3.インセクトイド・イーシャ
昼間の陽気はどこへやら、夜の学園はうっそうと静まり、ひんやりとした空気が漂っていた。
「深夜の校内を徘徊する幽霊?」
校舎の鍵を開けたパンに、エレナが頷く。
「うん、学園七不思議の1つだよ。幽霊に出遭ったが最期、問答無用で体中の血を吸い殺されちゃうの……」
それにパンがちょっと止まって、まばたきひとつ。
「その話だと目撃者も吸い殺されてるわけだが」
エレナが半笑いで小刻みに頷く。ビビらせたかったが盛大にスベッた顔だ。
怖さをギャグで上塗りしてると判断したパンは、エレナの子どもくささにちょっと笑った。お返しにエレナの鼻をちょいとつまんでやったのだった。
やがて静かに、学園の扉は開かれた。
いつも賑やかな校内は切り取ったかのように静まり返り、心臓の音すら聞こえそうだ。
エレナはまるで肝試しのような気分だったが、パンは夜間の見回りそのものだ。ライトが暗闇をあばき、教員用の靴箱がうっすら照らされていく。
手始めの職員室は、異常なしだった。
担任の机で、抜き打ちテストの問題用紙を盗み見たエレナがパンに小突かれる。
「そんなにテストが好きなら、毎日抜き打ちテストをしようか?」
「ち、違うの! 何の紙かなーって……ははは」
続いて渡り廊下と裏庭。ここも異常なしで、静かなものだ。
「レンズも無反応だよ」とエレナ。
パンもあたりを見渡して、軽い溜息ひとつ。
「ああ、チビすらいないようだ」
そして最後に、昼間にまわった飼育部。エレナがレンズで見渡すも、昼間と全く変わりはなかった。
「……うーん、はずれみたいね」
エレナが両手を広げてみせる。
パンが頷き、先の校舎を顎で指した。
「念のため、教科棟も見回りしてみよう」
……・……
誰もいない教室や、しんと静まり返った音楽室。眠る図書室に、ちょっと怖い理科室。
エレナは調査もって、夜の学園散歩がすっかり楽しくなっていた。
「わぁ懐かしい! 中等部の頃はこの先の渡り廊下でよく、ミシェルとお弁当を食べたなあ」
先を行くエレナに、パンが微笑ましく頷く。
3階の渡り廊下はちょっとしたスペースになっていて、ベンチや自販機もある解放的な休息スペースだ。
真っ白の柵に手を置いたエレナは、夜の学園を見渡した。
ふわりと風が髪を揺らす。
真っ暗な学園を一望するのは、なかなか経験できない事だ。
夜ならではの生ぬるい風が心地いい。エレナは調査をさておき、胸いっぱいに夜の学園の香りを吸った。
パンは気持ちよさげなエレナを見た。月で髪が金色に輝いている。その横顔はあどけない少女でもあれば、夢見る乙女のようでもあった。
手すりに手をかけるエレナに続き、パンは隣に並んで手すりに肘を置く。
「……前から思っていたんだが、どうしてあんな大きな家で一人暮らしを?」
エレナは視線だけちらとパンにやって、答え慣れたようにうんざりに一言。
「家の都合」と。
そして、視線を夜に戻し、静かに付け加えた。
「……今の生活は、卒業するまでの期間限定なの。ずっとあそこに1人で住めるわけじゃなくて」
「期間限定?」とパン。
エレナはひとつ頷いた。
「うん。私、20歳になったらフィアンセと結婚するの」
ひとつ間があった。エレナはふとパンを見上げる。パンは複雑そうな面持ちだ。
「それは初耳だな」と。
エレナは力なく肩をすくめてみせた。
「私が産まれる前から、〔せいやく〕で決まってる事なんだって」
「人にあてがわれた相手と、一生を添い遂げるのか?」
「だって、家を見てわかるでしょ? そういうものなのよ」
それにパンがはたと、やや目を眇めた。
「……君は〔もの〕じゃないだろう」と。
エレナは返さなかった。正しくは、返す言葉が出なかった。
