第6話「選ぶべき道」
翌朝、村は昨夜の騒ぎで持ちきりだった。
「クロの家に、夜盗が押し入ったらしい」「いや、あれはただの夜盗じゃない、武装した連中だったって」――そんな噂が、あっという間に井戸端を駆け巡っていた。そして、その噂には必ず、もう一つの話が付いて回った。
「クロが、何か変な力を使ったらしいぞ」
朝食もそこそこに、俺は家の外に出るのをためらった。窓の隙間から見える村の様子は、いつもと明らかに違っていた。道行く人々が、家の方をちらちらと窺い、何事か囁き合っている。
昨日まで、当たり前のように交わしていた挨拶が、今日はもう、どこかぎこちない。畑仕事に向かう途中で顔を合わせた隣家の主人は、俺を見るなり気まずそうに視線を逸らし、足早に通り過ぎていった。
その反応の一つ一つが、じわじわと胸を締め付けた。何も変わっていないはずなのに、周りの目だけが、確かに変わってしまっている。
「気にすんな」
見かねた父が、肩を叩いてくれた。だが、その声にも、僅かな緊張が滲んでいるのがわかった。父もまた、村の空気の変化を、痛いほど感じ取っているのだろう。
昼過ぎ、案の定というべきか、村の長老が家を訪ねてきた。
「クロ。少し、話を聞かせてもらえるかね」
穏やかな口調だったが、その奥に、有無を言わさぬ重みがあった。断れる雰囲気ではなかった。
村の集会所には、長老の他に、何人かの村の顔役たちが集まっていた。その中には、トマスの父親の姿もあった。
「昨夜、この村で何が起きたのか。ありのままを話してほしい」
長老の言葉に、俺は覚悟を決めて、これまでのことを――精霊から力を受け継いだこと、ユキを狙う者たちが現れたこと、そして自分が「時間を操る力」を使ったことを、洗いざらい話した。
沈黙が、部屋に重く広がった。
「時間を操る、だと……? そんな話、聞いたこともない」
顔役の一人が、眉をひそめて呟いた。
「悪魔憑きじゃないのか。そんな力、まともなものとは思えん」
別の誰かが、低い声でそう言った。その言葉に、胸の奥がひやりと冷たくなった。周りの者たちが、小さく頷き合う気配が伝わってくる。
――悪魔憑き。
まさか、そんな風に見られるとは、想像していなかった。いや、頭のどこかでは、そう受け取られる可能性があることも、わかっていたはずだった。それでも、実際にその言葉を向けられると、想像以上に重く胸に刺さった。
「この村に、そんな得体の知れないものを置いておくのは、危険なんじゃないか」
「そうだ、昨夜みたいな連中がまた来たら、今度こそ誰かが死ぬかもしれん」
「うちの子供たちだって、いつ巻き込まれるかわからん」
次々と上がる声に、俺は何も言い返せなかった。彼らの不安は、決して的外れなものではない。事実、昨夜の襲撃で、村全体を危険に晒したのは、他でもない俺自身だ。
物心ついたときから知っている顔ばかりだった。畑仕事を手伝ってくれた老人、幼い頃によく飴をくれた行商人の妻、隣の家の子供たち――そのすべての顔に、今は怯えと疑いの色が浮かんでいる。
その視線の変化が、何よりも痛かった。ついこの間まで、当たり前のように挨拶を交わし、笑い合っていた人々が、今は俺を「よくわからない、恐ろしいもの」として見ている。
俯いたまま、拳を握りしめる。ここで何を言っても、言い訳にしかならない気がした。
「――待ってください」
不意に、凛とした声が響いた。顔を上げると、ユキが、まっすぐに長老たちを見据えて立っていた。膝の上で握られた両手は、微かに震えていたが、その声には確かな芯があった。
「危険なのは、私です。クロさんじゃありません。私を追ってきた者たちが、この村を危険に晒した。責められるべきは私で、彼じゃない」
「ユキ、お前……」
「私は、明日にでもこの村を出ます。それで、村の方々にこれ以上、迷惑をかけることはなくなるはずです」
その言葉に、集会所の空気が僅かに揺れた。だが、俺は、彼女の言葉を黙って聞いていられなかった。責任を一人で背負おうとするその姿に、これまでの半年間の記憶が重なった。
「待てよ」
思わず立ち上がり、声を上げていた。
