1.疾走のトラエ・D・リドナー
そよ風が音もなくカーテンを揺らす。月明かりが穏やかな夜の事だった。
(……う~ん、なんだか背中があったかいような……?)
ふと目覚めたエレナは、薄暗い夜明かりの中、ぼんやりとゴハンを見た。普段おちゃらけたゴハンの、アイドルのように整った容姿にまどろみもって感心する。感心してすぐ、エレナの隣で静かに寝息を立てるゴハンに目を見開いた。
エレナはそのまま視線を下にやる。パンの薄褐色の逞しい腕が、そっとエレナの腰を抱いていた。背の大きな存在、パンの穏やかな寝息が後頭部にかかる。
(……っどうして2人が私のベッドにいるの!?)
一気に汗が噴き出たエレナは、落ちたキャミソールの肩紐をあげる。そして、真っ白な頭で昨夜の記憶をたどった。カラオケで乾いた喉をドリンクで潤したら、なんだか心地いい眩暈がしたことは覚えている。
〔あ、それパンのだぜ〕とゴハンの声がして、なんだかふわふわと気分がよくなって……そこからは判然としない。気付けば今、ゴハンとパンとベッドの上だったのだから。
(一緒に寝るなんて、なんだかものすごくいけないことをしてる気がする。ソファで寝よう……)
エレナがクッションを掴んだ時、ふとパンに手を掴まれた。あっと思う間もなく、そのまま軽々と抱き寄せられる。流れるように腕枕されたエレナは、まるで恋人同士のそれに耳まで赤くした。
「……ち、ちょっとパン、寝ぼけてるよっ……」
パンの厚い胸板はびっくりするほど硬い。押されたパンはどうということなく、目を閉じたまま静かに囁いた。
「何もしない、おやすみ……」
首を振って訴えようも、パンはもう寝息をたてていた。背でゴハンの小さないびきが聞こえている。時計の針が、静かに時を刻んでいった。
(ど……どうしようっ……)
エレナはパンの腕の中で、緊張にまばたきひとつ。バクつく心臓はMIBの寝息で、次第に落ち着きを取り戻していった。
腕枕はエレナが想像していたよりずっと硬く、枕にしては高すぎだった。パンのハンサムな顔も、セクシーな体つきも、香水が薄く籠ったような匂いも、隣で眠るにはとんでもないほど刺激的すぎる。ましてやこの距離は直視すらできなかった。
それでもエレナは、ひと肌のぬくもりと心地よい安心感で胸がいっぱいになった。こんな気持ちは初めてだった。
(そういえば初めて会った時、バージンも守るって言ったっけ……)
パンのいつかの言葉に、エレナは安堵の深呼吸ひとつ。MIB達の寝息を子守歌に、そっと瞳を閉じたのだった。
……・……
朝日眩しい黄金街道で、小鳥たちが可愛い声で朝を告げる。
ミシェルは退屈げに通学路を歩いていた。いつもと変わらない朝、いつもと同じ通学路。ただ隣にエレナがいないだけの。
幼い頃は、とミシェルは思った。エレナとミシェルはずっと一緒に過ごしてきた。それこそ小学校までは家族のように、中学までは親友のように。年齢と共にどんどん手が離れていくエレナを喜ばしく思う反面、少し寂しくも感じていた。空の巣症候群だとどこかで耳にしたことがあるが、いつでもエレナが帰れる場所であろうと誓ったのはここ最近のことではない。
ふと携帯が鳴って、ミシェルは耳を当てた。いつものマリア(エレナの叔母さん)からだ。
「ええマリア、エレナは今日もつつがなく元気ですよ」。いつものおざなりな報告に返事はなく、通話は切れた。
(大丈夫、仕事だから……エレナは大丈夫)
ミシェルが足元の小石を蹴った時だった。雷鳴のようなバイクのエンジン音が響き、3連ラッパのエアホーンが陽気にパラリラと鳴ってミシェルの隣につく。幼馴染であるトラエ・D・リドナーに、ミシェルは軽く挨拶した。
「おはよう、トラエ」
トラエの古臭い世紀末スタイルのパンクスーツが、朝日を鈍く反射する。とげとげしい肩パッドやナックルをぎらりと光らせるトラエはヤンキーそのものだ。派手な恰好をしてはいるが、トラエはまだ幼さ残る15歳の少年である。
