第10話「雪解けの刃」
町を発って三日目、道は次第に険しくなっていった。
平坦だった街道は、いつしか山間部へと差し掛かり、両側に切り立った崖が迫るようになっていた。空気も、日を追うごとに冷たくなっていく。北へ向かうというのは、季節を遡るようなものなのかもしれない。そんなことをぼんやり考えながら、俺は重い荷を背負い直した。
道中、時折すれ違う旅人の数も、目に見えて減っていった。この先に何があるのか、聞いてみても、皆一様に首を横に振るだけだった。「あの山を越えた先には、何もない」――そう言う者もいれば、「昔、何かの遺跡があったと聞いたことがある」と、曖昧な記憶を語る者もいた。
「この辺りから、雪が積もり始めますね」
ユキが、足元に薄く積もった雪を見つめながら呟いた。彼女の白い髪が、周囲の雪景色に溶け込むようにして揺れている。
「思ったより早いな。まだ本格的な冬でもないのに」
「山は、下界より早く冬が来るものです」
事も無げに言うユキに、俺は苦笑した。逃避行の中で、彼女なりに培ってきた知識なのだろう。こういう時、彼女の方が場慣れしていることに、時折驚かされる。
野営には、これまでよりも一層の注意が必要になった。薪を集め、風を防ぐ場所を選び、体を冷やさないよう工夫を重ねる。慣れない山歩きに、体力の消耗も激しかった。それでも、二人で分担しながら準備を進めるうちに、それなりのコツも掴めてきていた。
三日目の夜、いつものように火を熾し、遅い夕食を取っていたときだった。
「――クロさん」
ユキの声が、鋭く尖った。反射的に顔を上げると、彼女の視線の先、闇の中に、複数の人影があった。焚き火の淡い光の外側、闇に沈んだ場所に、いくつもの気配が息を潜めていた。
「な……!」
慌てて立ち上がった瞬間、影の一つが、矢のような速さでこちらに踏み込んできた。反応する間もなく、鋭い殺気が肌を刺した。
「《3時・停止》!」
咄嗟に叫んだ。世界から音が消え、迫っていた影が空中で静止する。この数ヶ月の訓練で、発動までの速度は格段に上がっていた。それでも、体への負担は変わらない。
静止した世界の中、俺は素早くユキの手を引き、その場から距離を取った。時が動き出すと同時に、先ほどまで俺たちがいた場所に、鈍い光を放つ刃が振り下ろされた。土が抉れ、鋭い音が山中に響き渡った。
「――くっ!」
膝から力が抜けそうになるのを、歯を食いしばって堪える。まだだ。まだ、倒れるわけにはいかない。
「囲まれています……!」
ユキの声に、周囲を見回すと、闇の中から次々と人影が現れていた。数は、以前村を襲ってきた者たちよりも、明らかに多い。統率の取れた動き、隙のない構え。素人目にも、只者ではないとわかった。全員が同じ意匠の外套を纏い、まるで訓練された部隊のように、無駄のない包囲網を築いていく。
心臓が、痛いくらいに早鐘を打っていた。以前の襲撃とは、明らかに規模も練度も違う。これでは、以前のように村の男衆の助けを借りることもできない。
「探したぞ、白い巫女」
低い声が、闇の中から響いた。一団の中でも、一際存在感を放つ、大柄な男が前に進み出る。左目を縦に裂く、古い刀傷。そして、その首元には――鎖に繋がれた、壊れた時計のような金属盤が下がっていた。針のない文字盤が、焚き火の光を受けて、鈍く光る。
――あの光だ。昨夜、宿の窓の下で、月光を鈍く弾いていたもの。あのとき軒下に立っていた影は、この男だったのか。
「ガルム様。包囲、完了しています」
部下の一人が、短くそう報告した。ガルム、と呼ばれた男は、頷きもしなかった。ただ静かに、俺たちを――いや、正確にはユキだけを、見ていた。
「夜分に済まないな。俺はガルム。しがない、狩人だ」
口調だけは、まるで行商人のように丁寧だった。だが、その目には、どんな感情も浮かんでいない。獲物の数を数える、それだけの目だ。纏う気配だけで、これまで何人もの命を奪ってきたのだと、嫌でも理解させられた。
「……狩人が、人を狩るのか」
「依頼があればな。仕事に貴賤はない」
淡々と、当たり前のことのように男は言った。
「大人しく渡してもらおう、その娘を。傷はつけるなと言われている。……今のところは、な」
「――ッ」
ユキが、俺の服の裾を、強く握りしめるのがわかった。震える手。それでも、逃げようとはしない、その強さに、胸を打たれた。冷たい夜風が、二人の間を吹き抜けていった。
「渡すわけないだろ」
即座に答えた俺に、ガルムは笑いもしなかった。ただ、僅かに首を傾げる。
「小僧。お前に個人的な恨みはない。退け。……三つ数える」
嘲りすらない、その静かな声が、何よりも恐ろしかった。この男にとって、俺の命は、数えるほどの価値もないのだ。
「やってみなきゃ、わからないだろ」
強がりだった。だが、退くわけにはいかなかった。手のひらに滲む汗を、握りしめた拳の中で誤魔化す。
「一つ」
