第38話「振り子の腹」
明日、新しい小説も投稿します。良ければ見てください (^^)
観測の夜から、日常は、また静かに流れた。
三日後の夜――六度目の灯りも、記録した。刻限も、継続も、これまでと同じ。俺の窓からの観測に、鐘楼のガイアの記録を、翌日の廊下ですれ違いざまに突き合わせる。胸元の針は、動かなかった。呑まれた者は、いない。監査官は、通っただけだ。
「数字が揃うのは、いいことです」
図書室の貸出台で、本の返却にかこつけて、ガイアは小さく言った。
「揃った数字の中に、ある日、揃わないものが出る。……異変というのは、そこにしか、姿を現さないので」
二年、それだけを頼りに数えてきた者の言葉は、静かで、重かった。
「面会日に、店へ行く。裏蓋の刻印の件だ」
「……ええ。首尾は、また廊下で」
貸出台に返した本の下に、俺は、小さく折った紙を滑り込ませておいた。観測記録の写し。ガイアの帳面と、俺たちの記録は、こうやって少しずつ、一冊に編まれていく。共に数える、というのは、こういう地味な往復のことなのだと、最近わかってきた。
そして、面会日が来た。
今日の「里帰り」には、いつもと違う目的地がある。俺とユキは、外出簿に記帳を済ませ、商人宿でサナと落ち合うと、そのまま三人で、時計塔の方角へと歩き出した。
昼下がりの大通りは、人で溢れていた。呼び込みの声。荷車の軋み。子供の笑い声。この町の日常は、どこまでも健やかで――その足元で、記憶を薄く削られた人たちが、削られたことにも気づかず、笑って歩いているのかもしれなかった。
「歩きながらでいい、こっちの一週間の首尾を話しとくよ」
サナの声は、行商の世間話の調子のまま、中身だけが重かった。
「まず、十年前の夜のこと。『あの夜、王都の時計はどうだった』って、それとなく聞いて回った。……妙なんだよ。年寄り連中も、時計商も、口を揃えて『よく覚えていない』って言う」
「覚えて、いない?」
「十年前だからね、忘れもするさ。……ただ、覚えてないにしても、揃いすぎてる。祭りの年も、大火の年も、皆それなりに覚えてるのに、あの年の、あの季節の話だけ、霞がかかったみたいになる。まるで――」
サナは、そこで言葉を選んだ。
「その夜の記憶だけ、町ごと、薄く削られてるみたいだった」
背筋が、冷えた。時間を、抜かれる。あの夜の中庭で見た「かち」の感覚が、指先に蘇る。もし、あれが、人ひとりの袖じゃなく――町ひとつの記憶に対して行われたのだとしたら。
「……サナさん。それ、ただの忘却じゃないかもしれない」
俺は、声を落として、あの夜の「抜き取られた一拍」の感触を、改めて話した。掴んだはずの袖。空だった手。世界のどこにも残っていない、あの一瞬。
「町の人たちの『覚えていない』が、同じものだとしたら……あの夜の記憶は、忘れられたんじゃなくて、抜かれたのかもしれません」
ユキが、静かに継いだ。サナは、しばらく黙って歩いてから、短く息を吐いた。
「……嫌な符合だね。覚えとくよ。『思い出せない』と『抜かれた』は、外からは見分けがつかない。……つまり、この町には、抜かれたことにすら気づけてない人が、山ほどいるかもしれないってことだ」
「じいさんの昔の方は?」
「そっちは、もっと収穫なし。四十年前にふらりと王都へ来て、先代の店主から店を継いだ。出自を知る者なし、身内を見た者なし。……四十年、店と時計だけ。綺麗すぎる経歴ってのは、それ自体が経歴なんだよ」
「綺麗すぎる経歴が、経歴……?」
「消したい過去がある人間ほど、経歴は綺麗になるのさ。……あるいは、経歴ごと、誰かに消された人間もね」
