第39話「最後の頁」
店からの帰り道、ユキは、ずっと黙っていた。
夕暮れの大通りの雑踏を、俺とサナで挟むように歩く。彼女の胸には、油紙に包み直した帳面が、抱かれていた。誰も、話しかけなかった。サナは、こういうときの黙り方を知っている人だった。
行き交う人の波。店じまいの声。夕餉の匂い。町のすべてが昨日と同じ顔をしているのに、俺たちの抱えているものだけが、今朝と、まるで違っていた。
宿の部屋に戻り、扉が閉まって、ようやく、ユキは口を開いた。
「……里では、母は『私に封をして、国と共に消えた』と、そう聞きました」
声は、静かだった。静かすぎて、痛かった。
「娘を守って、国を封じて、消えた。それだけでも、抱えきれないくらいなのに。……この帳面は、その先を書いています。母は、消える前に、世界の針まで、押し戻していた」
膝の上の帳面に、彼女の指が、そっと置かれる。
「国だけじゃ、なかった。世界ごと、だったんです。母が背負ったのは。……私、母のことを、まだ何も知らなかった」
「……ユキ」
「顔も、声も、覚えていないんです。二歳でしたから。私の中の母は、里の人たちの話と、夢で見た祭壇の後ろ姿だけで、できていて。……その母が、今日、また少し、大きくなりました。大きくなるほど、遠くなる気がします」
「誇らしい、って思いたいんです。思って、いいはずなんです。でも――」
言葉が、途切れた。俯いた白い髪が、夕日の残りに、赤く染まっていた。
「でも、思えば思うほど……私は、その五分の上に、生きてるんだって。国と、母と、世界の五分。そんなに沢山のものの上に、私一人が」
「――違う」
言葉が、考えるより先に、出ていた。
ユキが、顔を上げる。灰色の目が、揺れて、俺を見る。
「順番が、逆だ。母さんは、世界を救うついでに、ユキを守ったんじゃない。……ユキを守るために封じて、それでも足りないから、世界の針まで戻したんだ。あの人が最後まで手放さなかったものの、真ん中にいたのは、ユキだ」
根拠を、問われたら、困る。帳面のどこにも、そんなことは書いていない。だが、俺は知っている。精霊の記憶の中で視た、祭壇の白い後ろ姿を思い出す。雪の谷で目にした、解封の光を思い出す。十年越しに解けたあの封に籠もっていた力の必死さは、世界のための必死さじゃなかった。もっと近くて、もっと熱い、ただ一人のための必死さだった。俺は、それを、この目で視た側だ。
「だから……ユキが生きてることは、重荷の証じゃない。あの夜、母さんが押し戻した五分の――中身、そのものだ」
ユキは、長いこと、俺を見ていた。
夕闇の部屋の中で、灰色の目だけが、灯りを映して、揺れていた。
それから、帳面を、ぎゅっと抱きしめて、一度だけ、深く頷いた。目の縁は光っていたが、零れはしなかった。零さない強さを、この旅の日々で、彼女は自分のものにしていた。
「……ありがとう、ございます。……はい。生きます。あの五分の、中身として。ちゃんと」
「はいよ、湿っぽいのはそこまで」
サナが、茶を三つ、卓に置いた。絶妙の間合いだった。たぶん、ずっと計っていてくれたのだ。
「あんたの母さんの話は、大事にしまっときな。ここぞって日に、力に変わる類いの話だ。……で、今は、あたしたちにできることをやる。それが、先に逝った人らへの、一番の礼儀ってもんさ」
「……はい」
ユキは、目元を一度だけ拭って、顔を上げた。もう、揺れてはいなかった。
「――で、軍議だ。『針を追え』。じいさんの宿題の、読み解きといこうか」
卓を囲み、紙片を真ん中に置いた。
『儂を探すな。針を追え』
「読み方は、三つある、と思う」
俺は、指を折った。
「一つ。俺の懐中時計の針を追え――つまり、数を見張り続けろ。二つ。時計塔の針を追え――塔そのものを調べろ。三つ……この帳面の続きを書け。『ズレ』の見張りを、継げ」
「三つとも、だろうね」
サナが、即答した。
「じいさんの言葉は、いつも重ね着だ。時計は、計器で、鍵だった。なら『針を追え』も、一枚じゃないさ」