「一人で出ていくなんて、この前も言ったよな。駄目だって」
「でも、クロさん。このままじゃ、あなたも、村のみんなも――」
「それは、俺が決めることだ」
強い口調で言い切ると、集会所にいた全員の視線が、俺に集まった。
「確かに、俺の力は得体が知れないかもしれない。悪魔憑きだって言われても、否定できるだけの証拠もない。それでも」
一度、深く息を吸う。
「俺は、この力で誰かを傷つけようとしたことは、一度もない。ユキを守るために使った。それだけだ」
沈黙が続いた。長老は、しばらく黙って俺を見つめた後、静かに口を開いた。
「クロ。お前の父も母も、この村で長年、真面目に生きてきた家族だ。その息子が、悪意でこの村を害するとは、儂は思わん」
意外な言葉に、驚いて顔を上げた。
「だが、事実として、危険が及んだのも本当のことだ。……時間を操る力、か。実は、思い当たる話がある。いつだったか、お前が妙なことを尋ねてきたときは、はぐらかしたがな」
長老は、しばし目を閉じ、記憶をたどるように語り始めた。
「儂が若い頃、旅の学者から聞いた話でな。遥か昔、時間そのものを司る、人ならざる者たちがいたという伝承がある。その力は、あまりに強大で、あまりに危険なため、正史からはほとんど抹消されているそうだ。……もしお前の力が、その伝承に連なるものだとしたら」
「だとしたら?」
「良くも悪くも、この村の手に負える話じゃない、ということだ」
長老の言葉には、重い実感が込められていた。
「その学者は、こうも言っておった。時間を司る力は、常に大きな代償と共にある、と。使う者の命を削り、時に周囲の運命すら歪める。……もしそれが本当なら、お前がこれから背負っていくものは、儂らの想像を超えているのかもしれん」
その言葉に、背筋がひやりとした。精霊が命を賭してまで守り、そして手放さざるを得なかった力。長老の話は、これまで断片的にしか理解できていなかったこの力の重さを、改めて突きつけてくるようだった。
集会所に、再び沈黙が落ちた。だが、それは先ほどまでの、敵意や恐怖に満ちた沈黙とは、どこか違うものだった。
「……長老。俺から、提案があります」
俺は、震えそうになる声を抑えながら、言葉を続けた。
「俺とユキで、この村を出ます。追手が来るとしても、村を離れていれば、皆さんに迷惑をかけずに済む。それに――」
一度言葉を切り、集まった顔役たちを見回した。
「この力が何なのか、なぜ俺が持っているのか、俺自身、ちゃんと知りたい。それを知るためにも、村の外に出て、色々と調べてみたいと思っています」
これは、その場しのぎの言葉ではなかった。ずっと胸の奥で燻っていた思いが、この状況をきっかけに、はっきりとした形を取っただけだった。
長老は、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「……それが、お前の選んだ道か」
「はい」
「わかった。旅立ちの支度には、村としても協力しよう。長年この村を見守ってくれた家族への、せめてもの礼だ」
長老の言葉に、集まっていた顔役たちの何人かも、頷いていた。だが、最初に「悪魔憑き」と口にした男だけは、最後まで頷かず、俺と目も合わせないまま席を立った。敵意が完全に消えたわけではない。それでも、少なくともこの場は、追放でも断罪でもなく、送り出す形で収まったのだと、ようやく実感できた。
集会が終わり、家に戻る道すがら、ユキが隣で、ぽつりと呟いた。
「……本当に、いいんですか。私のせいで、村を離れることになって」
「お前のせいじゃない」
即座に、そう言い返した。
「さっきも言ったろ。俺自身、知りたいことがあるんだ。この力が何なのか。何のためにあるのか。村にいたままじゃ、きっとわからないままだ」
ユキは、しばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。
「……変わってますね、本当に」
「よく言われる」
夕暮れの道を歩きながら、俺はふと、空を見上げた。茜色に染まる空には、まだ罅は入っていない。だが、あの未来視で見た光景を思えば、この穏やかな景色も、いつか同じように崩れてしまうのかもしれない。
