第5話「追う影」
平穏は、思っていたよりもずっと早く終わりを迎えた。
ユキが村に来てから、二ヶ月が過ぎた頃だった。その日はいつも通り、畑仕事を終えた俺とユキが、井戸端で水を汲んでいた。
「クロさん、今日の夕食は何にしましょうか」
「特に何でも……」
答えかけた瞬間、ユキの表情が、ふっと固まった。
「……ユキ?」
彼女の視線の先を追うと、村の入り口の方に、見慣れない人影が数人、立っているのが見えた。黒っぽい外套を纏い、顔を深く隠した男たちだった。旅装束にしては、あまりに統率が取れすぎている。まるで、訓練された兵か、それに近い何かのようだった。
歩き方一つとっても、村を訪れる行商人や旅人とは明らかに違う。無駄のない動き、周囲を油断なく見回す視線。彼らが村の外れの家々を一軒ずつ順に見て回っている様子が、遠目にもはっきりとわかった。何かを――いや、誰かを、探している動きだった。
ユキの顔から、みるみる血の気が引いていく。桶を持つ手が、小刻みに震えていた。
「……知り合いか」
小さく尋ねると、ユキは唇を噛み締めたまま、かすかに頷いた。それだけで、状況の重さが伝わってきた。
「昔、私を……ずっと、探していた人たちです」
絞り出すような声だった。それ以上は言葉にならないようで、ユキはただ俯き、震え続けていた。
「家に戻るぞ」
彼女の手を引き、人目につかない裏道を通って、急いで家へと戻った。心臓が、嫌な速さで脈打っている。
家に着くと、母と父に事情を手短に説明した。両親は一瞬顔を見合わせたが、すぐに頷いた。
「ひとまず、裏の物置に隠れてもらおう。あそこなら、そう簡単には見つからない」
父の判断は早かった。ユキを物置の奥、古い農具の陰に隠すと、俺たちは何食わぬ顔で、いつも通りの夕食の支度を始めた。
だが、内心は穏やかではなかった。あの男たちが、本当にユキを探しに来たのだとしたら――そして、もし見つかってしまったら。
想像するだけで、指先が冷たくなった。鍋をかき混ぜる手が、いつもよりずっと重く感じられる。物置の方をちらちらと気にする母の視線に、俺も同じ不安を抱えていることに気づかされた。
こんな時、あの精霊が背負ってきた記憶の断片が、ふと脳裏をよぎった。何百年もの間、守りたいものを守るために戦い続け、それでも救えなかった者たちがいたという、あの重い記憶。もしここで俺が何もできなければ、同じような後悔を、俺自身が背負うことになるのかもしれない。
そんな想像を、慌てて頭の隅に押しやった。今はまだ、何も起きていない。悪い想像ばかりを膨らませても、仕方がない。
案の定、日が暮れる頃、家の戸を叩く音がした。
「失礼する。この村で、白い髪の娘を見なかったか」
低く、抑揚のない声だった。父が対応に出ると、外套の男が淡々と尋ねてくる言葉が、薄い壁越しに聞こえてきた。
「白い髪の娘、ですか……いや、そんな娘はこの村にはいませんね」
父の声は、驚くほど落ち着いていた。日頃、無骨で口数の少ない父が、こんな風に平然と嘘をつけるとは、正直思っていなかった。
「そうか。もし見かけたら、街道沿いの詰所まで報せてくれ。相応の礼はする」
「わかりました」
やり取りはそれだけで終わり、やがて男たちの気配が遠ざかっていった。
だが、俺の中の不安は、少しも消えなかった。
その夜、物置からこっそり抜け出したユキと、俺は二人で庭先に座り込んでいた。月明かりの下、ユキの顔は、いつもよりずっと青ざめて見えた。
「……ごめんなさい」
消え入りそうな声で、ユキが呟いた。
「こんな厄介事に、巻き込んでしまって」
「謝るなよ。俺が勝手に、お前を助けたいと思っただけだ」
「でも……このままだと、クロさんや、ご両親にまで危険が及びます。私は、もう」
「もう、何だ」
強く問い返すと、ユキは言葉を詰まらせた。しばらくの沈黙の後、絞り出すように答える。
「……出ていった方が、いいのかもしれません」