〔もの〕じゃない、なんて考えたことすらなかった。だって、そういうものだったから。言葉に詰まって、逃げるように手すりに頬杖をつく。
心のどこかで漠然と、王子様がここではないどこかへ連れて行ってくれるのだと思っていた。
どんな絵本も映画も小説も、そんな夢あふれる物語ばかりだったから。
でもどう抗おうと、現実は現実なのだ。
エレナは手放すように目を伏せた。
「……。お友達のお家に遊びに行くと、おばさんがケーキを焼いててね……」
ふとしたパンが、ふむと手すりに片腕を乗せ、続きを待った。
エレナの瞳は力なく、暗い夜空を映している。
「……お庭で転んだ時、消毒して絆創膏をはってくれたの。お化粧の綺麗な匂いがしたわ。
おじさんが肩車をしてくれて、すごく嬉しかったのを覚えてる。お庭で走る犬も可愛くて、ふわふわであったかくて……」
エレナの小さな溜息ひとつ、呟くように続けた。
「私は、夕飯時に〔ここのお家の子になりたい〕って、デスクの下に入って駄々をこねたの。
迎えに来たマリア叔母さんに、本ッ当にきつく叱られた。庶民の前でみっともない真似はやめなさいって。
叩かれた頬はしばらく黄疸になったっけ。
幼すぎた私はそのとき本当に、純粋にその家の家族になりたかったの。やっと家族ができるって思って……」
エレナは吹っ切るように、顔をあげた。
「その友達は、翌日引っ越しちゃった。マリア叔母さんがそうさせたんだよ、いつもそう。
いじわるしてきた女子グループ、告白してきた男子、気になってた上級生……みんな〔りょがいもの〕なんだって。
……だから、パン達のことがマリア叔母さんにバレたら大変」
パンはエレナを見つめていた。
この娘は、好きなものを取り上げられ続け、いつしか自分を守るために求めることを諦めたのだと。
昨夜ゲーム対戦を終えた時、エレナは〔ゴハンとパンが来てくれてすっごく嬉しい〕と目を潤ませ、はしゃいでいた。
その姿はまるで、小さな子どものようだった。
「……私達の関係も、期間限定というわけか」
それにエレナは小さく頷き、苦笑に歯を見せた。大きく背伸びし、夜空に大きく息を吐く。
パンも夜空を見上げた。いつかの満天の星空は遠い。
エレナは、子どもの頃に家出をした事を思い出していた。
小学生の頃、鞄にたくさんオモチャやお菓子を詰めて、ミシェルと一緒に電車に飛び乗ったのだ。
手あたり次第にバスや電車を乗り継ぎ、どれだけ遠くに行っても、監視の目はどこまでもついてきた。
結局、日が変わる前にSPに囲まれ、家に送り届けられるのだ。
「……ねぇ、私もパン達と同じ本部にいけないかな?」
その言葉にパンが少し驚いた様子でエレナを見る。エレナは夜空を遠く見上げていた。
パンはその横顔に目を細める。
幼さ残る小娘の、寂しさに満ちた横顔が歯がゆかった。
「……本部への入隊は、志願ではなく上の意向で可決される。
適合性が全てを左右するため、脱退も自分の意思では決められない。一生飼い殺しだ」
「やだ、冗談よ。パンったらすぐ本気にするんだから。飼い殺しって怖すぎ」
エレナは口元に手をやって、おかしげに笑った。涙が枯れた作り笑いだ。
それにパンは気付いた。笑顔はエレナの処世術なのだと。
客観視して諦めて、元気で覆い隠す。元気な笑顔のどこかぽっかりと穴があるのだ。
(泣きたくても笑うしかできなくなったのは、いつからだろうか……)
パンは蛇口が壊れたように思考が溢れるのを感じた。
この小さな手をとって、どこか遠くへ行けるとしたら、本当の笑顔を見せてくれるのだろうかと。
しかしパンは、エレナの華奢な手をとることはできなかった。
手を取れば、馬鹿な同僚の二の舞になるのは目に見えていたからだ。