「私も、そう思います。それに……『探すな』と『追え』を、並べて書いたのが、レムさんらしいなって」
ユキが、紙片を、指でなぞった。
「人を探すな。でも、針は追え。……つまり、『儂のことは諦めろ』じゃ、ないんです。針を追い続ければ、いつか、針のある場所で会える。……そういう約束の書き方にも、読めませんか」
「……ああ。読める」
読めてしまったら、もう、そうとしか読めなかった。探すな、の四文字の冷たさが、裏返って、温度を持った。じいさんは、再会を禁じたんじゃない。再会までの道順を、指定したのだ。
「……番を、継ぐ」
ユキが、帳面の表紙を、撫でた。
「四十年、この人が独りでやってきたことを、私たちが。……はい。それが、この帳面を託された者の、正しい読み方だと思います」
「けど、どうやって継ぐ? じいさんの『ズレ』の検分は、店の時計と、世界の針を突き合わせる作業だったはずだ。店の時計は、全部止まってる」
「あんたの胸の、それがあるだろ」
サナが、俺の胸元を、指した。
「世界の針に同期する計器。じいさんが、次の番人に持たせた道具だ。……あんたの毎晩の監視に、一つ仕事が増えるだけさ。灯りと一緒に、針を見る。動いたら、記す。動かなくても、記す」
『ズレ、なし』。あの気の遠くなる繰り返しを、今度は、俺が書くのか。四十年の先達の椅子は、あまりに大きい。だが、断る理由は、どこにもなかった。この時計を託されたときから、たぶん、そういうことだったのだ。
「わかった。……番、継ぐよ」
胸元の時計が、少しだけ、重くなった気がした。悪くない重さだった。四十年の先達から、十二歳の新入りへ。引き継ぎの言葉も、儀式もない。ただ、帳面が一冊、渡っただけだ。それで、十分だった。
そうと決まれば、帳面の残りを、検めることにした。
十年前の、あの乱れた頁の先。記録は、少しの空白を挟んで――再開していた。
『ズレ、なし』
『ズレ、なし』
また、あの繰り返しだった。世界が軋み、五分戻った、その直後から。じいさんは、また淡々と、番に戻っていた。
「……この空白は、どれくらいだ?」
「日付を見ると……七日、です。滅びの夜から、七日だけ空いて、次の『なし』が始まっています」
「七日、か」
国が一つ消えて、世界の針が五分戻るのを目撃して、七日。それだけ休んで、じいさんは、同じ椅子に戻ったのだ。頁を繰りながら、俺は、その十年分の「なし」の重さに、眩暈がしそうだった。滅びを目撃して、なお、翌週から同じ検分を続ける。それは、どんな心臓が要ることなんだ。
「……最後の頁を、見な」
サナの声で、我に返った。
彼女は、帳面の終わりの方を、開いて待っていた。俺とユキは、左右から、覗き込んだ。
記録は、途中で、終わっていた。
最後の記入は、他のどの頁とも、違っていた。『なし』の几帳面な列の、その一番下。同じ筆跡で、しかし僅かに強く、こう彫りつけるように書かれていた。
『ズレ、生ず。針、微かに震えおる。……時が近い。』
四十年、「なし」だけを書き続けた手が、初めて書いた「生ず」の二文字。その瞬間のじいさんの胸中を思うと、指先が冷えた。狂わないことを確かめ続ける四十年は、裏を返せば、この二文字を書く日を、待ち構え続けた四十年でもあったのだ。
そして、最後の一行。
『儂は、視に行く。』
それきり、頁は、白かった。
四十年続いた記録の、それが、終わりだった。
「……視に、行く」
ユキが、囁いた。
「どこへ、とは、書いてない。……けど」
書いてなくても、わかる。この町で、じいさんが「視に行く」場所なんて、一つしかない。店の窓から、四十年、見上げ続けたはずの――時計塔。
じいさんは、消されたんじゃ、ないのかもしれない。異変に気づいて、自分の足で、確かめに行ったのだ。そして、帰らなかった。休業札と、止めた時計と、刻印と、この帳面を、順番の仕掛けごと残して。
『儂を探すな』の意味も、これで少し、輪郭が変わる。あれは「心配するな」じゃない。「儂の後を追って塔に来るな」だ。自分と同じ道を、俺たちが辿らないように。……ああ、まったく。どこまでも、そういう人だ。