その言葉に、胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
「駄目だ」
即座に、言葉が口をついて出た。自分でも驚くほど、強い口調だった。拳を固く握りしめながら、それでも視線だけは逸らさなかった。
「お前一人で、どこに行くつもりだ。あんな連中に追われながら、また倒れて、次に助けてくれる奴がいなかったらどうする」
「それでも……」
「それでも、じゃない」
ユキの言葉を遮り、俺はまっすぐに彼女を見据えた。
「怖いんだろう。俺たちを巻き込むのが。だったら、なおさら、一人で抱え込むな」
その言葉に、ユキの瞳が大きく揺れた。灰色の瞳に、月明かりが映り込み、微かに潤んで見える。
「……どうして、そこまで」
「理由なんて、いちいち考えてない。ただ――」
言葉を探しながら、俺は自分の中にある感情を、正直に言葉にしようとした。
「お前が笑ってる方が、いいと思っただけだ」
不器用な言葉だったと思う。それでも、ユキはしばらく呆然とした後、堪えきれないというように、涙をこぼした。声を殺しながら、肩を震わせて泣くその姿は、あの未来視で見た光景と、どこか重なって見えた。
だが今は、彼女はたった一人じゃない。
「大丈夫だ。何とかする」
根拠のない言葉だった。それでも、口にしたことで、自分自身の中の何かが、少しだけ固まった気がした。
その夜遅く、事態は急変した。
物音に気づいて飛び起きた俺が窓の外を見ると、庭先に、昼間見た外套の男たちの姿があった。数は三人。松明も持たず、闇に紛れるようにして家に近づいてきている。
「――嘘、だろ」
昼間の受け答えを、疑われたのかもしれない。あるいは、最初から確信を持って戻ってきたのか。理由はわからないが、状況は最悪だった。
「クロ、逃げるぞ! ユキを連れて裏から――」
父が叫んだ瞬間、玄関の戸が乱暴に蹴破られた。
「大人しく、娘を出せ」
冷たい声。抜き身の剣を手にした男が、土間に立っている。
「そんな娘は――」
「嘘をつくな。監視していた。娘は確かにこの家にいる」
言い逃れは、もう通用しなかった。父が身構え、母がユキを庇うように前に出る。だが、相手は明らかに武装した戦闘のプロだ。素人の抵抗など、何の役にも立たない。
「クロさん、私が――」
「駄目だ」
飛び出そうとするユキの腕を掴み、強引に自分の後ろへ下がらせる。
心臓が、痛いくらいに鳴っていた。氷の魔法程度で、武装した男に敵うはずがない。
なら――もう一つの、あの力だ。
使えば、正体が知られる。それでも。
「……仕方ない、か」
小さく呟き、右手を前に構えた。
男の一人が、剣を振りかぶって踏み込んでくる。刃が、月明かりを受けて鈍く光った。
「――《3時・停止》」
視界から、音が消えた。振り下ろされた剣が、空中でぴたりと静止する。男の表情も、驚愕の形のまま固まっていた。
静止した世界の中、震える足を叱咤し、剣を持つ男の手首を思い切り蹴り飛ばす。
時が動き出した。男の悲鳴と、剣が地面に転がる音が響く。
「な……何が起きた……!?」
残りの二人が、明らかに動揺していた。だが、こちらもすでに限界だった。視界が霞み、膝から力が抜けていく。
「クロさん!」
崩れ落ちそうになった俺を、ユキが慌てて支えてくれた。
「逃げ、ろ……」
掠れた声で、それだけ伝えるのが精一杯だった。頭の芯が鈍く痛む。指先の感覚が、遠い。
歯を食いしばり、萎えかけた膝に力を込めた。
だが、ユキは首を横に振った。
「嫌です。もう、一人で逃げたりしません」
驚いて顔を上げる。ユキの瞳には、これまで見たことのない、強い意志の光が宿っていた。
「あなたが、守ってくれたから。今度は、私が」
言うが早いか、ユキは倒れていた男の剣を拾い上げ、迫る敵の前に立ちはだかった。剣を握る手つきは、明らかに素人のそれだ。なのに、足の運びと重心の置き方だけは、まるで型に嵌まっているかのように揺るがない。ただの逃げ惑う少女ではない、何かを感じさせる立ち姿だった。
