第11話「凍てついた遺跡」
山を越えて五日目、ようやく目的の場所へと辿り着いた。
追手との一件以来、俺たちは細心の注意を払いながら旅を続けていた。街道を避け、獣道に近い山中の小道を選び、夜営の火も、できる限り小さく抑える。おかげで、あれ以来、新たな追手に遭遇することはなかった。緊張の糸を張り詰めたままの日々は、それだけで消耗するものだった。
とはいえ、慣れない雪山での道のりは、想像以上に体力を削っていった。日を追うごとに積雪は深くなり、風も一段と冷たさを増していく。持参した食料も、残り僅かになりかけていた。それでも、地図に記された目印――苔むした奇岩、二股に分かれた古い枯れ木――を一つずつ確認しながら、俺たちは着実に歩みを進めていった。時折、足を滑らせて転びそうになるユキの手を引きながら、なんとか歩調を合わせて進んでいく。
最初にそれを見つけたのは、ユキだった。
「クロさん、あれ」
指差す先、雪に埋もれかけた谷間に、灰色の石壁が突き出していた。近づくにつれ、それがただの岩ではないことがわかってくる。人の手によって積まれた石組み、崩れかけた柱の跡、そして――かつては屋根であったらしい、崩落した石材の山。長い年月、雪と風に晒され続けてきたのだろう、表面は所々が丸みを帯び、元の形を失いかけていた。
「本当に、遺跡だったんだな」
半信半疑だった気持ちが、目の前の光景によって少しずつ塗り替えられていく。地図の記述は、決して大袈裟なものではなかったらしい。近づく足取りが、自然と速くなった。息が白く上がるのも構わず、俺たちは谷間へと下りていった。
遺跡の入り口らしき場所には、崩れた石門が残っていた。門の中央には、何かの紋様が刻まれている。近づいて確かめると、それは見覚えのある形をしていた。長年風雨に晒されてきたはずなのに、その紋様だけは、不思議とくっきりと残っていた。
十二の数字が円を描く、時計の文字盤に似た紋様。俺の中に眠る力そのものを象徴するかのような模様が、そこに刻まれていた。
「これは……」
無意識に、紋様に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、体の奥がじわりと熱くなった。長い間眠っていた何かが、静かに反応したような感覚だった。頭の中に、意味を成さない断片的な映像が、一瞬だけ過ぎっていく。誰かの声、崩れる何か、そして――円環を描く光。
「クロさん、大丈夫ですか」
「ああ……ちょっと、変な感じがしただけだ」
手を離すと、熱の感覚はすぐに引いていった。だが、この場所と自分の力が繋がっているという確信だけは残った。
崩れた石門をくぐり、中へと足を踏み入れる。内部は、外から見た以上に広かった。天井の一部は崩落し、そこから差し込む雪明かりが、内部をぼんやりと照らしている。踏みしめる床には、細かな亀裂が幾筋も走っており、長い年月の重みを物語っていた。
空気は、外よりもさらに冷たく、そしてどこか澱んでいた。人の気配など、当然あるはずもない。それでも、誰かに見られているような、落ち着かない感覚が拭えなかった。
壁には、あちこちに彫刻が施されていた。風化して判別しづらい部分も多いが、いくつかは辛うじて形を保っている。
「これ、見てください」
ユキが指し示した壁面には、儀式めいた光景が彫られていた。中央に立つ人物――白い衣を纏い、長い髪を持つ女性らしき姿。その両脇には、跪くように頭を垂れる人々。女性の頭上には、あの十二の紋様が描かれている。
「白い巫女、でしょうか」
「かもしれないな」
彫刻の女性は、両手を掲げ、何かを封じるような仕草をしていた。足元には、渦を巻くような文様が広がっている。荒れ狂う何かを、その身一つで抑え込んでいるかのような構図だった。よく見ると、女性の表情は、苦悶とも祈りともつかない、複雑なものに彫られていた。
「重そうな役目、ですね」
ユキの声には、他人事とは思えない響きがあった。彼女自身、この光景に何かを重ねているのかもしれない。彫刻をじっと見つめる横顔には、これまで見たことのない硬さがあった。
「無理に、自分と結びつけなくていい」
「わかってます。……でも、目を逸らしたくもないんです」
きっぱりとした口調に、以前とは違う強さを感じた。恐れながらも、逃げずに向き合おうとするその姿勢が、頼もしくもあり、同時に少しだけ心配でもあった。彫刻の前に立つ彼女の後ろ姿は、いつもより、ほんの少しだけ大人びて見えた。