ガルムが、目配せをする。それを合図に、周囲の影たちが、一斉に動き出した。数える気など、最初からなかったらしい。
「《1時・加速》!」
自らの動きを加速させ、真っ先に踏み込んできた一人の攻撃を躱す。だが、多勢に無勢だった。左右から迫る刃を、すべて捌ききれるはずもない。
「クロさん、後ろ!」
ユキの叫びに、振り向く間もなく、背中に鋭い痛みが走った。空気を切り裂く音が、耳元をかすめていった。
「――ぐぁッ!」
浅い傷で済んだのは、幸運としか言いようがなかった。それでも、激痛に視界が歪む。膝をつきそうになる体を、無理やり奮い立たせた。傷口から流れる血の熱さだけが、やけに鮮明に感じられた。
「クロさん!」
ユキが、悲鳴のような声を上げる。だが、敵の狙いはあくまでユキ自身であり、俺はただ、彼女に辿り着くのを阻む障害物でしかなかった。
(このままじゃ……)
頭の中で、冷静な部分が警鐘を鳴らしていた。このままでは、囲まれ、いずれ力尽きる。使える手札は、限られている。だが、迷っている時間はなかった。周囲を囲む敵の数を、素早く目で数える。少なくとも、六人以上はいる。
視界の端で、ユキが小さく息を呑むのが見えた。彼女を、これ以上危険に晒すわけにはいかない。たとえどんな代償を払うことになっても。
「――《8時・反転》!」
まだ一度も、実戦で試したことのない力だった。だが、今使わなければ、次はない。頭の奥に眠っていたその力の名前を、ほとんど衝動的に呼び起こしていた。
賭けだった。振り下ろされた刃が、来た軌道をそのままなぞるように、引き戻される。まるで、その一瞬の時間だけが巻き戻されたかのように。斬りかかってきた男自身が、驚愕の表情を浮かべたまま、自らの刃に引きずられて体勢を崩した。
「な、に……!?」
未知の力に、敵の陣形に僅かな乱れが生じる。
その乱れの中で、ただ一人、ガルムだけが動かなかった。
男は、首元の壊れた時計盤を、指先で一度だけ撫でた。そして初めて、その声に、僅かな熱が混じった。
「……時の理。報告は、本当だったか」
低い呟きが、なぜか耳に届いた。時の理。この男は――俺の力が何なのか、知っている。
「予定変更だ」
ガルムが、部下たちに向けて、静かに告げた。
「小僧も殺すな。生かして押さえろ。……『塔』の方々が、欲しがる」
塔。聞いたこともない言葉だった。だが、その一言を口にしたときだけ、ガルムの部下たちの間に、明らかな緊張が走ったのがわかった。
考えている余裕はなかった。その隙を逃さず、ユキの手を引いて、崖際の狭い岩陰へと駆け込んだ。心臓が、まだ激しく脈打っていた。
「はぁ、はぁ……」
呼吸が、まるで整わない。使ったばかりの《8時・反転》の反動が、これまでにない重さでのしかかってくる。視界がぐらつき、立っているのがやっとだった。全身の関節が、軋むように痛んだ。
「クロさん、傷が」
「大丈夫、だ……それより」
言葉を続けようとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。まるで、体そのものが「これ以上は許さない」と、悲鳴を上げているかのようだった。視界の端が、ちかちかと明滅している。
(まずい……このままじゃ)
意識が、朦朧としてくる。もう一度力を使えば、今度こそ倒れてしまうかもしれない。それでも、ここで倒れれば、ユキを守れない。
「クロさん、しっかりしてください……!」
ユキの声が、遠くに聞こえる。霞む視界の中、彼女の白い髪が、闇の中でも淡く光っているのが見えた。
「私が、あなたを守ります」
決意を込めたその声に、驚いて顔を上げた。ユキが、震える手で、地面に落ちていた小さな石を拾い上げる。恐怖に強張った顔をしていても、その目だけは、まっすぐにこちらを見つめていた。
「無茶、するな……」
「クロさんだって、いつも無茶してるじゃないですか」
不敵な笑みを浮かべたユキの姿に、これまで見たことのない強さが宿っていた。
その時だった。
「終わらせろ」
急かすでもない、低く静かな声が、岩陰の向こうから聞こえた。ガルムの声だ。怒鳴り声よりも、その平坦さの方が、よほど背筋を凍らせた。迫る足音。もう時間がない。
「クロさん、立てますか」
「ああ……何とか」
朦朧とする意識を叱咤し、なんとか立ち上がる。もう、これ以上、時間の力を使う余裕はなかった。だとすれば――残された手段は、一つしかない。
「氷の魔法なら、まだ使える」
震える指先に、意識を集中させる。時間の力ほどの消耗はない。これなら、まだ戦える。
岩陰から飛び出す。その瞬間、隣からユキの投げた石が、先頭の男の額をしたたかに打った。男が怯んだ――その一瞬で、十分だった。
迫りくる敵の足元を、一斉に凍らせる。
「うわ、あぁッ!?」
足を取られ、次々と体勢を崩す男たち。氷の魔法なら、これまで何百回と使い慣れている。消耗も少なく、精密なコントロールも利く。その隙をついて、俺たちは崖沿いの細い道を、一気に駆け抜けた。
