第9話「古き記録」
翌朝、俺たちは市場の書物の露店へと向かった。
朝の市場は、昨日とはまた違う活気に満ちていた。威勢のいい呼び込みの声、荷馬車の車輪が石畳を鳴らす音、焼きたてのパンの匂い。人混みをかき分けながら、俺たちは昨日目星をつけていた露店を目指した。旅慣れない足取りのユキを気にかけながら、雑踏の中を進んでいく。
昨日居眠りをしていた白髪の老人は、今日はちゃんと目を覚ましていた。皺だらけの顔に、鋭い眼光だけが妙に若々しい、そんな印象の男だった。並べられた書物を、興味深そうに眺める客たちの相手をしながら、老人は片手間に茶をすすっていた。
「時渡りの民について、何か知りませんか」
単刀直入に尋ねると、老人は片眉を上げ、値踏みするようにこちらを見た。しばらくの沈黙の後、口の端を僅かに上げる。旅の者を値踏みする、商売人らしい鋭さがそこにあった。
「ほう。若いのが、そんな古い話に興味を持つとはな。……最近の若者は、もっと景気のいい話を好むもんだと思っとったが」
老人は積まれた本の中から、一冊の古びた冊子を取り出した。表紙には、擦れて読みにくくなった紋様が刻まれている。よく見ると、それは十二の数字が円を描く、あの時計の文字盤のような紋様と、どこか似ていた。
思わず息を呑んだ。ユキも、隣で同じように目を見開いている。見慣れないはずのその紋様に、なぜか奇妙な既視感を覚えた。
「これは……」
「気になるかね。だが、タダでは見せられんよ」
老人は、にやりと笑った。金を払うと、老人はようやく冊子を開き、語り始めた。
「時渡りの民、とはな。大昔――人々がまだ、時間というものの正体を知らなかった頃の話だ。時間そのものを支配する力を持った一族がいたという。奴らは、その力で幾つもの国を興し、幾つもの国を滅ぼしたそうだ」
「滅ぼした、ですか」
「ああ。力とは、使い方を誤れば災いになる。当たり前の話だ。奴らは、自分たちの力に溺れ、最後には――力そのものに、逆に喰われたという」
老人の言葉に、背筋が冷たくなった。力に、喰われる。その言葉が、これまで感じてきた漠然とした不安と、静かに重なっていく。
「喰われる、というのは、具体的にはどういう」
「儂も詳しくは知らん。ただ、伝わっている話では、その一族の者たちは、力を使うたびに何かを――寿命だとか、記憶だとか、時には己の存在そのものだとかを、代償として払っていたそうだ。使えば使うほど、代償は重くなる。それでも力を手放せなかった者たちの末路が、その一族の滅びだった、とな」
ユキが、隣で小さく息を呑むのがわかった。俺自身、これまで感じてきた「使うたびに体が重くなる」感覚が、この伝承と無関係だとは、到底思えなかった。
「その一族は、今も?」
「さてな。滅んだという説もあれば、力の一部を継ぐ者が、今もどこかに隠れ潜んでいるという説もある。おとぎ話みたいなもんだ、本気にする方がどうかしとる」
そう言いながらも、老人の目には、単なる作り話とは思えない真剣さが宿っていた。
「もう一つ、聞きたいことが」
ユキが、意を決したように口を開いた。
「『白い巫女』という言葉に、聞き覚えはありますか」
その言葉に、老人の表情が、初めて明確に変わった。眉をひそめ、探るような視線を、今度はユキ自身に向ける。
「……嬢ちゃん、まさかとは思うが」
老人は、ユキの白い髪を、まじまじと見つめた。
「その髪、地毛かね」
「はい」
短く答えたユキの声は、僅かに緊張していた。周囲の視線を、これまでの経験からいつも警戒しているのだろう。
老人はしばし黙り込んだ後、静かに冊子の別の頁を開いた。そこには、粗い挿絵で、白い髪の女性が描かれていた。
「時渡りの民が滅びた後――その力の一部を、封じ、守る役目を継いだ巫女がいたという伝承がある。代々、白い髪を持つ者だけが、その役目に選ばれたとか」
「封じ、守る……」
「詳しいことは、儂も知らん。この本自体、断片的な写しに過ぎんのでな。ただ、一つだけ言えるのは」
老人は、声をわずかに低くした。
