナが語り終え、不安と興奮を落ち着かせるように大きなため息をつく。
「……知ってる事はそれだけ。敵意なんてないのよ、本当」
北条ジュリアはハズレくじでも引いたかのような、小さなため息をついた。
「……あの2人組と、そう」
北条ジュリアはギターを下ろし、木造椅子に腰掛ける。そしてやおら続けた。
「夜の学園での出来事は私も知ってるわ。見てたもの」
「えっそうなの?」エレナが身を乗り出す。
北条ジュリアはひとつ頷き、続けた。
「見てたも何も私はあの日、その黒いスーツの2人組に追われてたのよ」
エレナは納得に頷く。ゴハン達は北条ジュリアを調査したいからだ。
「ぁあ、誤解よ。あなたがなぜ、どうやってエイリアンを虐殺するのかが知りたいって言ってたわ。あの2人、無神経な上、案外抜けてるの。巨大エイリアンをやっつけたのが嘘みたいで……」
「あれ、エイリアンじゃないわ」北条ジュリアが言い断つ。
「えっ……」
「エイリアンじゃない、別の何かよ。わかるの」
息をのむエレナを、北条ジュリアは真っ直ぐ見据える。電気を点していない薄暗がりに、闇色の瞳が異質に光った。
「そのMIBとかいう2人組の男、信用していいの? 話を聞く限り、懐柔されてるだけじゃないの」
先ほどまでの攻撃的な声色はいつの間にか消えていた。諭すように北条ジュリアが続ける。
「あなたが気を失ったあと、あの2人……異様だったわ。まるでエイリアンみたいだった。あのエイリアンもどきも変じゃない? あんなに大きい存在がなぜ、どうしてあの時、あの学園内にいたのか……おかしいと思わないの?」
エレナはその言葉に言葉が詰まる。心の底で小さくくすぶっていた不信感に火がともった。
確かに、〔どこかがおかしい、何かおかしい〕と、そう考えそうになる時はいつも、その間を与えないように上手くはぐらかされ、ドキドキさせられ、話をよそに持っていかれている事に気付く。
その時だった。旧校舎の扉が開く音が響く。
エレナと北条ジュリアが目覚めるように写真部のドアを見た。重い革靴の、ゆったりした足取りが近付く。すぐに、写真部のドアがおもむろに開いた。
「やはり、ここにいたのか」
耳心地のいい、低く澄んだ声。青味がかったきれいな白髪がさらりと揺れる。
「ぱ、パン……」
エレナがおぼろげに呟いた。
パンのその瞳は、いつもとは違ってどこか底知れぬ怖さを秘めているように感じた。パン先生は北条ジュリアに少し目を見開く。エレナをちらりと見て、ゆったりと腕を組む。
「……最後のバスが待ってるぞ。運転手を待たせないようにしなさい」
エレナがそれに心ここにあらずに頷く。パンがそれに気付き、足元に転がる粉々の携帯を手に取った。
「何があった?」
「えっ……」
どこか確信的なパンの口調に、エレナが気まずそうにまごつく。
「その、……お、落としちゃって……」
んなわけあるかと言うかのように、北条ジュリアがため息をつく。ついて、木造椅子から腰を上げた。行く手を阻む位置にいるパン先生をちらりと睨み付ける。ジュリアはどけと言わんばかりにドアを蹴り飛ばした。落雷のような音が窓を響かせる。
「どいて」
「おてんばだな」
パン先生が目を細め、やれやれと道を譲る。その仕草は紳士そのものだが、妙なセクシーさがあった。しかし、北条ジュリアは動かない。
「そうやってうぶな女の子を誑かすのね。安っぽい常套手段」
「何の話かな」
パン先生は承知に余裕めいた微笑みを返す。北条ジュリアはちらりとエレナを見た。
「……先に行ってるから」
一言そう言って、旧校舎をあとにした。
パン先生は北条ジュリアの背を見送りため息ひとつ。すぐさまエレナに向き直る。
「大丈夫か、何をされた?」
そっとエレナに触れ、怪我がないか確かめる。その大きな手がエレナの手に触れたとき、エレナは反射的に手を引っ込めた。
「ぁ……」
エレナが自分のその行動に驚き、まるで怯えた猫のようにパンを見上げた。パンは本当に驚いた様子で目を丸くした。
「どうした、何かあったのか?」
そのセリフに構わず、エレナは一歩後退る。その目は怯えるように目線を逃がしていた。
「……バス、いっちゃうから」
