1.壊れた目覚まし時計
「いつまで水遊びしてる気だ」
黒金はバスタブの縁に手をかけ、水面に声をかけた。正しくは、バスタブに沈むミリアムに。
バスタブの中では、ハンスことミリアムがホルマリン漬けのように沈んでいる。
どうみても水死体のそれだが、エキゾチックであるミリアムにとってはいつものスタイルだ。
頭の先からヌートリアのように顔を出したミリアムは、黒金をじろりと睨んだ。
「着信。さっきからうるせえんだよ、板チョコみたいに割るぞ」
黒金はそう言って、カードのようにスマホを突き出し、せっつくように顎で促した。
ミリアムはようやく重い腰を上げ、眉をひそめたまま髪をかき上げる。
「あんま水から出たくねェんだよ……」
そう言ってスマホを耳に、濡れネズミままリビングへと移動する。
水浸しの床にタオルを投げた黒金は、慣れたように足でふいていった。リビングにはそんな濡れタオルが、ガーランドのように掛けられてある。
お天気日和も水分必須なミリアムにとっては苦痛でしかないらしい。雨の日以外の外出はしないし、してもずっと簡易加湿器を抱きかかえてる始末。
やがて通話を切ったミリアムが、心底うざったそうにサイダーをあおる。あおってゲップひとつ。
床を拭く黒金に軽く〔ふかなくていい〕と手をひらつかせた。
「黒金、悪ィが今日の予定は無しだ。俺は聖イルミナ医院に行く、お前は適当にブラついてろ」
黒金は軽く頷き、続きを待った。ミリアムが聖イルミナ医院に行くのはいつものことだからだ。
ミリアムはややばつが悪そうに、隠していたテストがばれた子どものような目で続けた。
「……俺はダイエット薬と称して、自分の分身を撒いてた。養分が足りねェンで、そうやッて養分と資金を集めてたワケだ。それがアーロンにバレた」
「アーロン?」と黒金。
ミリアムはうんざりに頷いた。
「ああ。腹ボテを連れた、イルミナのクソ真面目野郎。ダイエット薬のせいでリサが病床にいるのが納得いかないンだと。やれ一般人を巻き込むなとか、いつからやッてたんだとか」
そりゃまぁごもっともな話だなと黒金は思った。
しかしエキゾチックであるミリアムからしたら、人体は家のようなものだ。立ち退き命令が面白くないのは当然だとも。
面白くないミリアムは、もっと面白くない面で続けた。
「アーロンが、俺の新しい身体を用意してるらしい。今の体はハンスのだから、ちャんと返してやれッてよ。
だからこれからサムソンが迎えに来る。連絡するまで適当にブラついてろ、お前がアーロンに見つかると厄介だし」
黒金は待ってましたと言わんばかりに頷き、「日当はもらうからな」と言いもって靴を履く。
久々のオフだった。パリッとした爽やかな風を受け、出勤風景を横目に酒をかっくらうのも一興だと。
ミリアムはちょっと笑って、ご機嫌な黒金の背に声を投げた。
「そういッてまたチュロスとか土産によこすンだろ? もッと水分の多いやつにしろ、ゼリーとか」
黒金は軽く中指を立て返す。
マンションの外は、雲一つない爽やかな晴天だ。ミリアムにとっては地獄の天候だろう。
黒金は、気の毒なミリアムにゼリーでも買ってやるか、と眩しい朝日に目を細めた。
ふと、ふわりと舞う蝶々に目が行く。なんてことないモンシロチョウだ。
黒金はボクサーのジャブのように、蝶々を掴みとった。
広げた黒金の手には蝶々ではなく、ヒト型に切り抜かれた紙があった。
「……どこのどいつだか知らねえが、オレにケンカを売るとは上等だ」
黒金はくだらなげに鼻で笑い、抜けるような青空を仰いだのだった。
……・……
「うわああ遅刻ー!」
エレナのその大絶叫に、パンとゴハンが顔を上げた。
寝室から飛び出したエレナは、クローゼットを開け、服を次々引っ張り出す。
「エレナちゃん?」と声をかけるゴハン横目、エレナは脱衣場へ飛び込んだ。ヘアバンドで髪をあげたまま顔を出して「ゴハン達も急いで!」。
その様子に、パンがやれやれと腕を組んだ。「エレナ、しっかりしなさい」
エレナは歯ブラシを咥えたまま顔を出した。
「してるよ、遅刻しないように……」言いかけ、まだパジャマ姿の2人に豆鉄砲を食らう。「2人とも、遅刻しちゃうってば! 早く、早く着替えて!」
パンはゆったりと腕を組み、「落ち着けエレナ。まだ6時前だ」と呆れ返す。
その言葉にエレナが一瞬固まった。
TVの時間表示は5:45の時を刻んでいて、寝室の壊れかけの目覚まし時計は9:00を指している。壊れかけというか、すっかり壊れているようだ。
「ああ~……」一気に気の抜けたエレナが、安堵に膝をつく。「……ごめん、目覚まし時計が壊れてたみたい」
ゴハンが枕元の目覚まし時計を軽く手にとった。
「あらら。経年劣化かね、だいぶ古い時計みたいだし」と。
そんなゴハンの手から、パンが壊れた目覚まし時計をひょいと受け取る。パンの手のドライバーが光った。
「直そう。また朝から騒がれたら面倒だ」
言ってパンは手際よく分解していく。裏蓋がとれ、想像よりも簡素な作りにエレナはまばたきひとつ。
「携帯の目覚まし機能は使わない派?」と肘をつきゴハン。
エレナは目覚まし時計を興味津々に観察しもって、首を横に振った。
「この目覚まし時計、母親が私の年くらいの頃に使ってたってマリア叔母さんが言ってた。
私は母親のこと全然覚えてないから、これが形見になるのかな? 大事に片付けるよりは使おうと思って」
パンは目覚まし時計をあっという間に修理した。時計屋さんのような手際に、エレナが目をまたたかせる。
「わー! すごーい! パン、ありがとう!」
エレナは嬉々に受け取って、目覚まし時計をいつもの場所に設置する。
その様子を微笑ましく見ていたパンがふと声をかけた。
「今日の放課後か、ジュリアの腹を治すのは」
エレナは待ってましたと言わんばかりに振り返って、大きく肩をまわした。
「うん! やっぱり早く起きて大正解だよ、放課後用のオヤツが作れるもの」
元気いっぱいのエレナに、ゴハンもパンも思わず笑ったのだった。