「その巫女とやらは、代々、決して幸せな役目ではなかったということだ。力を封じ続けるということは、その分だけ、己が犠牲を払い続けるということでもある。……この挿絵の女も、どこか寂しげな顔をしとるだろう」
指し示された挿絵の女性は、確かに、どこか諦めにも似た、寂しげな表情を浮かべていた。ユキが、その絵をじっと見つめたまま、しばらく言葉を発しなかった。
「もしその力が、本当に今も生きているのだとしたら――関わらん方がいい。儂が言えるのは、それだけだ」
忠告めいたその言葉には、単なる商人の駆け引きではない、何か実感の伴う重みがあった。老人の視線の奥に、長年にわたって何かを見てきた者だけが持つ、独特の翳りが見えた気がした。
その後、老人からもう少し詳しく話を聞き出そうとしたが、これ以上は知らないの一点張りだった。仕方なく、冊子だけを買い取り、俺たちは露店を後にした。値切る気力も起きないほど、老人の話の重みが、まだ胸の中に残っていた。
雑踏の中を歩きながら、ふと視線を感じた。
「……クロさん」
ユキも、同じことに気づいたらしい。さりげなく振り返ると、少し離れた場所で、外套を纏った男が一人、こちらを見ていた――ような気がした。だが、次に見たときには、すでにその姿は人混みに紛れて見えなくなっていた。
「気のせい、かな」
「わかりません。でも、念のため、宿までは遠回りしましょう」
不安げなユキの提案に頷き、俺たちは普段より慎重に、人通りの多い道を選んで宿へと戻った。すれ違う人々の顔を、無意識のうちに一人一人確かめてしまう。そんな自分に気づいて、内心で苦笑した。結局、宿に着くまで、誰かに追われている様子はなかった。それでも、あの一瞬感じた視線の重みだけは、簡単には拭えなかった。
「……力に、喰われる、か」
宿への帰り道、ぽつりと呟いた。老人の言葉が、頭の中でずっと反響していた。
俺が持つ十二の刻もまた、いつか同じように、俺自身を喰らい尽くしてしまうのだろうか。使うたびに感じる、あの猛烈な消耗。それが積み重なった先に、何が待っているのか。想像するだけで、胸の奥が冷たくなっていく。
これまでは、ただ漠然とした不安として抱えていたものが、老人の言葉によって、はっきりとした輪郭を持ち始めてしまった。知ることは、時に恐怖の解像度を上げるだけなのかもしれない。そんな考えが、ふと頭を過ぎった。
宿に戻り、部屋に入ってからも、思考は同じところを巡り続けていた。
「クロさん」
考え込んでいると、ユキが横から、そっと顔を覗き込んできた。窓から差し込む夕日が、彼女の白い髪をほんのりと橙色に染めていた。
「怖いこと、考えてます?」
図星を突かれ、思わず苦笑した。
「わかるのか」
「顔に出てます。……大丈夫ですよ」
いつからか、彼女は俺の些細な表情の変化にも気づくようになっていた。
「根拠のない励ましだな」
「はい、根拠はありません。でも」
ユキは、少し困ったように、それでいてどこか強い意志を滲ませた表情で続けた。
「クロさんは、この半年で、何度も怖いものに向き合ってきました。精霊から力を受け継いだときも、追手に襲われたときも。その度に、ちゃんと乗り越えてきたじゃないですか」
「……それは」
「だから、今度も、きっと大丈夫です。一人じゃないんですから」
以前とは、まるで逆の構図だった。あの頃は、俺がユキに「一人で抱え込むな」と伝える側だった。今は、彼女がその言葉を、俺に返してくれている。
半年前、行き倒れて何もかも失っていたはずの少女が、今はこうして、俺を支えようとしてくれている。その変化を目の当たりにして、胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……お前、本当に変わったよな」
「クロさんのおかげです」
くすりと笑うユキの表情に、俺は毒気を抜かれたように、肩の力を抜いた。強張っていた体から、少しずつ緊張が解けていくのがわかる。
「ありがとう、な」
「どういたしまして」
一息ついてから、買い取った冊子を改めて広げてみる。断片的な記述と、粗い挿絵ばかりだったが、それでも、これまで漠然としていた「時渡りの民」の輪郭が、少しずつはっきりとしてきていた。
