第7話「旅立ちの朝」
旅立ちの朝は、拍子抜けするほど、よく晴れていた。
空には雲一つなく、朝日が村全体を柔らかく照らしている。こんな日に村を出るのが、正しいことなのかどうか、俺にはまだよくわからなかった。清々しい青空とは裏腹に、胸の内はどこまでも複雑だった。
荷物をまとめ終え、家の前に立つと、母と父が並んで待っていた。二人とも、努めて明るい顔を作っているのが、かえって痛々しく見えた。
「クロ」
母が、震える声で名前を呼んだ。それだけで、堪えていたものが溢れそうになる。
「……行ってくる」
短く答えるのが、精一杯だった。母は俺を強く抱きしめ、それから、隣に立つユキのことも同じように抱きしめた。
「二人とも、無事で。それだけを、祈ってるから」
「はい……本当に、お世話になりました」
ユキが深々と頭を下げる。その声は、涙で少し震えていた。この半年間、彼女がどれほどこの家族に支えられ、そしてどれほど大切に思うようになったか、その様子だけで十分に伝わってきた。
母は、ユキの手を取り、両手で包み込むように握った。
「あんたは、もう家族みたいなもんだよ。困ったことがあったら、いつでも戻っておいで。ここは、あんたの帰る場所でもあるんだからね」
その言葉に、ユキの瞳から、堪えきれなかった涙が、一筋零れ落ちた。
「……ありがとう、ございます」
震える声で、それだけを絞り出すように言う。半年前、行き倒れて何もかも失っていたはずの少女が、今は「帰る場所」という言葉に、これほどまでに心を動かされている。その変化を目の当たりにして、俺自身も、胸が熱くなるのを感じた。
父は、多くを語らなかった。ただ、俺の肩を一度、強く叩き、それから革袋を手渡してきた。
「路銀と、少しの食料だ。足りなくなったら、恥ずかしがらずに働け。それと」
一拍置いて、父は続けた。
「その力、隠さなくていい相手には、隠さなくていい。だが、誰彼構わず晒すもんでもない。……その塩梅は、お前が自分で見極めるしかないだろうがな」
不器用な、けれどまっすぐな激励だった。
「ああ。……ありがとう、父さん」
それだけ言うのが、やっとだった。これ以上何か言えば、決意が鈍ってしまいそうだった。
村の入り口まで、思いのほか多くの人々が見送りに来てくれていた。数日前、俺を疑いの目で見ていた顔役たちの姿もあった。気まずそうな表情を浮かべながらも、彼らなりに、何か言葉をかけようとしているのが伝わってきた。
普段、あまり言葉を交わすことのなかった老婆が、小さな包みを差し出してきた。
「これ、お守り代わりに持っていきな。薬草を煮詰めたもんだ。怪我したときに塗ると、少しは効くはずだよ」
「……ありがとうございます」
見知った顔、あまり親しくなかった顔、それぞれが、それぞれのやり方で、旅立つ俺たちを気にかけてくれていた。恐怖や疑念だけでは測れない、村という共同体の温かさを、このとき改めて実感した。
「クロ、その……色々、悪かったな」
顔役の一人が、ぼそりと言った。
「いえ。皆さんの不安も、当然だと思ってます」
「……達者でな」
短いやり取りだったが、それだけで十分だった。恐怖や疑いは、簡単には消えないものだ。それでも、こうして見送りに来てくれたこと、それ自体に意味があった。
「クロ!」
人混みをかき分けて、トマスが駆け寄ってきた。
「約束、忘れんなよ! 収穫祭、絶対だからな!」
「ああ、忘れない」
差し出された拳に、もう一度、自分の拳を合わせる。それだけで、言葉にならない多くの想いが伝わった気がした。
村の入り口を抜け、振り返ると、見送りの人々の姿が、少しずつ小さくなっていく。母が涙を拭う仕草、父が黙って頭を下げる様子、トマスが大きく手を振る姿――そのすべてを、目に焼き付けるように見つめた。
やがて、木々に遮られて村が見えなくなったとき、俺はようやく、自分が本当に村を出たのだという実感を持った。胸の奥に、寂しさと、それを上回るほどの緊張感が、同時に押し寄せてくる。