エレナは振り切るようにパンの脇をすり抜け、北条ジュリアの後を追った。
写真部に取り残されたパンは、面倒くさそうなため息をつき、ドアを背にゆったり腕を組む。白髪からのぞく碧眼はエイリアンと対峙した時同様、研ぎ澄まされたナイフのように鋭く、氷のように冷たかった。
★
校舎の壁を叩き流す横殴りの雨風は、まるで台風のようだった。
渡り廊下の屋根むなしくずぶ濡れになったエレナは、体育館脇でひとりぽつんと佇む北条ジュリアに駆け寄る。北条ジュリアもすっかり濡れ鼠だ。濡れそぼった髪から落ちた滴がアスファルトを濡らしている。
「バス、行っちゃったみたい」と北条ジュリア。いわずもがなエレナは頷き返す。
「待ってて、すぐタクシーを呼ぶわ」
エレナは言って、慣れた手つきで靴箱前にある配車機に学生証を通す。そのまま保健室から大きいタオルを抱え、北条ジュリアに手渡した。雲のように柔らかいタオルはおひさまのかおりだ。
「ありがと」と北条ジュリア。
北条ジュリアは意外に素直というか、昼間の殺気がうそのようだった。こうしてみると髪色や服装はともかくとして、なんてこと無い普通の女の子だ。
「……ねえ、待ってる間、そこの自販機で何か温かい飲み物でも飲まない?」
エレナはつとめて明るく提案した。昼間のこともあって綱渡りな提案だったが、北条ジュリアは素直に頷く。紙コップに並々注がれたホットチョコレートの湯気が、2人の冷えた手を温めた。
ひといき入れてやっと、雨風の勢いが少し弱まった気がした。
「あの……」
エレナは伺うように続けた。「さっきの話、もう少しいいかな」
北条ジュリアは鼻を鳴らし、紙コップをかたむけた。
「これ以上、あの2人組で何があるっていうのよ」
「実はあの2人と一緒にその、住んでるんだけど……」
エレナのそのセリフに、北条ジュリアが嫌悪丸出しに眉をひそめ紙コップを下ろす。
「あっきれた……馬鹿だとは思ったけど馬鹿に失礼ね、底抜けの馬鹿だわ。見目のいい男たちとの同棲生活に何を期待してたの?」
ぐうの音も出ないエレナがごもっともにうなだれ、重い頭を上げた。
「期待とかそんなんじゃないのよ、ただその……ぐいぐい来られちゃって、なし崩しで」
それに北条ジュリアが鋭く切り返す。
「仮にあの2人が、気持ち悪いエロ親父コンビだったらどうしてたのよ」
エレナはそれを想像して、素直に悪気なく即答した。
「追い出して警察呼んでる」
それみたことかと北条ジュリアはホットチョコレートを飲み干し、紙コップを握り潰したのだった。
…
「あの、北条さん」
エレナが紙コップを折り、北条ジュリアに向き直る。
「私、こんなこと誰にも相談できなかったの。……色々ありがとう」
エレナは気付かずとも、それは北条ジュリアも同じだった。エレナが想像もつかないほどの長い間、北条ジュリアは孤独だったのだ。
北条ジュリアはエレナのその言葉でふと、ここまで打ち解けた生徒はエレナが初めてな事を知った。
馬鹿正直なエレナ・モーガンが、友達ミシェル・ダルシャンを守るために口を割ったことも、リンチ寸前だったにも関わらず御礼お言ったことも、ジュリアにはまったく理解できなかった。それなのに今、エレナ・モーガンとお喋りするのを少し嬉しく思っている自分に驚く。
そしてこういう時、北条ジュリアはどう返せばいいかわからなかった。細い糸がこんがらがったような感覚は、これまで北条ジュリアが知らなかったものだ。
「……スマホをぶっ壊した相手によくお礼が言えるわね。本当に馬鹿なんじゃないの」
「いやあ、それとこれとは別なのよ」エレナが手をひらつかせ苦笑し、紙コップをゴミ箱に捨てた。
「だって私が敵かも知れなかったんでしょ、警戒して当然よ。……ありがとう、北条さん」
ジュリアはエレナの笑顔を眩しく感じた。心の奥でくすぶる何かは、くすぐったくもあり心地いい。どう返せばいいか、笑い返すべきか、それとも適当に流す方がいいのか。この気持は、一体何なのか……
その時、たすけ舟を出すようにバナナ色のタクシーが横付けされたのだった。
★
北条ジュリアとエレナは最初こそぽつぽつと、何てこと無い会話に花を咲かせていた。