わずかな間しか過ごせないなら、せめていい思い出を作ってやりたい。パンは静かにそう思った。
「……、じゃあ、たくさん思い出を作らないとな」
エレナは目覚めるようにパンを見上げた。
いつになく穏やかなパンの表情に、エレナは綻ぶように頷いたのだった。
その時だった。
ふとパンが校舎を見て、素早くエレナを背に隠す。滑るように長ナイフを抜き、闇に構えた。
驚いたエレナは、パンの視線の先をみた。
ガラス張りの出入口は、深海のように真っ黒だ。その暗闇がうごめいている。
うごめいて飛び出したのは、1匹のネズミだった。
「えっ……イーシャのネズミ……?」
エレナは目を丸くした。なぜならそれは昼間、イーシャが掴み上げていたネズミだったからだ。
ネズミは必死に走るも、闇の追跡者にあっけなく引き戻される。
棒のような腕がネズミを闇に引き込み、間髪入れず「ヂュウッ」と悲鳴がひとつ。小さな血しぶきが渡り廊下に散った。
エレナはぎょっとして、落ちるように合点した。
荒らされた飼育部、食べられたハムスターたち。そして、やたらネズミを食べたがっていたイーシャ。
(どうしてイーシャをレンズで見なかったんだろう……! 私の馬鹿!)
暗闇から不気味な足が1歩、大きく前に出た。
月明かりに照らされたその姿は、ゆうに2Mはある巨大な虫だった。イーシャの名残は微塵もない。
真っ黒い巨躯にゴキブリのような足が数本、トンボのような羽が背から無数に伸びている。鋭い歯は刃物をこすり合わせたような、嫌な音を出していた。
イーシャの髪と同じ色の羽が、ゆっくりと広がる。
「昆虫型インセクトイドだ。威嚇している」
パンは言って、視線をイーシャままに続けた。「私が先行する。エレナはその隙に校舎の中へ隠れるんだ」
エレナは大きく首を振った。
「待って! あれはイーシャなの、殺さないで!」
言って、レンズを隠すように強く握りしめた。レンズの光が当たればきっと、イーシャはミリアムのように溶けてしまうからだ。
パンが仰天にエレナを横目見る。パンもイーシャの事はよく知っていた。
就任当日、イーシャに生のタコを叩きつけられたのだ。かなり頭が気の毒な女だと思っていたが、中身がエイリアンなら合点がいくと。
思考を断つように、イーシャが羽を大きく奮わせる。
突撃が来ると判断したパンは、エレナを抱きさらい、手すりを大きく飛び越えた。
パンの腕の中のエレナが息を飲んだ。ここ渡り廊下は3階なのだ!
それにパンは物ともせず、中庭へと降りたった。ぐんと重力に体が重くなり、芝生の香りが鼻の奥まで入り込む。
真上の月を背に、イーシャことインセクトイドが音のような声を上げていた。
パンはエレナを立たせた。
「インセクトイドは体温・聴覚はないが視覚・嗅覚・触覚で対象を知覚している。
環世界が違う生命体だが、対処できないわけではない。何事も知恵と工夫がものをいう」
言ってダンスの誘いのように、エレナの手を取った。
「エレナ、奴の弱点は目と鼻と音だ。イーシャは我を忘れている、ともかく捕獲せねば始まらない」
エレナは大きく頷き、その手を握り返した。
…
渡り廊下から飛び降りたイーシャことインセクトイドは、勢いまま正面の壁に激突する。
そのままピンボールのようにはじけ飛んで、そばの木にゴールをきめた。
枝を食む音がして、しばらく。
ちょっとよろめきつつ木から落ちたインセクトイドは、複眼であたりを見渡した。触覚を揺らし、あたりの臭いや音を察知する。
しんと静まり返った中庭に、ふわりとおいしそうな匂いが漂っていた。
匂いに引き寄せられるように、インセクトイドは歩を進める。
おいしそうな匂いはすぐにわかった。
芝生の上に、紙袋があったのだ。中から食べかけの海老アボカドのサラダサンドが顔をのぞかせている。
