3.青いファイル
終業ベルが鳴り響く。
帰り支度で賑やかな正門遠く、教員用駐車場でパンはエレナ達に声をかけた。
「よくやった。私はこれからトラエを連れて行く。これは報酬だ」
エレナは思わず首を横に振る。
「やだ、報酬なんていいよ」
ふとパンの手を見ると、1枚のクーポン券があった。クーポン券には〔ドーナツ5個無料!〕と印刷されてある。エレナの目がぱちぱちと煌めいた。
「陰陽師の境京が、話があるそうだ。ついでにここでお茶してきなさい」
パンの提案に、エレナは大喜びで受け取ったのだった。
「ありがとう! ねえジュリア、ミシェルと桜蘭も誘おうよ。みんなで遊ぼ!」
飛び跳ねるようなエレナが、満更でもないジュリアの手をひいていく。瑞々しい賑やかな声を、パンは微笑ましく見送ったのだった。
黄金街道の街路樹が流れていく。
「トラエ。君はこれから聖イルミナ医院へ行く。君の母親が待っているぞ」
後部座席のトラエは昼間の陽気さはどこへやら、気の沈んだ様子で棒付きキャンディーを揺らしていた。
「……いまさら会ってどんな話しろッてんだよ。親父が死んですぐオレを捨てた母親が、新しい男とのガキできたから顔見せろーってんだぜ? 会う意味ネーし、積もる話もネーッての」
パンはふむとトラエを見た。確かに問題児だが、まだ少年だ。
母親恋しい時期にずっと独りだったのだ。連絡をとることさえできず、自分は捨てられたと認識するのが怖くて……母親を拒絶することでしか自分を守れなかったのだろうと。
「君の母グレイシアさんに、少し話を伺ったよ」
トラエは黙って続きを待った。パンが穏やかにつづける。
「……グレイシアさんは、トラエを捨てたわけじゃない。これまで連絡を取れなかったのは、彼女が特殊な仕事をしていたからだそうだ。機密保持のため、外部との接触はどうしてもできない環境だったんだ。
妊娠を期に様々な手続きを経て、やっと君に会える事ができるようになった。親が子を想う気持ちは想像もつかんだろうが、彼女も十分苦しんだ」
トラエは応えない。棒付きキャンディーをやっつけにかみ砕く音が返るだけだった。
……・……
聖イルミナ医院が、ゆっくりと夕日に染まっていく。
病院に不釣り合いのパンクブーツが、いかつい靴音を響かせる。
だだっ広いロビーを抜けたトラエは、指定された個室前でため息一つ。大きく首を回して、両手を振った。その後ろ姿はまるで、試合直前の選手のようだ。
トラエはふとピアスを外し、ポケットに乱暴に突っ込んだ。突っ込んで、思い出したかのように舌ピアスも外してポケットに落とす。
そして覚悟を決めた様子で、ノックした。
「どうぞ」
優しい声が扉の向こうから返る。その声にトラエは、思い出が鮮明に目覚めるのを感じた。
あの声だと、心臓が痛いほど締め付けられる。
〔トラエ、元気でね〕
空港でそう手を振った、母の笑顔。人ごみに消える母が遠い世界へ旅立ったみたいで、もう二度と会えない気がしたこと。
隣で優しく微笑む祖母の、干ブドウのようなしわくちゃの手が嫌だったこと。
誕生日もクリスマスもセレモニーも、大会で金メダルをとっても、万引きで捕まった時も、痴呆になった祖母の葬儀にすら、母は来なかった。ただ毎月、色んな口座からまとまった金が振り込まれるだけだった。
そんな母が、扉の向こうにいる。どんな顔をしたらいいかわからないまま、トラエは扉を開けた。
夕日に染まる個室、純白のベッドで、ほどけるように微笑む女性がひとり。大きなお腹以外は、あの日のままの笑顔だった。
トラエはそれ以上、まとも見れなかった。重りでも括り付けたかのような足で、トラエは歩いていく。
足音だけが響き、足先にベッドが見えた。そっと、自分の腕に手が当たる。トラエは思わず手を引いた。
そしてやっと、母グレイシア・D・リドナーを見た。
グレイシアは泣くのをこらえた笑顔で、唇を震わせていた。
その笑顔に、トラエは胸が砕かれるような思いだった。涙をこらえた精一杯の笑みに、氷が砕けたような感情まま思わず奥歯を噛む。
「トラエ、大きく、なったわね……あんなに、あんなに小さかったのに……」
とたん、グレイシアの目から、大粒の涙が次々とこぼれ落ちる。大きなお腹に涙が点々と広がった。
「元気で本当によかった。ずっと会いたかった、トラエ……」
トラエは何も言えなかった。
目の前の母グレイシアはうんうん頷いている。それがまるで子どものようで、なんだか虚しかった。