「一つ、わからないことがあるけどね」
サナが、腕を組んだ。
「十年前の夜。じいさんは『白い髪の巫女を、この目で視た』と書いてる。……どこから? 滅んだのは、セレスティアだ。海の向こうとは言わないけど、王都から見える距離じゃない。店の椅子に座ったまま、国一つ向こうの巫女が視えるものかい?」
三人の間に、沈黙が落ちた。
視た、という言葉の、底が抜けた。じいさんの「視る」は、俺たちの「見る」と、同じ意味なのか。それとも――俺が、滅びの光景を「視た」のと、同じ種類の何かなのか。
考えかけて、やめた。その先には、じいさんの正体という、底の見えない穴が口を開けている。今の手持ちの札では、覗き込んでも、闇しか見えない。
「……宿題が、また増えたね」
サナは、それ以上は言わなかった。言えることが、なかった。ただ、帳面を油紙に包み直す彼女の手つきは、来たときよりも、ずっと丁寧になっていた。
その夜、寮の窓から、七度目の灯りを見送った。いつも通りの刻限に、いつも通りの半刻。胸元の針は、動かなかった。俺は、監視の帳面の隅に、生まれて初めての一行を書いた。
『ズレ、なし』
四十年の先達の椅子は大きい。けれど、最初の一行は、書けた。
翌日。俺は、いつもの貸出台で、本の下に紙を滑らせる代わりに、小さく言った。
「今夜、鐘楼に。見せたいものがある」
ガイアは、貸出印を押す手を止めずに、「七つ数える頃に」とだけ、返した。
帳面の持ち出しは、サナと相談の上で決めた。写しでは、伝わらないものがある。四十年分の頁の厚み、筆跡の乱れ、最後の白。それを見せるための、一晩だけの持ち出し。明日の朝一番に、女将経由でサナの手に戻す。灯りの夜でもない、ただの静かな夜を選んだ。
その夜。約束の刻限きっかりに、ガイアは鐘楼に現れた。燭台の小さな灯りの下で、彼は、レムの帳面を読んだ。
一頁ずつ。指を、震わせながら。
途中から、彼の唇が、動いていることに気づいた。声には、なっていない。ただ、頁の『ズレ、なし』を、一つずつ、なぞっている。数える者の読み方だった。飛ばさない。まとめない。四十年分を、一つずつ、確かめていく。
「……『ズレ、なし』が……四十年」
呟く声が、掠れていた。
「私の帳面は、二年です。二年で、私は、時々、自分が正気なのか、わからなくなった。誰にも見せられない数字を、独りで数え続けるのが。……四十年。この人は、四十年」
彼は、頁の上に、そっと掌を置いた。まるで、会ったこともない誰かと、握手を交わすように。
「……会いたかった。この人に。数える者の、先達に」
「ああ。……ガイアと、じいさんは、きっと話が合った」
しまった。呼び捨てに、なっていた。だが、ガイアは、その綻びを咎めもせず、小さく笑っただけだった。
「ええ。話が合ったと思います。……それと、サヌスさん。呼び方は、そちらの方が、数えやすい」
「……数えやすい?」
「音の数が、少ないので」
冗談なのか本気なのか、わからない理屈だった。わからないまま、なんとなく、この夜から、俺たちの間の敬称は一つ、減った。
それから、彼は、最後の頁を開き――その表情が、止まった。
長い、沈黙。燭台の炎が、彼の横顔で、静かに揺れた。
「サヌスさん。……この、最後の日付」
「じいさんが『視に行く』と書いた日だ。それが、どうか――」
「私の帳面と、突き合わせます」
ガイアは、自分の観測帳を開き、頁を、素早く繰った。その手つきに、迷いはなかった。彼は、答えを予感している。予感して、なお、確かめずにはいられない。数える者の、業のような手つきだった。
指が、ある一点で止まる。二つの帳面を、卓の上に、並べる。
燭台の灯りが、二つの日付を、照らした。
四十年の帳面の、最後の日付。
二年の帳面の、ある夜の日付。
「……同じ、です」
ガイアの声が、震えていた。
「レムさんが、視に行った夜。……禁書区画に、最初の灯りがともった夜。――同じ、日です」
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