3.外来菌糸体エノキノコ
どんどん冷たくなる手に、私は涙を流しました。
こんな目に合わせてしまうくらいなら、いっそあのまま別れていればよかったと。
あなたの笑顔が好きでした。あなたの寝顔が好きでした。微笑み返してくれる、優しいその瞳が好きでした。
……・……
放課後の部室で、エレナはミシェルから借りた本に指を走らせた。
「……郊外に存在する、不思議な底なし井戸。動物も近寄らない異様な雰囲気のその井戸は、ゴミを投げ入れても音が響かず、穴の近くにラジオを置くと妙な音声や古い音楽を拾う時があるという。
探索すれば謎の黒づくめの2人組に土地への立ち入りを禁じられ、『我々はダークサイドの者だ。命が惜しければ、二度と関わるな』と脅されるのだ。こっそり立ち入った若者がいたが、ふと気づけば自宅のベッドで眠っていて、首には謎の注射痕があったという……。現在この土地は、国が保有している」
音読を終えたエレナは、興奮気味にゴハンを見た。
「……この謎の黒づくめの2人組って、MIBのことだよね?!」
相談箱の投書を開くジュリアが、呆れにエレナを横目見る。
「児童書にありそうな内容ね。それよりも宿題はやったの」
黒塗りの実験机であぐらをかくゴハンが、キノコの炊き込みオニギリを頬張った。
「あ~、それ飛行盤(UFO)の墜落現場。感染症対策で立入禁止にしてるだけだよ、よくあるんだよね。オプトジェネティクス・レーザーが開発される前は、薬品で記憶を飛ばしてたんだ。人によっては効果がなかったり後遺症が出たりして苦労したもんさ」
言って、鞄からアルミホイルの玉をエレナ達に手渡す。
「う~んうまい、2人にもあげちゃう! 俺ちゃん特製愛情こめこめ、キノコの炊き込みオニギリだぜ!」
エレナはライスボールを受け取って、ゴハンを見上げた。
「えっいいの? ありがとー! これ、ゴハンが今朝握ってたお弁当よね、いただきまー……」
大口を開けて食べようとした瞬間だった。オニギリにノータッチのジュリアが、頬づえまま呟く。
「男ってトイレのあと、手を洗わないのが大多数だそうだけど」
それにエレナがスンと食べるのをやめた。2人の懐疑的な目に、ゴハンが冗談およしよと手をやる。
「いやいや、さすがに料理の前は洗うよ~?」
ぎょっとしたエレナがオニギリを突っ返し、ドン引きに身震いした。
「えー!? やだ、いつも洗ってよ! ハンカチ持ってないの? 汚い!」
「断言するけどトイレの度に手を洗ってる奴って少数派だぜ? パンもサムソンも洗ってないって~」
「やだやだ、そういうのやめてっ! 想像しちゃうじゃん……!」
賑やかな2人の会話を止めたのは、ジュリアの「2人ともうるさい」の一言だった。
ジュリアはいつの間にか誰かと通話していて、どこか思い詰めた面持ちでスマホを耳に当てている。ゴハンとエレナは見合わせ、またジュリアを見た。
「わかった。すぐ行くわ」
そう言って、通話を切る。いつも冷静沈着なジュリアの目は不安に揺れていた。
「聖イルミナ医院から連絡があったの。……先生が、倒れたって」
……・……
真っ白なベッドで寝息を立てるサムソンに、ジュリアはそっと目を伏せた。眼下のクマに唇をかむ。
ジュリアは身を粉にするサムソンを見るのが苦しかった。いっそ全てを捨てて、どこか遠くで共に過ごせたらと思うほどだ。
どんな地獄も、サムソンと一緒なら乗り越えていけるのにと。
「ただの疲労だって。休めば治るって言ってたけど、熱もあるからついていてあげたいの」
個室のドアをそっと閉じたジュリアは、沈むようにエレナにそう告げる。
ジュリアの肩に手をやったエレナは、励ますように大きく頷いた。
「そうしてあげて、サムソン先生に大事がなくてよかったよ。何かできることがあったら言ってね。白いスーツ男がらみの事件があれば、また知らせるから」
「ええ。それなんだけど」
ジュリアは言って、1枚のクリアファイルをエレナに手渡す。エレナはふむと中に目を通した。
書類には、1枚の写真があった。女の子の頬から、エノキに似たキノコが生えている変な写真だ。
「えっ、これ、……キノコ人間??」
「ええ。イルミナ真菌医学研究センターに搬送された患者の資料よ。医務課の機密書類だけど、こっそりコピーをとっておいたの。
そのセンターの人手が足りなくて、先生が准教授代理の会議に行ってたのよ。連日の徹夜で無理がたたったのね」
エレナは書類を1枚めくった。
「ふむふむ、患者は咳や痰・発熱など風邪に似た症状がでて、頬からキノコが生えた……と。キノコが人から生えるなんてことあるんだ」
ジュリアは腕を組み、壁に身を任せた。