「……大丈夫ですか、クロさん」
隣を歩くユキが、心配そうに声をかけてきた。
「ああ。ちょっと、実感が湧かなくて」
「無理もないです。生まれ育った場所を離れるんですから」
ユキの言葉には、経験からくる重みがあった。彼女自身、これまで何度も、住処を追われるようにして移動してきたのだろう。その苦労の一端を、これから俺も味わうことになるのかもしれない。
街道を進みながら、俺は改めて、自分たちの状況を整理していた。
目的地は、決めていなかった。ただ、この村からできるだけ離れた場所で、まずは情報を集めること。時間魔法についての手がかり、ユキを追う者たちの正体、そして――あの未来視で見た滅びの光景について、何かわかることがないか。
漠然とした目的しかない旅だった。それでも、村にいたままでは何もわからない。動き出すことでしか、見えてこないものがあると信じるしかなかった。
街道を進んで半刻ほど経った頃、荷馬車を引く行商人とすれ違った。人の良さそうな中年の男で、こちらの旅装束を見て、軽く声をかけてくる。
「おや、若いのに二人旅かい。物騒だから、気をつけなさいよ」
「物騒、ですか」
「ああ。最近、北の街道沿いで、妙な連中の目撃情報が増えててね。旅の商人仲間から聞いた話じゃ、何かを探し回ってるとか何とか」
行商人の言葉に、隣を歩くユキの肩が、微かに強張るのがわかった。あの追手たちのことを言っているのかもしれない。
「そんな連中、どこの誰なんです?」
「さあなあ。ただの盗賊にしちゃあ、妙に統率が取れてるって話だ。どこぞの貴族の私兵か、それとも……」
行商人は、そこで言葉を濁し、肩をすくめた。
「まあ、儂ら平民には関係ない話さ。とにかく、気をつけて行きな」
そう言い残し、行商人は荷馬車と共に去っていった。
「……やっぱり、まだ追われてるみたいだな」
呟くと、ユキが不安げに俯いた。
「私のせいで、また」
「その話は、村でも終わったはずだろ」
軽く釘を刺すと、ユキは小さく苦笑した。
「……そうでした。すみません」
「謝るのも、なしだ」
そんなやり取りを交わしながら、俺たちは再び歩き出した。得体の知れない追手の存在は、決して軽視できるものではない。それでも、こうして具体的な情報が少しずつ集まってくることには意味がある。知ることは、備えることに繋がる。
昼過ぎ、街道沿いの木陰で、二人並んで休憩を取った。母が持たせてくれた包みを開けると、丁寧に焼かれたパンと、干し肉が詰められていた。
「……美味しいですね」
ユキが、噛みしめるようにそう言った。その表情には、単なる感想以上の、何か込み上げるものがあるように見えた。
「お前、ちゃんと美味いもの食ってきたのか、これまで」
軽い調子で尋ねると、ユキは少し困ったように笑った。
「……あまり、贅沢はできませんでした。逃げてばかりの生活でしたから」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。彼女がこれまで歩いてきた道のりの厳しさを、改めて思い知らされる。
「これから、いくらでも美味いもの食えるようにしような」
「……はい」
小さく頷くユキの表情に、少しだけ和らいだ色が浮かんだ。
日が傾き始めた頃、街道から少し外れた場所に、野営の準備を始めた。焚き火を熾し、周囲を警戒しながら、簡単な食事を取る。慣れない野宿に、体のあちこちが強張るのを感じた。硬い地面の感触も、湿った夜気の冷たさも、これまで経験したことのないものばかりだった。
「クロさん、火の番、代わりましょうか」
「いや、まだ大丈夫だ」
強がりのつもりはなかったが、実際、気を張っているせいか、眠気はあまり感じなかった。パチパチと爆ぜる炎を見つめながら、俺はふと、これまでのことを振り返っていた。慣れない野外の空気、遠くから聞こえる虫の音、すべてが村での暮らしとは違う手触りをしていた。