だからこそ。
「知らないままじゃ、守れないものがある」
小さく呟いた言葉に、ユキが小さく頷くのがわかった。
家に戻ると、母と父が、旅支度の相談を既に始めていた。心配そうな顔をしながらも、二人とも、どこか覚悟を決めたような、静かな表情をしていた。
「……止めても、行くんだろう。あんたは」
呆れ半分、諦め半分の母の声に、俺は黙って頷いた。母は深く息を吐き、それから、いつもの口調に戻って言った。
「なら、無理だけはするんじゃないよ」
「必ず、手紙を寄越すこと。約束だぞ」
矢継ぎ早に告げられる言葉の一つ一つに、これまでの穏やかな日々への名残と、これから始まる別れへの寂しさが滲んでいた。
母は、旅に持たせる干し肉や薬草を、丁寧に布に包みながら、時折、手を止めては、俺の顔をじっと見つめた。何かを言いたくて、けれど言葉にならない――そんな表情だった。
「母さん」
「……いいんだよ、何も言わなくて。あんたが決めたことなら、あたしは、信じるだけさ」
そう言った母の目には、うっすらと涙が滲んでいた。それを見て、俺自身も、込み上げてくるものを堪えるのに必死だった。
「……ありがとう」
短い言葉しか返せなかった。けれど、その一言に込めた気持ちは、きっと伝わったと思う。
夕食の後、荷物をまとめていると、外から小さく窓を叩く音がした。振り返ると、トマスが気まずそうな顔で立っていた。
「……よう」
「トマス」
「聞いたよ、村を出るって。……その、集会での話も、大体聞いた」
気まずげに頭を掻きながら、トマスは言葉を選ぶように続けた。
「正直、驚いたよ。お前がそんな力持ってるなんて、全然知らなかったし。……ちょっと、怖いって気持ちもある。嘘じゃない」
正直な言葉だった。それを聞いて、胸の奥がちくりと痛んだ。だが、トマスの言葉は、そこで終わらなかった。
「でも、それ以上に、お前がずっと一人で抱え込んでたんだろうなってのが、なんか、こう……悔しいっていうか。幼馴染のくせに、何にも気づいてやれなかったなって」
「……トマス」
「だから、行くなとは言わない。お前が決めたことなら、それが一番いいんだと思う。ただ」
トマスは、握った拳を差し出してきた。
「絶対、また戻ってこいよ。今年の収穫祭は、一緒に行けなかったからな。……来年こそ、絶対だぞ」
その不器用な言葉に、胸の奥が熱くなった。恐れや戸惑いを抱えながらも、それでも変わらず友でいようとしてくれる、その気持ちが何よりも嬉しかった。
「……ああ、必ず戻る」
差し出された拳に、自分の拳を軽くぶつける。それだけのやり取りだったが、言葉にできない多くのものが、確かにそこにあった。
その夜、旅支度を整えながら、俺は改めて自分に問いかけた。
この力の正体は何なのか。なぜ、精霊はこの力を俺に託したのか。そして、あの未来視で見た滅びの光景は、本当に避けられるのか。
答えは、まだ何一つ出ていない。それでも――今はもう、迷ってばかりはいられなかった。
窓の外、暮れなずむ空を見上げながら、俺は一人、旅立ちの朝を待っていた。
隣の部屋からは、荷造りを続ける母の物音が、微かに聞こえてくる。父はまだ、旅の道具を黙々と手入れしているのだろう。それぞれのやり方で、それぞれが、この別れを受け止めようとしている。
ユキも、きっと同じように、複雑な思いを抱えながら、旅支度を進めているに違いなかった。誰かのせいで村を追われるのではなく、自分自身の意志で、新しい一歩を踏み出す。そう思うことで、ようやく前を向けそうな気がした。
長く暮らしたこの部屋も、見慣れた天井も、明日にはもう、遠い記憶になっていく。それでも、ここで過ごした時間と、ここで出会った人々は、これから先どんな困難の前でも、きっと俺を支えてくれる。
窓の外で、夜風が木々の葉を揺らしている。トマスの拳の感触が、まだ右手に残っていた。――必ず、戻る。その約束だけを握りしめて、俺は目を閉じた。
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