「真菌は微生物だから、生で食べたキノコが体内で繁殖することは稀にあるわ。もっとも、普通は免疫力に勝てず死滅するけど」
書類をクリアファイルに戻しつつ、エレナはやや首を傾げる。
「でもキノコって、カビみたいなものでしょ? 徹底体に除菌や消毒したら消えるんじゃないの?」
「ピンポイントで殺菌は無理よ。生体は菌の存在を前提にできていて、ビフィズス菌や大腸菌……数多くの常在菌と共生しているわ。
無菌状態で育つと生体は正常に生育しないし、それどころか異常が発生するの。人間は一個の独立した生命体じゃなくて、無数の生命体の集まりなんだから」
「へー! 詳しいのね」
「……理科で習ったでしょ、小学生でも知ってるわよ」
エレナは罰が悪そうに笑ってみせた。クリアファイルを軽く振って「それで、このキノコ人間がどうしたの?」
ジュリアに少し間があった。言うか言うまいかといった様子だったが、決断は早かった。
「この患者はエイリアンじゃないわ、でもそれに似た嫌な気配がする。はっきりとはしないから何とも言えないけど、貴女達に調べてほしくて。先生がこうなった以上、また無理をさせたくないのよ」
エレナはよしきたと親指を立てた。
「OK! ジュリアがそう言うなら、きっとエイリアンに何らかの関わりがあるはずだよ。私達が調べてみるから、ジュリアは先生をみてあげて」
聖イルミナ医院の駐車場にひっそり停まった車をみれば、後部座席でMIBとエレナが並んで書類を見ている姿が伺えただろう。
3人は後部座席に並んで座り、揃って首をかしげていた。
「ま、いわゆる感染症だね」とゴハン。「被害者の基礎情報や行動経路を洗おうも、肝心の個人情報が抜けてやんの」
パンがノートパソコンを打って、ふむと顎をつまむ。
「制服からして感染者はエルモ高等学校ということくらいか……そこから生徒名簿を洗って、住所を割り出そう」
仕事する2人を横目、エレナがふとスマホをタップし、MIBに画面を見せた。
「ニンスタのハッシュタグで検索したら出てきたよ!」
エレナの画面には、感染者がキャンプにはしゃぐ姿が映し出されている。
やれ〔#最高の心友〕だののタグの中に、校名やキャンプ場の名前までしっかり記載されてあった。
ゴハンがビンゴに口笛を鳴らし、エレナの肩に腕を乗せる。
「わーお、やるね~現代っ子。じゃ、とりまキャンプ場に向かってみよっか!」
……・……
高速次いでドライブすること1時間。
キャンプ場の入口をくぐったエレナは、一面の緑に声をあげた。緑々と生い茂る森は、色濃い生気に満ち溢れている。
「うわー綺麗な森! 秘境というか、山の神様がいそう!」
砂利道を鳴らしつつ適当な影に停車したパンは、そばの川を指した。
「感染者が写っていた画像と同じ河原だな。エレナ、レンズであたりを視てくれないか?」
エレナはひとつ頷いて、レンズを掲げてあたりを視た。
おだやかにゆらめく虹色の先……川の流れに添って、煙のようなモヤが下流へとゆっくり流れている。モヤ元は山の奥から流れているようだった。
「モヤが上流から流れてる。この先に、感染の理由があるはずよ」
誘導看板や丸太階段もない道なき道は、思いのほか足元が不安定だった。
MIBは慣れっこのようで、エレナは2人に手を貸してもらいつつ上流を目指す。心地よい風がエレナの汗を冷やした。
「リスとかいないかな? ねえ、今度みんなも誘って遊びに来ようよ」
エレナを引き上げたパンは歯切れ悪く言葉を濁す。
「いや、ここはどうかな……」
その目はやや遠く先を見ている。仕事をしている時の真剣な目だ。エレナは行楽気分だった自分を恥じ、しっかりパンの背を追ったのだった。
一行はやがて開けた水源へと出た。
緑々とした岩苔を夕日が照らす。人跡未踏の神々しいそこは、心が洗われるかのような荘厳な世界だった。
水源は水晶のように透き通り、底の石まではっきりと見える。
「わぁ……なんて綺麗……」
エレナは思わず呟いて、そっとレンズを掲げてみた。掲げてすぐ、ぎょっとMIBに声をあげる。
「モヤまみれで何も視えないよ! ここが発生源だわ!」
といっても、何の変哲もない綺麗な水源である。ゴハンが舐めるように周囲を伺いつつ、エレナに言った。
「エレナちゃん、周囲にレンズの光を当ててみてくんない? レンズの光は空間歪曲回折系の機能を強制解除できるんだ。このへんに潜む《何か》を炙り出そうぜ」
エレナは頷きもって、タクティカルライトを周囲に当ててみた。
やがて、目前の巨大な苔岩に変化があった。プリズムが風で剥がれるように、一機の飛行盤(UFO)が現れたのだ!
