第40話「胡桃」
「――レムさんは、塔の中にいる。そう考えるのが、一番、筋が通ります」
翌日の放課後。人気のない書庫の隅で、ガイアは、昨夜の続きを、静かに口にした。
昨夜、二冊の帳面が同じ日付を指したあの瞬間から、三人とも、たぶん同じ場所に思考が向かっていた。一晩置いて、それを最初に言葉にしたのが、ガイアだった。
「視に行った夜と、灯りの始まりが、同じ日。偶然と呼ぶには、重すぎる一致です。あの夜、塔で何かが始まり――レムさんは、その始まりに、居合わせた」
「……呑まれた、ってことか」
「わかりません。ただ、一つだけ、希望があります」
ガイアは、声を、さらに落とした。
「私たちの読みが正しければ、針は、あの夜からしばらく、動かなかった。最初に動いたのは……あの、彼の夜です。つまり、レムさんが塔に入った夜には、まだ『呑む』は始まっていなかった。呼ばれた人たちと同じ――どこかに、留め置かれている可能性が、あります」
留め置かれている。保管されている。行方の知れない五人と、同じように。
「生きてる、って前提で、動いていいんだな」
「確かめる術はありません。でも……レムさんは、四十年、備えてきた人です。丸腰で呑まれに行くような人が、あんな順番の仕掛けを、残すでしょうか」
「……残さない、な」
胸の奥で、何かが、決まった。
「……ガイア。ユキ。聞いてくれ」
俺は、二人の顔を、順に見た。
「今までの俺たちは、調べる同盟だった。数えて、記録して、線の手前で止まる。それは正しかったし、これからも続ける。……けど、今日から、目的を一つ、足したい」
言葉にすると、それは、驚くほど単純な形をしていた。
「取り返す。呑まれる前に、囚われてる人たちを――五人と、じいさんを、あの塔から取り返す」
沈黙は、短かった。
「はい。……私も、同じことを考えていました」
「賛成です。ただし、条件を一つ」
ガイアが、指を一本、立てた。
「今の私たちには、その力がない。それを、三人とも、忘れないこと。力がないのに踏み込めば、救う相手を増やすだけです。……だから、当面の仕事は二つ。塔の中身を知ること。そして――力を、つけること」
「分担を、決めましょう」
ユキが、指を折り始めた。
「私は、封じの届く距離と、保つ長さを伸ばします。あの夜は、一瞬しか止められませんでした。次は、もっと長く。……それと、旧鐘楼のこと。『音を封じる部屋』が何だったのか、封じの血の側から、調べられることがある気がします」
「私は、塔の中身です。禁書区画そのものは無理でも、一般書庫の古い建築記録、学院の年史……塔屋が『禁書区画になる前』に何だったかを、辿れるかもしれない。建物は、嘘の書類より、正直なので」
「なら、俺は――足止めの手を、作る」
俺は、あの夜の光景を、思い返しながら言った。
「ユキの封じが糸を止めてる間に、歩みそのものを鈍らせる手が要る。氷で凍らせるのは論外だ。相手は、被害者なんだから。傷つけずに、遅らせる。……心当たりが、一つだけある。試してみる」
三人の仕事が、決まった。調べる同盟は、その日から、取り返す同盟になった。
その夜。俺は、消灯後の自室で、窓辺に立った。
今夜は、灯りの夜じゃない。監視は続けるが、その前に、やるべきことがあった。
――次に、あの「歩く誰か」を見たとき、俺たちはどうする。
筋は、昼の書庫で決めた通りだ。ユキが、線の外から、糸を封じる。封じが破られるまでの、僅かな間を――俺が、稼ぐ。
そのための、都合のいい力に、俺は、一つだけ、心当たりがあった。
机の上の木の実を、一つ、摘み上げる。ロイに貰った、胡桃だ。
深呼吸を、一つ。頭の中で、静かに、その名を呼ぶ。
「――《2時・減速》」
胸の奥で、刻が、目を覚ます。加速とも、停止とも違う、初めての手触り。歯車が、ゆっくりと、逆らわずに、緩んでいくような。
摘まんだ胡桃を、目の高さから、落とした。