黒い子猫の話、勉強の話、文化祭の話……それこそ、エイリアンとはまったく関係のない普通の会話を。
北条ジュリアに昼間の棘はなく、また北条ジュリアもどこか様子を伺うような素振が消えたエレナに不信感はなかった。
エレナがわかったことは、北条ジュリアは思慮深く頼りになる女の子だということ。
北条ジュリアがわかったことは、エレナは本当に垢抜けない普通の女の子だということだった。
そんな2人はいつしか、ファーストネームで呼び合うようになっていた。
タクシーの窓に打ち付ける雨脚は、穏やかさを取り戻しつつあった。しかし大通りは嵐の名残で渋滞していたため、タクシーはやむなく遠回り、空いた道を走るほかなかったのだった。
「遠回りになっちゃうね」とエレナ。
ジュリアは窓の外に視線を外した。
「私はこっち方面に用があるからちょうどいいわ」
やがて雑草まみれの空き地や、すっかり廃れたオフィスビルが点在する過疎地に入り込んだ。その隙間を埋めるように退廃地区……スラムが街に影を落としている。
スラム街といっても、都市開発で住民を強制移住させたものの企画倒れした区画だ。危険な地区と囁かれる由縁も、そこに売人や売春などいかがわしい連中がなだれ込み、バラックを建設・補強したのが始まりだ。一時は中高生の不良の憧れの街だったが、薬漬けの死体や行方不明など様々な事件がちらほら上がるせいか、今や懸命な人間は触れぬ存ぜぬで近寄ろうともしない。
エレナはそんなスラム街を眺めながら、昼間のゴハン達のセリフを思い出していた。
〔リサは【スラムで買ったダイエット薬】を使ってた。雨の日だけ現れる、【白いスーツの男】から買えたって……〕
〔絶対にスラムには……【白いスーツの男】には近付かないでくれ〕
エレナが物憂げに呟いた。
「危ないわよね、ここ……。取り壊せばいいのに」
ジュリアの目は、エレナの視線の先にあった。
「袖の下とかで警察と癒着してるんでしょ。よくあるゲロ臭い話よ」
エレナがふとジュリアを見る。
「そういえば、こっち方面に用があるって?」
ジュリアは軽く頷いた。
「ちょうど雨だし、ちょっと用事があるの。運転手さん、次のコンビニ前で停めて」
分厚い曇天で薄暗い中、コンビニの光が無機質な明るさで佇んでいる。
「じゃあ」と下車するジュリアに、エレナもいそいそと続いた。走り出したタクシーを見送り、ぱらつく雨から逃げるようにコンビニに入る。
ジュリアがエレナを横目見た。
「どうして貴女も降りるわけ。ここいら一帯は危険区域よ」
エレナはかまけた様子で頷き返す。
「携帯が壊れたから、叔母さんに連絡を入れないといけなくて。公衆電話があってよかった」
言って、コンビニ前の公衆電話を指した。それにジュリアはあっけに目を丸くした。
「じゃあタクシーなんか呼ばずに、学園で電話を借りて呼んでりゃよかったじゃない」
エレナはいたずらっぽく肩をすくめ返す。
「だって、ジュリアと話したかったもの」
ジュリアは携帯を壊した手前、その場を離れることはできなかった。エレナが電話をしているのを横目、本棚に乱雑に刺さった雑誌を一瞥する。下品な本やギャンブル雑誌ばかりだ。床は薄汚れていて、細かなゴミが目立つ。コンビニとはいえ、治安の悪さが如実に出ていた。
死角にいる男性客数人が、外のエレナを見て声を潜ませる。耳をすませば、言葉にはばかる囁きばかり。それにジュリアはなぜか無性にとんでもなく腹がたった。動きがあれば背のギターでどつきまわしてやろうと腕が疼く。こんな気持ちは初めてだった。
電話を終えたエレナが店内に入り、ジュリアに振る。
「待っててくれてありがとう。そういえば、ジュリアの用事って何なの? よかったら付き合うよ」
ジュリアは面倒くさげに首の後ろを掻いた。
「いつもの事よ、たいした用じゃないわ。それより……」
ジュリアは目の前で冷や汗まみれのエレナを一瞥した。「……大丈夫?」と。
電話を終えたエレナはまるで恐怖映画から命からがら抜け出たような風情だった。
「うん……マリア叔母さん、すっごく怒っててね。車をよこすから、そこを動くな! って……。……な、何か飲まない?」