奥へと進むと、通路は緩やかな下り坂になっていた。しばらく進むと、天井の一部が崩れ、通路を塞いでいる箇所に行き当たった。瓦礫が積み重なり、隙間からは冷たい風が吹き抜けてくる。
「向こう側に、まだ続きがありそうですね」
「ああ。だが、この量の瓦礫を素手でどけるのは難しいな」
試しに大きめの石を持ち上げようとしたが、びくともしなかった。長年の重みで、瓦礫同士が固く噛み合ってしまっているようだった。無理に動かそうとすれば、かえって崩落を広げてしまうかもしれない。
「《6時・修復》なら、何かできるかもしれません」
ユキの提案に、少し考え込む。確かに、壊れた物を元の形に戻す力なら、崩れた瓦礫を、崩落前の姿に近づけられる可能性がある。だが、まだ実戦はおろか、まともに制御したこともない力だった。
「試してみる価値はあるな」
意識を集中させ、瓦礫の一角に手をかざす。呼吸を整え、頭の中で力の名を静かに思い描いた。
「――《6時・修復》」
淡い光が、瓦礫を包み込んだ。ひび割れた石材の表面が、ゆっくりと、しかし確かに、元の滑らかな姿を取り戻していく。完全に崩落前の状態とはいかないが、瓦礫の一部が崩れる前の形状に近づき、人一人が通れる程度の隙間が生まれた。目の前で起きている現象に、ユキも息を呑んで見入っていた。
「――やった」
思わず声が漏れた。同時に、体の芯からどっと疲労感が押し寄せてくる。《3時・停止》ほどの激しい消耗ではないが、それでも軽い力ではなかった。額に滲んだ汗が、冷たい空気に触れて、すっと冷えていくのがわかった。
「大丈夫ですか」
「平気だ。ちょっと、疲れただけで」
肩で息をしながらも、なんとか笑って見せる。この程度なら、まだ動ける。
隙間を抜けると、通路はさらに緩やかな下り坂になっていた。壁の彫刻も、進むにつれて数を増していく。どれも同じ主題――白い巫女と、封じられる何か――を繰り返し描いていた。
やがて、通路の先に、小さな広間が現れた。中央には、石造りの台座があり、その上に、古びた石板が置かれている。
「これは……」
近づいて確かめると、石板には、これまで見てきた彫刻よりも精緻な文字が刻まれていた。かろうじて読み取れる部分を、一つずつ拾っていく。指先で文字の溝をなぞりながら、風化した部分を慎重に読み解いていった。
『時を統べる理は、両輪をもって成る』
『刻むもの、封じるもの』
『片方のみでは、天秤は傾く』
石板には、他にも文字が刻まれていたようだが、風化と欠損のせいで、それ以上は判読できなかった。かろうじて読み取れた三行だけが、今の俺たちに与えられた手がかりだった。
「両輪……」
呟きながら、頭の中で情報を整理しようとした。俺が受け継いだ「刻むもの」としての十二の力。そして、ユキが背負っているらしい「封じるもの」としての白い巫女の役目。もし、この石板が示す通りなら、二つの力は、本来対になるべきものなのかもしれない。
「クロさん、これ」
ユキが、台座の脇に転がっていた小さな金属片を拾い上げた。手のひらほどの大きさの、円盤状の遺物だった。表面には、擦り切れかけた十二の刻印が並んでいる。指先でそっと表面をなぞると、僅かに冷たい感触が伝わってきた。
「持って帰れそうか」
「はい、そんなに重くないです」
軽く持ち上げて見せるユキの手の中で、円盤は鈍い光を放っていた。
ユキがそれを布に包み、大切そうに荷物へしまう。この石板や彫刻から読み取れることは、まだ断片的でしかない。それでも、これまで手探りだった情報に、ようやく形のある手がかりが加わった実感があった。荷を背負い直すユキの表情には、疲れの中にも、静かな充実感が滲んでいた。
石板のさらに奥にも通路は続いていたが、そちらは天井ごと完全に崩れ落ち、先ほどのような小規模な瓦礫では済まなかった。今日中に切り開くのは難しそうだった。無理をして体力を使い果たせば、帰り道すら危うくなる。
「今日は、ここまでにしよう」
「そうですね。もう日も傾いてきましたし」
崩れた天井の隙間から差し込む光が、いつの間にか赤みを帯び始めていた。慣れない探索で、思った以上に体力を消耗していたことに、ここでようやく気づく。足の裏には、じんわりとした疲労が溜まっていた。