ドラッグ無縁の健康的な小麦色の肌に、流星色の髪が眩しい。そこからのぞいた柘榴のように紅い瞳が、はぜるような緋でミシェルを見る。
「よォ、ミシェル。乗ってけよ」
改造バイクの爆音を響かせて駐輪場に停めたトラエは、後部席から降りたミシェルに鼻先をかいた。
「最近エレナと一緒じゃねーじゃん。いつも毎週末は泊まってんだろ?」
それにミシェルは慣れたように肩をすくませた。「エレナももう子どもじゃないんだよ」と。どこか寂し気な横顔に、トラエは鼻息ひとつ。
「なあ、今週末、メシ食いにいこうぜ」
ミシェルは適当に頷きながら腕時計を目を落とし、そろそろエレナが起きる時間かなと思いながら「近場でお茶くらいなら」と適当に返した。それにトラエはガッツポーズに飛び上がる。
「よっしゃー! やりィ!」
ふと中等部校舎から、教師がトラエに声を投げた。
「トラエくん! 今日という今日はバイクを没収だ! すぐに職員室へきなさい!」
バイクのキーを慌ててポケットに突っ込んだトラエは、「やっべ」と一言、突風のように走り去る。相変わらずの足の速さに、ミシェルは手をひさしに目を細めたのだった。
……
早朝の裏庭で、ジュリアは朝露の香りを胸いっぱい深呼吸した。
校舎裏の大樹の足元で、子猫チビに朝ご飯を与えるのがジュリアの日課だ。今日もチビは八の字にまとわりつく。
「猫缶の半分は、お昼用に残して」
ジュリアの優しい手が、小さなチビの頭を撫でる。チビは可愛く鳴いて食べ始め、猫缶をきっちり半分残した。
ふと気配に顔を上げたジュリアが、奥の茂みに注視する。示し合わせたかのように現れたのは、葉っぱまみれの一人の男子生徒だった。
「くそ、しつけーな教師どもめ。オレはUMAかッての!」
それは本当に偶然だった。男子生徒ことトラエがたまたま裏庭に逃げ込んだのも、その勢いでたまたま小石を蹴ってしまって、それがたまたまチビに軽く当たったのも、悲劇という名の偶然なのだ。しかしそれにジュリアがブチ切れるのは地獄の必然だった。
バッターの素振りのような音に、トラエは大きく飛びのいた。ギターを振りかざすジュリアにトラエはまた1歩、2歩と軽々と避ける。
「なんだよいきなり、あっぶねーなぁ!」とトラエは言って、傍の木に手をかけクルリと高みに見下ろした。
木を蹴り飛ばしたジュリアが射抜くように見上げる。
「チビに乱暴したわね。降りてきなさい、今なら半殺しで終わらせてあげる」
トラエは驚いてチビとやらを見た。黒い子猫チビはなんというわけでもなく耳をかいている。
「全然平気そうだけど。オレなにかした?」
ジュリアは眉をひそめ、木の上ですっとぼける男子生徒をさらに睨みあげた。高等部ではなく中等部なのは目に見えてあきらかで、パンクというよりかなり古臭い世紀末スタイルだ。黒い革ジャンにはとげとげしい肩パッドがついていて、戦果を語る厳ついナックルは今にもストリートファイトをおっぱじめんばかりだ。
(いつの時代のヤンキーよ)、とジュリアは思った。
しかし太陽の申し子のような小麦色の肌は健康そのものだ。流星色の髪が木漏れ日に光る。そこからのぞいた柘榴のように紅い瞳が、はぜるような緋でジュリアを見た。
「さ~っすが暴力沙汰で有名な北条ジュリア、噂通りのバーサーカー! でもギターより魔法少女のマジカルステッキの方が似合うんじゃねーの?」
「……やっぱり全殺しにするわ」
ぎりと奥歯を鳴らすジュリアに、トラエは「お~こわ」と鼻で笑って雨どいに飛び移る。ジュリアが声をかける間もなく、そのまま屋上まで登ったトラエは軽く手を振って去っていった。抜けるような青空にジュリアは拳をかたく握る。
「次に会ったら絶対ぶっ殺す」と。