ジュリアは察したように頷き返す。
「私が携帯割った事、伝えるわ。叔母さんも怒るのも無理ないわね、降りといて何だけど、ここ変な輩が多いもの」
その時だった。
コンビニのドアが叩き割る勢いで開かれ、いかにもチンピラな青年3人がふてぶてしく入店する。北条ジュリアはとっさにエレナを背に隠した。なぜならチンピラ達がこちらを睨みつけ、その手にはバットが握られていたからだ。
チンピラ3人は北条ジュリアをロックオンした。
「おいそこの緑のジャリガキ。お前、白いスーツを嗅ぎ回ってるんだってなあ?」
「まだガキじゃねーか、冗談だろ?」
図体のでかい男が2人がジュリアを睨みつける。その兄貴とやらの背から、ゴハンとは別意味でチャラそうな男が、震える指をジュリアに突きつけていた。
「兄貴、こいつッス! こないだクラブを壊滅したガキっス……! マジヤバイんッスよ、こいつ!」
エレナはこういった状況は映画でも観たことがなかった。アクション系やマフィア系映画は苦手なのだ。
「どどどどうするのジュリア……! なんだかこの人たち、すごく怒ってる……!」
エレナは突き落とされそうな声でジュリアに囁く。いきり立つチンピラと慌てふためくエレナをよそに、ジュリアはとんでもなく冷静そのものだった。肩越しに一瞬、エレナを見やる。
「どうするも何も、これが用事よ。そのレンズが本物なら、わかるんじゃないの」
エレナがぎょっとした。慌ててレンズをかかげ、チンピラ達を視た。
おだやかにゆらめく虹色の先……人間のようなトカゲ2匹と、その背で虫のような人間が喚いている。……彼らはエイリアンだ!
とたん爆発したような破壊音と同時、レンズの向こうのトカゲ男が大きく弾け飛んだ。ふりかぶった風がエレナの髪を揺らす。エレナはあんぐりとレンズを下げた。
殴り飛ばしたギターを巨大斧のように担いだジュリアが、処刑人の足取りで一歩、悲惨したガラスを踏む。昼間みたジュリアだ、とエレナは感じた。その小さな身がら噴出する殺気に鳥肌がたつ。
地獄色の瞳がチャラいチンピラを射抜く。
「雑魚ばっか連れて来んじゃないわよ、わざわざ生かしてまで泳がせてやったのに。白いスーツの男はどこ」
それはおそろしいほど冷淡な声色だった。図体のでかい男は麻袋に詰めた生肉のように動かない。チャラいチンピラが悲鳴を搾り出しながら小便を垂れ流し、もう1人は降参といわんばかりに両手を上げて一目散に逃げ出した。
「逃がすか」
ジュリアは一歩踏み出し勢いままにギターをぶん回した。殻の分厚い卵が割れたような音と共に、チャラいチンピラの頭が凹む。
飛散した血が地に落ちる間なく、ジュリアは逃げたチンピラを風のように追いかけた。エレナも店員も客も、悲鳴を上げるどころではなかった。まるでハリケーンが過ぎるのを待つ蟻だ。
小さなガラス片が怯えるように落ち、エレナはようやく顔を上げる。おっかなびっくり立ち上がり、レンズごしでないと人間にしか見えないチンピラ達を、呆然と見下ろした。皆、妙な姿勢なのにぴくりとも動かない。
ガラスを踏まぬよう、最初にぶっ飛ばされた血まみれのチンピラを見る。そして、血の気が引いた。……チンピラの左手の薬指に、輝く指輪があったのだ。
「これ……結婚、指輪……?」
いつかレンズで見た景色が目に浮かぶ。スーツを着た、触覚が生えた人。信号待ちをしている、肌が青色の人。バイクにまたがっている、人ですらないモノ。それらもろもろが人ゴミに混ざり、さも人のようにすごしていたのだ。さも人のように生活し、さも人のように生きていたのだ。
エレナは弾かれたように駆け出した。ジュリア達が消えた先へ、全力で走った。
ダメだ、ダメだ。頭がそれでいっぱいになる。頭の芯が痺れた感覚で何がダメかはわからないし、呼吸で肺が痛くてそれどころではない。だけど、ダメだ。追いつかなければ……止めなければ!
空が泣き、それをも包み隠すほどの曇天が瞬くように光を放つ。唸るような空音の先にそびえ立つスラム街は、奈落のように口を開けていた。
小さなジュリアの背を追って、エレナはその闇に飛び込んだのだった。