半年前まで、こんな未来が待っているとは、想像もしていなかった。平穏な村の暮らし、他愛のない友人関係――そのすべてが、あの未来視をきっかけに、少しずつ形を変えていった。
怖くないと言えば、嘘になる。この先、何が待ち受けているのか、何一つわからない。ユキを追う者たちが、いつまた現れるかもわからない。この時間の力が、これから先、どれほどの代償を要求してくるのかも、まだ見えていない。
ふと、精霊から受け継いだ記憶の断片が、脳裏をよぎった。何百年もの間、たった一人で戦い続けた彼女もまた、こんな風に、夜の焚き火を見つめながら、先の見えない不安と向き合っていたのかもしれない。それでも、最後まで諦めなかった。その事実だけが、今の俺にとって、確かな道標のように思えた。
それでも。
「……大丈夫だ」
小さく、自分に言い聞かせるように呟いた。
「何が大丈夫なんですか?」
いつの間にか目を覚ましていたユキが、不思議そうに尋ねてきた。
「いや、何でもない。独り言だ」
誤魔化すように答えると、ユキはしばらくこちらを見つめた後、小さく微笑んだ。
「……クロさんは、不安なとき、いつもそうやって、自分に言い聞かせてるんですね」
図星を突かれ、思わず言葉に詰まった。
「見てたのか」
「見てました。ここ数日、ずっと」
悪戯っぽく笑うユキに、俺は苦笑するしかなかった。
「一人で抱え込むな、って言ったの、俺の方だったと思うんだけどな」
「はい。だから、私も見習おうと思って」
くすりと笑うその表情には、以前よりもずっと自然な明るさがあった。この数ヶ月で、彼女なりに、少しずつ変わってきているのかもしれない。それは、俺自身も同じことだった。
「なあ、ユキ」
「はい?」
「これから先、何があっても、一人で抱え込むなよ。この前も言ったけど」
「……はい。クロさんも、ですよ」
お互いに、同じ言葉を投げ合う。それが、なんだかおかしくて、二人して小さく笑ってしまった。焚き火の明かりに照らされたユキの白い髪が、笑うたびにふわりと揺れる。その光景を眺めながら、俺は、この旅がどれほど困難なものであっても、隣に彼女がいてくれるなら、きっと乗り越えていけるだろうという、根拠のない、けれど確かな予感を抱いていた。
焚き火の炎が、パチリと大きく爆ぜた。夜空には、村で見るのと同じ星々が、変わらず輝いている。場所が変わっても、頭上に広がる景色だけは、これまでと変わらない。それが、なぜだか少しだけ、心を落ち着かせてくれた。
「明日から、本格的に情報を集めような」
「はい。……頑張りましょう、一緒に」
その言葉に、決意を新たにしながら、俺は静かに頷いた。互いの顔に浮かぶ疲れの色さえ、今はどこか心地よく感じられた。
火の番を交代し、ユキが横になった後も、俺はしばらく一人、焚き火を見つめ続けていた。パチパチと爆ぜる音だけが、静かな夜に響いている。遠くから、獣の遠吠えらしき声が微かに聞こえたが、それもすぐに静寂の中に溶けていった。
村を出るということは、これまで当たり前だった庇護を離れ、自分の判断と力で道を切り開いていくということだ。誰かに頼れない夜が、これから何度も来る。そう思うと、心細さは拭いきれなかった。それでも、不思議と後悔はなかった。守られるだけの立場から、自分の足で選んだ道を歩む立場へ――その一歩を、今日、確かに踏み出せたのだから。
慣れない旅の一日目は、こうして、様々な感情を抱えたまま更けていった。まだ何も解決していない。それでも、一人ではないという事実だけが、この先の不安を僅かばかり和らげてくれる。明日、街道の先に何が待っているのかは、誰にもわからない。ただ、一歩ずつ、前へ進むしかなかった。
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