暗灰色の飛行盤は目に見えて壊れていて、やや斜めに地に刺さった姿は素人目にも墜落したのだろうと理解できた。
強制解除した勢いか、風が髪をやんわりなびかせる。粉っぽい臭いに、エレナは眉をひそめて小さく咳込んだ。まるでチョークの粉を吸ってしまったような気分だった。
「ひ、飛行盤……! っまさか苔岩自体が飛行盤だったなんて」
MIBは驚きの声一つ上げなかった。ゴハンが慣れたように本部へ通信を繋ぐ。
「こちらMIB、水源付近に墜落した飛行盤1機を確認。これから調査するんで、回収班の手配よろしく~」
それだけ言って、大アクビに通信機を胸ポケットにさす。なんとものんびりしたものだ。
ずいと前に出るはパンだった。「外の監視を頼む」と流れるように袖からライトを手に落とし、飛行盤へと向かう。
エレナはパンの背を追いつつ、そそとUFOに触れてみた。金属というよりガラスに近い滑らかな触り心地だ。外装は一部剥がれており、剥き出しの脈管から液化した金属が流れ、氷のように固まっている。
(すごい、地球産の飛行盤と全然違う……。SF映画に出てきそう! きっとすごい文明の飛行盤ね)
「随分と旧型の飛行盤だな」とパンの呟き声にまばたきひとつ、エレナは慌てて背を追った。
夕日がきりこむように闇色の船内を照らす。
植物が浸食した狭い船内は、まるで未来のテラリウムのようだ。およそ廊下であろうそこを見渡し、奥でパンが何やらパックのようなものを回収している姿をとらえる。エレナはそそと歩み寄り、その様子を観察した。
パンの持つパックには、キノコの画像が印刷されてあった。感染者の頬から生えていたキノコとうりふたつだ。
「あっ感染者に生えていたキノコと同じキノコ!」
パンは回収したパックを特殊なボックスに納める。
「ああ。外来菌糸体は、どうやらここが発生源のようだ。宇宙空間では紫外線によるビタミンDの生成が困難のため、栄養価が確実に摂取でき、味付けも保存も培養も容易なキノコが一般的でな。故に搭乗員は太陽系の生命体だろう。だが旅行者にしては荷が少ないな……」
パンは言いもって次の個室へ向かった。次の部屋は、いかにも操縦席のそれだった。様々な機械は遠い沈黙に沈んでいる。
そのさらに奥に、影が見えた。パンがやおらライトを照らす。
「ぁ……!」
エレナは愕然に言葉を失った。
キノコが生えた老木に見えるそれは、墜落時に死んだであろう搭乗員たちのミイラだった。あきらかに種族の違う2人のミイラは互いに手を繋ぎ、静かに朽ちている。
パンは冷静に遺体を検分した。
「死後かなり時間が経過しているようだ。救難信号を出した形跡がない。様相からして亡命中に何らかのトラブルが発生し、墜落したんだろう。地球の被害を最小限にするため、胞子が外に漏れないよう空間機能で物理的に遮断し、拡散防止措置をしたようだ。
しかし長い年月と老朽化から、下降のキャンプ場までキノコの胞子が流れた、といったところか。感染者の感染経路が特定できたな」
エレナは足が縫い付けたように動かなかった。
逃げ出すこともできただろうに、彼らは地球の被害を最小限にするため、この場にとどまる事を選択したのだ。
彼らはどんな気持ちで亡くなったのだろう? 少なくとも、思い描いていた未来ではなかったはずだ。
胸がぎゅっと痛くなった。映画でもゲームでもない悲しく不条理な死は、あまりにもか細いリアルだった。
飛行盤の外では、ゴハンが退屈げに爪をいじっていた。パンを見るなり通信機をパスする。
「宇宙食の菌類胞子が墜落時に飛散していた模様。ヒトへの感染を確認」
端的に通信を終えたパンはエレナを見た。エレナは覇気がなく、どこか上の空だ。
エレナに寄り添うように、パンがそっと告げる。
「エレナがいなければ今回の捜索は困難だった、よくやった」
「どうして2人は死ななきゃいけなかったの?」
