1.真っ黒のレンズ
《 私はこういう存在だから、キミと一緒に生きれない 》
記憶は情報に過ぎない。クローンは記憶を持たない。
サムソンは心に穴が空いたようだった。いつか北条博士が言った言葉が胸に刺さる。
《 全部が終わったら、キミはこのクローンと好きに過ごすといい 》
……・……
階段を半ばで、空気を割るような銃声が響いた。
エレナは何事かと一瞬身をこわばらせた。暗闇で鼻をつくは、色んな鉄のにおいだ。
(この部屋からだ……)
エレナが恐々、部屋の中を伺う。
およそパンであろう人影がエレナに気付き、来てはいけないと言うように手を払う。しかしエレナの視線はさらに奥にあった。
床に付す人影、サムソンがうめく。サムソンはダメージが大きいのか、肩で息をしていた。
すぐさまレンズをかまえたエレナは、ぎょっとした。レンズはまるで深海に落としたかのように真っ黒だったのだ。
タクティカルライトの光も、レンズは吸い込んでしまう。それは《視るな》とでも言っているかのようだった。
(えっうそ! こんなの初めて……!)
エレナはたじろいだものの、振り切るようにサムソンを見た。
「……ジュリアは、先生のことが何より大好きなの。誰よりも優しくて脆い人だから、私がそばにいてあげなきゃって……。でも本当は、ジュリアがサムソン先生がいないとだめなの。サムソン先生じゃなきゃ意味がないんだよ。だからサムソン先生、……目を覚まして」
サムソンは不気味に動かない。その手が硬く握られたことに気付いた者はいないだろう。
エレナは一息にいってふと、鼻腔に張り付くような臭いに思わず一歩下がった。まるで鉄を茹でているような、籠った臭いに思わず体が硬直する。それは、とても嫌いな臭いだった。
ふとチビがもがくように暴れ、エレナの手から零れ落ちる。転がるように逃げるチビと、雷鳴は同時だった。
雷光で一瞬見えた真っ赤な世界。エレナは鈍器で殴られたような感覚を覚えた。心臓が爆発するかのように暴れ、脂汗がどっと溢れる。
「じ、ジュリアっ?」
エレナがうわずった声をあげると同時、パンがかばうようにエレナを抱きとめる。残光を追うように、エレナが暗闇に手を伸ばした。
「ジュリア! うそ、うそでしょ、どうして……!? ジュリア!?」
パンがコートで大きくエレナを包み、目の前でパンのネクタイが揺れる。
「見るな、エレナ。耳をふさいで、目を閉じていなさい」
耳元のパンの声遠く、しかしほんの一瞬とはいえ、瞼に焼き付いた血の海は強烈だった。
確かにそこに、ジュリアはいたのだ。ジュリアは陶器のように寒々しい肌に、おびただしいほどの血を流していた。
最悪の結末だった。
ゴハンが軽い溜息ひとつ。銃を抜き、射抜くようにサムソンにかまえた。
「サムソン・ハワード。北条ジュリア殺害で身柄を拘束する。死にたくなけりゃ投降しな」
ゴミのように床に伏せるサムソンが、わずかに呻いた。床に落ちる涙が光り、サムソンが顔を上げる。
床に手をついたサムソンは、病人のようにゆっくりと立ち上がった。
「……そうだ、これでいい、……今度こそ、……」
自分に言い聞かせるように、サムソンは口の中でつぶやいた。立ち上がって、鷲のように両手を広げる。
その手には懐から引き抜いた、一本のナイフが光っていた。サムソンは流れるようにナイフを首筋に当てる。
「……これで北条家虐殺事件は終わりだ」
「待て!」
ゴハンの制止と、サムソンが自身の首を大きく掻っ切るのは同時だった。首の切れ目がぱっくりと開き、一瞬遅れて血が噴き出す。パンのトレンチコートに、大量の小石をめいっぱい投げたような音が当たった。トレンチコートの下からでたエレナの足に、熱い何かがぶっかかる。
エレナは反射的に下をみた。自分の脚は、真っ赤な血一色だった。びたびたと血がかかり、床に流れていく。それも一瞬で、パンに抱きすくめられ見えなくなった。
サムソンが膝をつき、力なくその場に倒れ込む。手遅れは目に見えて明らかだった。
「くそっ、自殺しやがった」
ゴハンが糞でも投げつけられた声で、一歩下がった。
返り血を拭うパンがふと、視線を上げた。遠くで警察のサイレンの音が響いていた。
……・……
——————赤ん坊の泣き声がする。
大きな血だまりに横たわる、だれか。
すがるように伸ばされた手は、おびただしいほどの血に濡れていた。
〔ごめんね……ごめんね……〕
大好きな手が、力無く血だまりに落ちる。
エレナは揺れる世界と、大きな音に我に返った。それが自分の声と気付くも、ひきつけは止まらない。なにがあったか考える前に、酸欠で世界がまたまわる。
ぐるぐるまわって遠くなる。あとはまた、暗闇だった。
「ママ、ママ」、目覚めてはそう泣き叫ぶエレナを、パンは抱きしめていた。
そうするしか、できなかった。