遺跡の入り口付近まで戻り、風の当たらない一角に、その日の野営の準備を始めた。積もった雪を踏み固め、拾い集めた枯れ枝で、なんとか焚き火を熾す。パチパチと爆ぜる音が、静かな遺跡の周辺に、僅かな生活の気配を運んでくる。乾いた木の匂いが、冷えた空気に混じって漂った。
焚き火にあたりながら、ユキが先ほどの石板の内容を、もう一度紙に書き写している。手元の小さな灯りを頼りに、一文字一文字、丁寧になぞるように記していく横顔は、真剣そのものだった。
「刻むもの、封じるもの、か」
「はい。もし本当に、クロさんと私が、その両方に当てはまるのだとしたら」
火の粉が、パチリと爆ぜて宙に舞った。
「対になる力、ってことになるな」
言葉にしてみると、妙にしっくりくる感覚があった。これまで別々のものだと思っていた二人の秘密が、実は同じ理から分かれた、片割れ同士だったのかもしれない。だとすれば、これまで感じてきた孤独や不安の一部は、最初から分かち合えるはずのものだったのだ。
「なんだか、少し安心しました」
ユキが、紙から顔を上げてそう言った。焚き火の炎が、彼女の横顔を橙色に照らしている。
「安心?」
「はい。私だけが特別に重い役目を背負っているんじゃなくて、クロさんも同じように、何かを担っていると思うと、一人きりじゃない、そういう気がして」
素直な言葉だった。飾り気のないその一言に、これまでの彼女の孤独の深さが、逆に滲んで見えた。
「それに、対になる力なら」
ユキが、少し考えるように続けた。膝の上に置いた紙を、両手でそっと押さえながら。
「いつか、二人で力を合わせれば、何かできることがあるかもしれません。今日みたいに」
先ほどの《6時・修復》のことを言っているのだろう。彼女の提案がなければ、あの瓦礫を越えることはできなかった。
「そうだな。一人でできないことも、二人ならできることがある。今日、それがよくわかった」
素直にそう答えると、ユキは少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに頷いた。
「明日、もう少し奥まで調べてみるか」
「はい。崩落してる場所、迂回できるか確認してみましょう」
頷き合い、今日一日の疲れを労うように、互いに小さく息をついた。危険はまだ去っていない。それでも今夜だけは、いつもより少しだけ、心が軽かった。
やがてユキが眠りにつき、俺は一人、火の番をしながら夜を過ごしていた。
夜半を過ぎた頃だった。
ふと、視界の端で、何かが光った。
焚き火の爆ぜた火の粉かと思った。だが、違う。光は、ユキの荷物の中から漏れていた。
そっと布包みを開くと、あの円盤が、淡い光を帯びていた。表面に並んだ十二の刻印のうち、ひとつだけが、心臓の鼓動のように、ゆっくりと明滅を繰り返している。
「……なんだ、これ」
昼間、手に取ったときは、ただの冷たい金属片だった。それが今、確かに、生きているように光っている。
そして、気づいてしまった。
遺跡の奥――昼間、完全に崩落していて進めなかった、あの通路の方角。その闇の奥から、円盤の明滅とまったく同じ律動で、微かな光が、返ってきている。
呼び合っている。
そうとしか言えない光景だった。円盤が明滅するたび、遺跡の奥の闇が、同じ拍子で淡く息づく。この遺跡の奥で、何かが――目を覚ましかけている。
背筋を、冷たいものが伝った。
「……ぅ」
小さな声に振り返ると、ユキが眠ったまま、微かに眉を寄せていた。うなされている、というほどではない。ただ、その唇が、聞き取れないほど小さく、何かを繰り返し紡いでいた。
耳を近づけて、ようやく聞き取れた。
「……まだ……開けては……」
知らない響きの、祈りのような言葉に混じって、その一言だけが、はっきりと聞こえた。
まだ、開けてはいけない。
誰に、何を言っているのか。ユキ自身は、深く眠ったままだ。白い髪が、焚き火の淡い光と、円盤の明滅と、両方に照らされて揺れている。
俺は円盤を布に包み直し、そっと荷物へ戻した。光は布越しにも、しばらく淡く透けていたが、やがて、ゆっくりと消えていった。遺跡の奥の光も、それに合わせるように、闇へと沈んでいく。
静けさが戻った野営地で、俺は一人、崩落した通路の先の闇を見つめ続けていた。
明日、あの奥で待っているのは、手がかりなのか。それとも――開けてはいけない、何かなのか。
焚き火が、パチリと爆ぜた。その音が、やけに大きく響いた。
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