パンズから溢れる色とりどりの野菜に、インセクトイドの触覚が動いた。
インセクトイドが紙袋ごとかぶりついた、その瞬間だった。
世界が一気に宙に浮いて、インセクトイドは宙釣りとなる。突如自由を奪われたインセクトイドは、わけがわからぬまま空にもがいた。
「やったー! 捕獲完了!」
声をあげたのは、中庭校舎の裏から現れたエレナだった。
エレナとパンは運動部の緑ネットを繋ぎ合わせ、巨大な捕獲網を作ったのだ。
まんまとひっかかったインセクトイドは、緑ネットに包まれ宙釣りだ。掻き潰したような鳴き声が中庭に響き渡る。
「そのまま本部に送ろう。危険だから離れてなさい」
パンは緑ネットの末端を木に縛りながら言った。エレナは「大丈夫」と一言、興味津々にインセクトイドを眺めている。
そして、レンズごしに声をかけた。
「イーシャ、もう大丈夫だよ。私達はあなたを傷つけたくないの、少しお話をしよう?」
インセクトイドはエレナを見た。
爽やかなピクルス色の髪……そして、新鮮なキャベツ色の瞳。空腹に力が加速する。
インセクトイドがひとつもがくと、何やら手ごたえがあった。肢の棘が網にひっかかったのだ。
よしこれでピクルスとキャベツを食べることができると、インセクトイドはおおいにもがいた。
何かが引き千切れ、落ちる音と、パンの声は同時だった。
「エレナ!」ナイフを抜いたパンの声が響く。「伏せろ!」
その声にとっさに地面に両手をついたエレナは、背後の轟音に思わず振り返る。
背後の中庭校舎が大きく砕け、それを覆うようにインセクトイドが貼り付いていた。
何てスピード! 一瞬遅ければ、エレナが入り口のように粉々になっていたのだ。
千切れた緑のネットが、名残惜しそうに地面に落ちた。
機械のように首を動かしたインセクトイドの複眼が、エレナを捕らえる。
パンの銃が1発、しかしインセクトイドの頭部はそれを易々と弾いた。
銃声に我に返ったエレナは、逃げようにも震え上がり、すっかり足がすくんでいることに絶望した。
まるで底なし沼に胸元まで呑まれたかのようだった。
「ぁ、あわわわわ……」
インセクトイドの次の突進を防いだのは、エレナを突き飛ばしたパンだった。
「パン!」
エレナの声が風に流れる。
盛大なタックルにぶっ飛んだパンは、中庭校舎に激突し、力なく地面に落ちた。
コンクリートは氷のように砕け、湯気のような土ぼこりがパンとインセクトイドを隠す。
パンは長ナイフで一撃目を防いだものの、朦朧に意識を噛んでいた。羽を大きく広げたインセクトイドが、パンにまたがり大きくのけぞっている。
いただきますがきこえそうなほどの大きな口から、硬い人参をコンニャクのように噛みちぎった歯が月光に光る。
(パンが食べられちゃう!!)
「だめーッ!!」
インセクトイドに体当たりしたエレナは、丸太ような巨躯に弾き返されるも、両手を大きく広げ立ちはだかった。
「いっいいいイーシャ……やめて、ぱっ、パンを食べないで……!」
歯の根も合わぬエレナに、インセクトイドが威嚇するように羽を広げる。
エレナが恐怖から目を閉じた時だった。
「はははッなんだよこのサイズ~! 超BIGでやんの」
ゴハンの軽い笑い声にエレナは目を開けた。
瞬間、プライパンを鉄板に叩きつけたような衝撃音に遅れて、風がエレナの髪を流す。
エレナの目に映ったのは、インセクトイドを殴り飛ばしたゴハンだった。
校舎に激突したインセクトイドは、もうピクリとも動かない。いかにもな気絶に、足が痙攣していた。
月明かりを背にしたゴハンが、軽く手をゴメンする。
「いや~遅れてゴメンゴメン! 会議が長引いちゃってさぁ」
まるで待ち合わせに10分ほど遅れたかのような軽さだった。