胡桃は――落ちた。ただし、ゆっくりと。
蜜の中を沈むように、それは、常の半分ほどの速さで、静かに床へ降りていった。こつ、と小さな音を立てて転がるまで、たっぷり、三つ数えられた。
「……できた」
声が、震えた。
世界のすべてが遅くなったわけじゃない。俺も、部屋の空気も、窓の外の夜も、いつもの速さのままだ。遅くなったのは、あの胡桃、ただ一つ。対象を選んで、その時間だけを、緩める。停止の手前の、優しい力。
対価の手応えも、確かめる。……軽い。体の芯が、僅かに重くなった程度。器の内で、十分に収まっている。胡桃一つなら、だが。
欲が出て、続けて、二つ目を試した。
胡桃を、両手に一つずつ。同時に落として、二つとも緩める――つもりだった。
右の胡桃は、蜜の中を沈んだ。左の胡桃は、こつ、と普通の速さで床を打った。
「……片方だけ、か」
三度やって、三度とも、同じだった。緩められるのは、一度に一つ。意識の指で摘まめるのは、一つの時間だけ、ということらしい。二つ目に手を伸ばした瞬間、一つ目が、するりと逃げる。
これは、覚えておくべき制約だった。実戦なら、選ばなきゃならない。何を緩めて、何を、緩めないか。それに、人ひとりの歩みを緩めるとなれば、対価の桁も違うだろう。
それでも、道は見えた。氷でも、停止でもない、傷つけない足止め。次にあの空っぽの足取りを見たとき、俺たちは、見ているだけじゃない。
翌日の昼は、ロイの独壇場だった。
「――でさあ、聞いてくれよ! ついに来るんだって!」
「……何がだ」
「あんたの同室! 編入生! 寮監さんが名簿持って歩いてるの、見ちゃったんだよね」
パンを、喉に詰まらせかけた。
同室者。入学の日から欄が空白のままだった、あの、もう一つの寝台の主。正直、半分忘れかけていた。いや――忘れたかったのかもしれない。この部屋に他人が入るということの意味を、考えずに済むように。
「いつ、来るって?」
「そこまでは知らねえけど、近いうちだろ。……いいなあ、おれの同室、いびきうるさくてさあ。編入生って、なんか格好いいよな! どこから来るんだろ」
ロイの声は呑気に弾んでいたが、俺の頭の中では、荷の三分法の再点検が、勝手に始まっていた。時計は肌身。帳面の写しは、縫い目の中。監視の帳面は――寝台の下では、駄目だ。場所を、変える。夜の監視の姿も、見られるわけにはいかない。窓辺に椅子を寄せる癖も、今夜で終わりだ。
放課後、中庭のベンチで、ユキにも報せた。
「……ついに、ですね」
「ああ。三分法の組み直しと、夜の監視のやり方を、考え直さないとな」
「監視のことなら、一つ、案があります。私の部屋からも、塔屋は見えるんです。角度は浅いですけど、灯りの点いた消えたくらいは、わかります。……当番制に、しませんか。同室の子は、一度眠ったら朝まで起きませんから」
「……助かる。頼む」
「ふふ。頼られました」
小さく笑ってから、ユキは、少しだけ、声の調子を落とした。
「でも、本当の問題は、監視じゃないですよね。……その編入生が、何者なのか。この時期に、あの角部屋に、わざわざ入ってくる人が」
そこだ。俺が考えないようにしていた場所を、彼女は、まっすぐに突いた。
秒針の音が鳴る部屋。カードが二度も置かれた部屋。技術研究会の影が届く部屋。そこへ、今、このタイミングで、来る他人。ただの偶然の編入生かもしれない。……そうじゃない、かもしれない。
「九割の日常だと思って迎える。けど、一割の目は、切らない。……それしかないな」
「はい。……どちらであっても、いいように」
九割の日常に、九割目の他人が、入ってくる。
夕方、寮監に呼び止められた。
「サヌス。おまえの部屋の編入生、明後日に着く。……手続きが遅れててな、名前や在籍の書類は、追って回す。まあ、仲良くしてやれ」
「……はい。あの、どこから来る人か、とかは」
「さあな。書類がまだって言ったろ。……珍しいんだよ、この時期の編入自体がな。よっぽどの事情持ちだろうさ。詮索してやるな」