諦めに近い落胆が、心の奥にゆっくりと落ちていくのがわかる。心の奥底にいた母親は、想像していたよりもずっと他人だった。
2人は最初こそぽつぽつと、やがて水たまりに小石を投げるかのように、空白の年月のピースを埋めるように、思い出を紡いでいった。
トラエは母グレイシアがただの薄情女なら、とっとと帰るつもりだった。
しかし今トラエはしっかりと、母グレイシアを見て、10年ぶりに「母さん」と呼んだ。母さんと、呼ぶことができた。
そうしてやっと、思い出が今に追いついた気がした。
アスファルトの熱がさめる頃。
頃合いをみたかのようにドアが開いて、一人の白衣の男性がトラエに挨拶をした。
トラエはやや目を見開いた。耳にかかる程のブロンドの髪が整えられた、穏やかそうな眼鏡のおじさんが笑みを返す。
そしてトラエは直感でわかった。こいつが母の再婚相手だと。
「やあ! トラエくん、久しぶりですね。僕はアヴァロン・ジェーンです。アーロンと呼んでください」
おじさんことアーロンは大股で手を差し伸べ、トラエに握手をもとめた。流れでおざなりに握手を上下したトラエだが、アーロンの握力に威嚇に近い圧を感じる。負けじと握り返してやったが、アーロンは涼し気なものだ。
母グレイシアは重いお腹をさすりながら、懐疑的なトラエになだめるような声をかける。
「トラエ、覚えてる? 一緒によく遊んでくれたアーロンおじちゃんよ」
アーロンは流れるようにトラエの肩に手をやった。
「そうそう。トラエくんを取り上げて、オシメもいっぱい替えたんですよ~」
トラエは野暮ったいアーロンおじちゃんをじろりと睨む。なるほど見覚えある面だった。
キャッチボールが壊滅的に下手なモヤシ野郎。母さんの隣でずっと笑っていた、アーロンおじちゃんだった。
トラエは崖下へ背中を押された気分になった。2人と赤ん坊のいる家庭に、自分は部外者なのだとまざまざと痛感する。
心が重く冷えていく。だから会いたくなかったのだと。
…・…
「送りますよ」
アーロンはそう言って、病院関係者用の駐車場まで案内した。
綺麗に舗装されたコンクリートに、等間隔に置かれた街路灯が黄金色の光を落としている。遠くで虫の鳴き声が囁いていた。
明るいイルミナを背に、トラエはもうここに来ることはないだろうとぼんやり思っていた。
アーロンと母グレイシアは、お腹の子と共に新しい家庭を築く。それが想像以上にこたえたのか、胸がひどく苦しかった。
アーロンはその様子を感じたのか、車を背に振り返る。
「来てくれて本当にありがとうございます、トラエくん」
トラエはフンと顔をそむけるだけだ。トラエはこの世の汚いものなぞありませんよというような清廉潔白な少年面ではなく、
ゲロまみれの地面に這いつくばってドブ水でもすすって生きてきたようなスラム育ちの目をしている。
鼻柱を軽く揉んだアーロンは、仕切り直すように溜息をついた。
「……おざなりな長談義もここまでにしましょう、時間があまりないので」
それにふと、トラエが視線を上げた。
なんだこいつは? と思った。アーロンの本題は母グレイシアとの顔合わせではなかったのだ。
アーロンにさっきまでの朗らかな様子はなく、歴戦の軍人のような目をしている。トラエは気圧されまいと続きを待った。
「君の亡き父ウィングから伝言があります。これを」
そう言って懐から手渡されたのは、青色のファイルだった。
「この暗号は、ウィングが君あてに書いたものです。イルミナが15年かけても解読できませんでした。でも、トラエくんならわかるはずです」
「……親父がオレに?」
トラエはやおら受け取って、電話帳のように青いファイルを開いた。1枚、また1枚と流す。
羅列する文字や改行、インクのにおい、句読点の位置。それに見えないはずの言葉や聞こえないはずの声が目覚め、頭の中に次々とビジョンが流れ込んでいく。それはまったくの突然で、強烈な光景だった。
頭の中で花火が爆発したような衝撃に、トラエは思わず声をあげて膝をついた。
滑り落ちた青いファイルをアーロンがとっさに受け止める。
アーロンはじっとトラエを見た。トラエは大きく息を吐き、意識を保つよう頭をふる。
それはまるで、孵化した小鳥のようなか細さだった。
「……冗談キツいぜ、親父。オレがこうなることまで、あんたは想定してたってのか?」
静まり返った駐車場に、虫の声がひどく大きく響いていた。