虚を突かれたパンに、ゴハンが軽く助け舟を出す。か細いエレナの肩に軽く手を乗せた。
「ま、色々あったんだろね~。じきに回収班が山を封鎖するから、とりま下山しようぜ!」
夕日がどんどん落ちていく。
気付けばあたりは空よりうんと暗く、不気味な世界へと変わっていった。
まるで墓場を歩いているような気分だった。暗闇に目が慣れてきたころ、さっきのキノコが点々と生えていることに気付く。
(……私がそこにいけたなら、2人を助けてあげたかった。もう大丈夫だよって言って助けて、笑顔で元気に過ごしてほしかった……)
エレナはかたく拳を握る。無力な自分が歯がゆかった。
彼らの尊い犠牲を無駄にしないよう、この気持ちを忘れないでいようと心に誓ったのだった。
……
エレナがふと顔を上げた。
「……ねえ、いま何か音がしなかった?」
最初は、石が芝生に落ちたのかと思った。2度目に耳をすまし、3度目に歩みが止まる。
MIBも大きく辺りを見渡した。木々は囁くようにざわめいている。
エレナの足元に1つ、何かが落ちた。
視線を落とせばリスがいた。
リスは痙攣していて、頭部がぼこぼこに膨らんでいる。その目はうつろで、その場で糞尿をまき散らしぷつりと息絶えた。
「えっ! ……うわっ! うわっなにこれ!」
エレナの言葉を断つように、またすぐそばで音がひとつ。
ぼと、ぼと、ぼとぼとぼとぼと。
ひとつがふたつに、ふたつがよっつに。次々と木からリスが落ちていく。
エレナの背を受け止めていたゴハンが、流れるように銃を抜く。目の前のパンが、長いナイフを抜き構えた。
溜息のようにリスの雨は終わり、暗闇に嫌な静寂が訪れた。
エレナの頬に汗が流れる。
妙な足音が1つ、こちらに向かっているのだ。ぴんと空気が張り詰める。
暗闇から現れたのは、1匹の鹿だった。
頭部は灰色に近い紫色……腐肉の色をしていて、妙に膨らんでいる。足取りはおぼつかず、ヨダレが糸を引いていた。
うなだれたように頭を下げて、糞尿をたれ流しながら、躓くように倒れ込む。
追うようにもう1匹。今度は腐肉を肛門からぶら下げた鹿が、回転しながらどこかへ消えていった。
間をおかずにもう1匹、2匹、いや4匹。
エレナは恐怖に身をこわばらせた。
「ぞ、ゾンビ! ゾンビの鹿ァっ!」
背のゴハンは銃口をあげた。
「あちゃー、胞子のにおいに集まってきたか」
「まってまって、昨夜やったゲーム、バイオモルフ・ハザードのゾンビにそっくり! どういうこと……!?」
恐怖に混乱するエレナをよそに、ゴハンは銃をホルスターに戻し、狂った鹿たちを顎で指す。
「感染した動物が、脳内に菌核を形成されて自意識を乗っ取られてるだけ。ヒトみたいに人工免疫を得てない生物には、外来感染症は猛毒なんだよね。現場を荒らすわけにはいかないし、ここは一旦退却……」
ゴハンが言い終わる前に、パンが寄ってきた鹿を大きく蹴り飛ばす。「同感だ」と。
同時、エレナがうんと抱き上げられる。
「君が走るより、俺が運んだ方が速い。舌を噛まないよう口を閉じて」
パンの声に、エレナはしっかり頷いた。
ゴハンとパンは動物たちの隙をつき、木々の間を縫って矢のごとく駆けていく。
エレナはパンの首にしがみつき、薄目を開けた。
狂ったように木にぶつかる鳥たち、ちぐはぐに飛んで崖から落ちる鹿。爽やかだった森は今や地獄絵図だ。
呼吸ひとつも乱れぬパンが、エレナの耳元に囁く。
「搭乗者2名の死亡理由がどうあれ、結果はこれだ。誰が悪いわけでもない不条理な不幸は山ほどある。よく見ておきなさい。優しい君が、いつか傷ついてしまわないように」
一瞬、無重力に体が浮いた。
MIBが崖から飛び降りたのだと把握したエレナは、遠くなる空にかたく瞼を閉じたのだった。
……
回収班は、エレナ達を静かに迎え入れた。
およそリーダーらしき防護服の男性が、不安げなエレナをチラと見る。