残りの二人のうち一人が、苛立たしげに舌打ちし、ユキに斬りかかった。
剣同士がぶつかる、硬い音。ユキの体が、大きく後ろに弾かれる。
「――ッ!」
倒れ込む白い髪に、一瞬、あの瓦礫の光景が重なった。
――させるか。
「――《3時・停止》!」
限界を超えて、再び力を発動させる。全身の血が逆流するような激痛。構うものか。
静止した世界の中、残る力を振り絞り、剣を振り上げたままの男に肩からぶつかった。
時が動き出す。男が体勢を崩し、地面に倒れ込んだ。
「クロさん……!」
「まだ、大丈夫だ……」
強がりだった。視界は霞み、立っているのがやっとだった。
その拮抗を破ったのは、騒ぎに気づいて駆けつけてきた村の男衆だった。松明と農具を手にした彼らの姿に、先頭の男が小さく舌打ちした。
「引くぞ。……我々の任は、騒ぎを広げることではない」
低い声でそう言い残し、男は最後に一度だけ、俺を見た。外套の陰からのぞく目が、値踏みするように、じっとこちらを射抜く。娘ではなく、俺を。
背筋に、冷たいものが走った。
男たちは、闇の中へと撤退していった。だが、これで終わりではないことは、誰の目にも明らかだった。あの目は、見たものを必ず持ち帰る目だ。ユキのことだけじゃない。俺の、この力のことも。
静けさが戻った庭先で、遅れて、震えが来た。
もう一度力を使っていたら、意識を保てていたかどうか。素人の俺が、武装した連中に立ち向かうなんて、無謀だったのかもしれない。それでも――誰も欠けずに、この夜を凌げた。今は、それだけで十分だった。
松明を手にした男衆の視線が、ふと、俺の上で止まった。一人、また一人。……そうか。夜着のまま飛び出した俺は、頭巾を被っていない。半年間隠し続けてきた青い髪が、火明かりの下に、隠しようもなく晒されていた。
「……クロ、その力は」
事態が収まった後、父が静かに尋ねてきた。隠しきれなかった。もう、隠す意味もないのかもしれない。
「時間を、操る力だ。詳しいことは、俺にもよくわかってない」
正直に打ち明けると、父はしばらく黙り込んだ後、ただ一言、こう言った。
「そうか。……よく、一人で抱えてきたな」
その言葉に、張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ気がした。喉の奥が熱くなり、視界が微かに滲む。
隣で成り行きを見守っていた母が、駆け寄ってきて、俺とユキを同時に抱きしめた。
「二人とも、無事でよかった……! 本当に、無事で……」
涙混じりの声には、安堵と、それ以上の深い心配がこもっていた。母の腕の温もりに包まれながら、俺はようやく、肩の力が抜けていくのを感じた。
「ごめん、ずっと黙ってて」
「馬鹿だね、あんたは。そんなこと、今はどうでもいいんだよ」
叱るような、それでいてどこまでも優しい声だった。
秘密は、もう完全には隠しきれない。ユキの正体も、俺の力も、これから否応なく明るみに出ていくのだろう。それは、これまで積み上げてきた平穏な日常が、確実に形を変えていくということでもある。
それでも――もう、一人で抱え込む必要はない。
朝焼けが差し込み始めた空の下、俺とユキは、疲れ切った顔のまま、確かに互いの存在を支えにしていた。
この夜を境に、俺たちの穏やかな日々は、静かに終わりを告げ始めていた。
それでも、と俺は思う。終わってしまうのが穏やかな日常だけなら、それはきっと、新しい何かが始まる合図でもあるのだと。まだ何も解決してはいない。ユキを追う者たちの正体も、目的も、何一つわかっていない。ただ、隠し事のない、たった一つの朝を、俺たちは迎えていた。窓の外、朝焼けに染まる空を見上げながら、俺は静かに、これから始まるであろう長い戦いの気配を感じ取っていた。
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