背後で、部下たちの怒号が上がった。だが、それを断ち切るように、あの静かな声が響いた。
「――追うな」
ガルムの一言で、足音がぴたりと止んだのが、風に乗って伝わってきた。
「北への道は、一本しかない」
逃げながら、俺の耳は、その言葉の断片を確かに拾っていた。追うな。そして――北。
足場の悪い雪道を、ユキの手を引きながら必死に走った。何度も転びそうになりながら、それでも足を止めるわけにはいかなかった。息が切れ、肺が痛み、視界の端が白く点滅する。それでも、走った。
どれほど走っただろうか。息が上がり、限界を超えた頃、ようやく追手の気配が完全に消えた。
「……はぁ、はぁ……大丈夫、か」
「はい……クロさんこそ」
倒れ込むようにして、二人でその場に座り込んだ。荒い呼吸だけが、しばらくの間、静かな山中に響いていた。
「……ガルム、って呼ばれてたな。あの男」
ようやく息が整った頃、ぽつりと呟いた。これまでの追手とは、明らかに何かが違った。俺たちを見る目も、あの妙な余裕も。
「はい。……それに、最後に言っていました。『北』って」
ユキの声には、隠しきれない緊張があった。
「ああ。……俺たちの行き先を、読まれてるのかもしれない」
口にした瞬間、背中の傷とは別の冷たさが、じわりと広がった。追われているのではない。もしかしたら――泳がされている。
「それと、『塔』とか言ってたな。聞き覚えあるか」
「いいえ。……でも、あの人たちの様子だと、ただの雇い主、という感じではありませんでした」
「同感だ。あいつは、俺の力を見ても、ほとんど驚かなかった。それどころか――『報告は本当だったか』って」
つまり、奴らは最初から、俺の力のことをある程度知っていて動いている。ユキだけじゃない。俺自身も、もう「探される側」なのだ。
「奴らは、ただの傭兵や私兵じゃない。もっと、はっきりとした目的を持って動いてる」
「そう、ですね……」
不安げに俯くユキの肩に、そっと手を置いた。雪明かりの中、彼女の白い髪が、微かに震えているのがわかった。
「大丈夫だ。何とかする」
以前と同じ言葉を、もう一度口にする。根拠のない、けれど、譲れない決意だった。上ずりそうな声を抑え込むように、努めて力強く言い切った。
「はい。……信じてます」
小さく頷くユキの表情に、微かな安堵の色が浮かんだ。その表情を見て、俺自身も、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
その夜は、これ以上進む体力も気力も残っていなかった。傷の手当てを済ませ、僅かな距離を移動した先で、身を寄せ合うようにして夜を明かした。冷え切った体に、互いの体温だけが、かろうじての救いだった。
翌朝、目覚めたときには、体中に鈍い痛みが残っていた。だが、命があるだけ、まだましだった。背中の傷は、ユキが持っていた薬草のおかげで、思ったよりも早く血が止まっていた。
「北の遺跡まで、もう少しの辛抱だな」
「はい」
短い言葉の中に、互いへの信頼が滲んでいた。
険しい山道を見上げながら、俺は改めて、これから待ち受ける道のりの厳しさを噛み締めていた。ただの逃避行ではない。もっと大きな何か――『塔』と呼ばれる何かが、俺たちを、本気で狙っている。
そして、あのガルムという男。首から下げていた、針のない時計盤。あれが何を意味するのか、確かめる術はまだない。ただ、あの男が「時の理」という言葉を、まるで見慣れたものを呼ぶように口にしたことだけが、頭から離れなかった。
「クロさん」
歩き出そうとした俺に、ユキが静かに声をかけた。
「昨日は、ありがとうございました。それと……ごめんなさい。私のせいで、また危険な目に」
「その話は、もう終わったはずだろ」
「はい。……でも、何度でも、伝えたいんです」
真剣な表情でそう言うユキに、俺は小さく頷いた。
「わかった。……こっちこそ、守ってくれてありがとうな。あの石、ちゃんと役に立ってた」
冗談めかして言うと、ユキは少し照れくさそうに笑った。
「あれくらいしか、できませんでしたから」
「十分だ。あの一瞬、お前が動いてくれたから、体勢を立て直せた」
それは、決してお世辞ではなかった。あの絶望的な状況の中、震えながらも前に踏み出した彼女の姿は、確かに俺の背中を押してくれていた。
それでも、ここで足を止めるわけにはいかなかった。
雪を踏みしめ、俺たちは再び、北への道を歩き出した。行く手には、まだ見ぬ遺跡と、そこに眠る何かが待っている。それが希望なのか、絶望なのか、今はまだわからない。
ただ、一つだけ確かなことがある。あの狩人は、また必ず、俺たちの前に現れる。あの静かな声が「追うな」と言ったのは、見逃したからじゃない。狩りを、まだ終わらせる気がないからだ。
隣を歩くユキの手を、無意識に、少しだけ強く握った。
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