冊子の最後の頁には、地図らしきものが記されていた。判読できる範囲では、遠く北方に位置する、古い遺跡の場所を示しているようだった。周囲には見慣れない記号が幾つも書き込まれており、老人曰く、それは「立ち入りを禁じる」意味を持つ古い印だという。
「ここに、何かある可能性は高いな」
「行ってみますか」
「ああ。……道のりは、簡単じゃなさそうだけどな」
地図に記された場所までは、この町からさらに何日もかかりそうだった。街道の状態も、これまで通ってきた道とは違い、山間部を抜ける険しい道のりになる。それに、道中、あの追手たちと再び遭遇する可能性も、十分に考えられる。
「危険な道になりそうです」
ユキの声には、隠しきれない緊張が滲んでいた。窓の外を見つめるその横顔には、これから待ち受ける困難を、すでに覚悟しているような色があった。それでも、その瞳の奥には、以前のような怯えだけではない、確かな芯の強さも見て取れた。
「ああ。それでも」
「それでも、ですか」
「行くしかない。知らないままじゃ、いつまで経っても、この漠然とした不安から抜け出せない」
ユキは、しばらく黙って俺の顔を見つめた後、小さく頷いた。
「……はい。私も、同じ気持ちです」
それでも、ここで足を止める理由はなかった。
「決まりだな。次の目的地は、北の遺跡だ」
「はい」
短いやり取りだったが、そこには確かな覚悟が込められていた。
その夜、寝る前に、もう一度買い取った冊子を開いてみた。粗い挿絵に描かれた、白い巫女の寂しげな表情が、なぜか頭から離れなかった。ユキ自身も、あの絵に何か思うところがあったのか、寝る前まで、ずっと考え込むような顔をしていた。
「大丈夫か」
声をかけると、ユキは我に返ったように顔を上げた。窓の外に浮かぶ月を、それまでずっと見つめていたらしい。
「はい、大丈夫です。……ただ、あの絵の巫女様が、少し他人事に思えなくて」
「無理に自分と重ねなくてもいい。まだ、確かなことは何もわかってないんだから」
安心させるように、努めて軽い口調でそう告げた。
「そうですね。……でも、もし本当に繋がっているのだとしたら、私にも、何かできることがあるかもしれません」
その声には、恐れと同時に、僅かな希望のようなものが滲んでいた。半年前の彼女なら、きっと自分の出自を呪うような言葉しか出てこなかっただろう。今は違う。自分の背負うものを、少しずつ、前向きに捉え直そうとしている。
その変化を頼もしく思いながら、俺は静かに灯りを消した。
ユキの寝息が聞こえ始めた頃、俺はもう一度だけ、窓の外を確かめた。明日の出立に備えて、天気を見ておこうと思っただけだった。
月明かりに照らされた通りは、静まり返っていた。人影はない。――いや。
向かいの建物の軒下、影が最も深く落ちる場所に、誰かが立っていた。
外套を纏った、男。顔は見えない。だが、その姿には見覚えがあった。昼間、市場の雑踏の中で、一瞬だけ視線が交わった、あの男だ。
男は、まっすぐに、この宿を――この窓を、見上げていた。
心臓が、一つ、大きく跳ねた。
咄嗟に窓辺から身を引き、壁に背をつける。数秒待って、そっともう一度、外を覗き込んだ。
軒下には、もう誰もいなかった。まるで最初から、影しかなかったかのように。
ただ、男が消える間際――その胸元で、何か小さな金属のようなものが、月の光を鈍く弾いたのだけが、目に焼き付いていた。
気のせいだった、と思いたかった。だが、昼間のあの視線と、今の人影。二度も続けば、もう偶然とは呼べない。
俺は静かに寝台へ戻り、荷物を、すぐ手の届く場所へ引き寄せた。ユキの穏やかな寝息だけが、暗い部屋に響いている。
――夜が明けたら、すぐに発とう。
北へと続く道のりが、無事に済むはずがない。そんな確信めいた予感だけが、眠りに落ちる最後まで、胸の奥に居座り続けていた。
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