寮監は、それだけ言って、行ってしまった。
名前は、まだ、わからない。どこの誰かも。「よっぽどの事情持ち」という、寮監の何気ない一言だけが、耳に残った。事情。誰にでも、事情はある。俺たちにだって、人に言えない事情の塊みたいな身の上だ。……だからこそ、わかる。この時期に、書類より先に体が着くような編入には、必ず、何かがある。
その夜は、サナからの言伝も、届いていた。
行商の送り状の形をした紙片を、灯りの下で読み解く。
『古い取引先の帳簿を見た。今の店主は、十年前の春から座っている。先代は、例の年に、急な病で店を畳んだそうだ』
学院長のことだ。今の学院長は、十年前――セレスティアが滅んだ年に、就任している。先代は「急な病」。……都合のいい病気だ。あの滅びの年に、この学院で、首がすげ替わった。偶然かもしれない。偶然じゃないかもしれない。監査官と学院長の間にある糸の、端っこが、また一本、見えた気がした。
紙片の末尾には、いつもの調子で、もう一行。
『新しい相客が来るそうだね。挨拶は丁寧に、荷は検めさせるな。……あんたの目を、信じてるよ』
編入生の件は、言伝で報せておいた。返ってきたのは、指示というより、送り出しの言葉だった。目を、信じてる。……信じてもらえる目に、なっていられるだろうか。二日後から、それが毎日、試される。
そして――その夜。
八度目の灯りが、塔屋に、ともった。
窓辺の暗がりから、俺は、いつも通りに観測した。椅子は、もう窓に寄せない。灯りを消した部屋の奥から、壁に身を預けて、窓の外だけを見る。編入生が来る前の、最後の「気楽な」監視だと思うと、少しだけ、名残惜しくもあった。
点灯の刻限、良し。窓の位置、良し。揺れ方、良し。帳面に記す数字は、これまでと、何も変わらない。監査官の、定期の見回り。それだけの夜のはずだった。
胸元の時計にも、異常はない。ここ数日、毎晩つけている『ズレ』の記録も、じいさんの帳面と同じ言葉が、並ぶだけだ。ズレ、なし。ズレ、なし。この言葉を書けることの安らかさを、番を継いで、初めて知った。
半刻が経ち、灯りが、階段を降り始める。
いつも通り。いつも通りだ。俺は、帳面に「消灯」と書き込むために、鉛筆を持ち直した。
灯りが、消えた。
その、直後だった。
かち。
胸元で、音がした。
鉛筆が、指から滑り落ちた。
シャツの下から、時計を引きずり出す。月明かりに、翳す。見間違いであってくれと、祈りながら。
秒針が。
また、一目盛り。進んで――止まっていた。
「……そんな」
今夜は、誰も、歩いていなかった。中庭は、静かだった。空っぽの足取りの誰かなんて、どこにもいなかった。なのに、針は、進んだ。俺の見ていない、どこかで。塔の中か。あるいは、この町の、別のどこかで。
誰かが、一人、呑まれた。
顔も、名前も、わからない誰かが。俺が、胡桃を眺めて力を試し、ロイと昼飯を食い、寮監と立ち話をしていた、この同じ一日の終わりに。
――それとも。
嫌な想像が、喉元まで、迫り上がってきた。
塔の中には、留め置かれた人たちがいる。五人と、もしかしたら、じいさん。……呑まれたのが、外の誰かじゃなく、あの「保管」の中の一人だったとしたら。俺たちが力を蓄えている、まさにこの間に、取り返すべき人の数が、減っていっているのだとしたら。
わからない。確かめようが、ない。その「わからない」が、今夜は、どんな答えより恐ろしかった。
帳面の、今夜の頁に、俺は、震える手で、書き足した。
『ズレ、生ず。一目盛り。』
じいさんの帳面の、あの文字と、同じ言葉を。同じ重さで書けているとは、とても思えなかった。じいさんは、これを四十年、書ける手で居続けたのか。
残りは――二百九十八。
そして、呑まれたのが誰なのかを、俺たちは、まだ知らない。
投稿ペースが落ちますが、連載は続けていくのでこれからもお願いします!!