「墜落した時点で全回収は不可能だよ。胞子は原水に混ざり下流へ流れてるからな。
近隣動物は糞としてあちこちに子実体(しじつたい。茸のこと)を撒くし、お前らの足の裏や服にも胞子が付着している。伝播性は自然的であればあるほどお手上げだ、感染者は今後も増えていくだろうね。……ま、お前らはベストを尽くしたよ。あとは俺たちのお仕事。お疲れ」
エレナは頷いた。リーダーはあきらかに人類の肌色ではなかったが、まったく気にならなくなっていた。
一通り洗浄を受けたエレナ達は、飛行盤の窓から外をみていた。
遠くではケージに入った動物たちが搬送されていく。太い蛇腹パイプの先から、白い煙が消防車の放水のように山を清めていた。
離陸許可にパンが親指を立てる。うんと地面が離れて、あっという間に空の世界となった。
エレナはトランペットを欲しがる子どものようにガラスに張り付き、どこまでも続く街を見下ろしていた。
街は山とは違い、綺麗とは言い難かった。エレナは、シュレッダーをかけた広告に似ているな、とつぶさに思った。
ふと隣にゴハンが立つ。「何か見える?」
「あんなことがあったのに、遠くだと全然見えないなって思って」
それにゴハンが軽く片眉を上げてみせた。
「近すぎても見えないもんだよ、色々とね」
……・……
そんなこんなでMIBは、聖イルミナ医院の駐車場の隅でエレナを待っている。
街路灯に羽虫がぶつかる音だけが小さく響いていた。
ハンドルに片手を置くパンは、エレナの言葉を思い出していた。
羨望や性的な目で見られることには慣れている。だがエレナの無垢な目は、自身の本質をまざまざと見せつけられるような気持ちになるのだ。
助手席のゴハンは両手を頭の後ろに、低い声でつぶやいた。
「……俺らみたいな輩が一番絡んじゃいけねー子だよ。情が湧くと後がキツいぞ」と。
パンが「何の話だ」と気取ってみせるも、ゴハンからの返事はなかった。
ジュリアへの報告を済ませたエレナが、小走りに車に駆け寄る。
「ジュリアがありがとうだって! サムソン先生も点滴でだいぶ楽になったみたい。2人ともほんとにお疲れさま、ありがとう!」
後部席につくエレナに、ゴハンが保冷バックから丸いアルミホイルの玉を差し出す。
「おっつかれ~。小腹すいたろ? どーぞお食べ」
エレナはオニギリを見て、ゴハンを見た。ゴハンはキノコの炊き込みオニギリを頬張っている。気付けばパンもオニギリを食べていた。
キノコに感染した動物たちを思い出したエレナは、げんなりと首を横に振る。
「しばらくキノコはみたくないよ、2人とも神経ぶっとんでる……」
言ってふと、パンに同意を求めるような声を投げた。
「そうだ、ねえパン! パンはもちろんトイレのあと手を洗ってるよね、ゴハンにビシッと言ってやってよ!」
「出先では洗う」とパン。
MIBと同棲しているエレナは聞かなかったことにした。
……
朝日眩しい黄金街道が、爽やかな風を流す。
「パンも洗ってなかった」
エレナの複雑と羞恥を混ぜた面持ちに、ジュリアは思わず噴き出した。
賑やかな2人の間に割り入ったゴハンが、ジュリアを見下ろし盛大にニヤつく。
「はっはー! だろ? 絶対サムソンも手を洗ってないに決まって……」
言い終わる前に、ジュリアが裏拳で金的をかます。ゴハンの悲痛な声が街に響いたのだった。
すぐそばの自然公園では、子ども達が元気に遊びまわっていた。
そのうちの1人が声をあげた。噴水のそばで、リスが1匹佇んでいたのだ。
「あっリスさん!」
リスは寝起きなのか、カマキリにように体を揺らしていた。眠いのか目は虚ろで、お腹が空いたのかヨダレを垂らしている。
子ども達は大興奮で声をあげた。
「きゃーかわいい!」「こっちおいで、おいで~!」
小さな手が、ぱちぱち拍手する。
暗闇に光る線香花火のような音に、リスは勢いをつけて駆けだした。