サナの言葉が、さっきの「削られた記憶」の話と、頭の中で、嫌な形に重なった。四十年前に、どこからともなく現れた男。誰も来し方を知らない男。……それは「語らなかった」のか。それとも、語っても、誰も「覚えていられなかった」のか。
話しているうちに、時計塔の影が、頭上に近づいてきた。
その膝元の、小さな店。
『休業』の札は、あの日のまま、扉に下がっていた。埃を被った窓の奥は、暗い。表通りから店先までの数歩の間だけ、人の流れが、避けるように途切れていた。
「表は駄目だ。裏へ回るよ」
裏路地の勝手口の前で、サナは、袖から細い金具を二本、取り出した。
「……サナさん、それ」
「行商はね、商品を盗まれる側なの。盗む側の手口を知らなきゃ、守れないだろ? ……ほら、開いた」
言い訳の間に、錠は落ちていた。頼もしいというべきか、恐ろしいというべきか。
扉が、軋みながら開く。
店の中は、時間が死んでいた。
あの日、何十という時計が一斉に時を刻んでいた、あの賑やかな店内。今は、音が、一つもない。棚に、壁に、卓の上に、時計たちは、あの日のまま並んでいる。そして、その全部の針が、同じ時刻を指したまま、埃を被って、黙っていた。
四時、五十五分。
去年の冬、初めてこの敷居をまたいだ日のことを、思い出す。凍えた手のまま、何十もの秒針の音に包まれて、うるさいと思うより先に、賑やかだ、と思った。じいさんは、火鉢の前で、小さな歯車を摘んでいた。あの日この店に満ちていたものが、音だけじゃなかったことを、音の絶えた今の店が、教えてくれる。
「……音のない時計屋ってのは、こんなに寒いもんかね」
サナが、独り言のように呟いた。同じことを、感じていたらしい。ユキは、扉のそばで一度足を止め、目を閉じて、店内の気配を探ってから、小さく首を横に振った。封じの残り香も、罠の気配も、ない。ただの、主のいない店。
――いや。「ただの」では、ないのかもしれない。この店の時計たちは、世界の針と、同期している。なら、この静けさは、留守なんかじゃない。店ごと、世界の傷の深さを、指し続けているのだ。
奥の壁際に、それは、立っていた。
床置きの、大きな振り子時計。俺の背丈より、まだ高い。黒ずんだ胡桃材の胴に、硝子の小窓。その奥で、真鍮の振り子が、動かないまま、鈍く光っていた。売り物の並ぶ棚から独り離れて、壁を背に立つその姿は、店の主のいない今、店番を任された古株の奉公人のようにも見えた。
「……これ、だな」
『針が動きだしたら、店の振り子時計の腹を、検めよ』
刻印の言葉を、胸の中で復唱する。腹。振り子の収まった、この胴の部分のことだろう。正面の長い扉に手をかけると、鍵はかかっておらず、乾いた音を立てて開いた。
振り子と、錘と、鎖。時計の内臓が、静かに並んでいる。だが、それだけだ。二重底も、隠し棚も、見当たらない。胴の内側を指先で辿り、底板を叩き、側板の継ぎ目を検めても、仕掛けらしいものは、何もない。
「……何も、ないぞ」
「よく見な。時計師の隠し場所だ。時計師にしか開けられない作りに、決まってる」
サナの言葉に、俺は、暗い胴の中へ、頭を突っ込むようにして、目を凝らした。
振り子の、奥。背板の中央に――丸い、浅い窪みがあった。
銀色の、縁取り。大きさは、掌に載るほど。その形に、俺は、見覚えがあった。毎晩、胸の上で感じている、あの形。
「……嘘だろ」
紐を首から抜き、懐中時計を、窪みに近づける。
裏蓋の面が、吸い込まれるように、ぴたりと嵌まった。
かち、と小さな手応え。次の瞬間、背板の一部が、ばね仕掛けで手前に開いた。
「……鍵、だったんだ」
声が、掠れた。
じいさんがくれた餞別は、時計であると同時に、計器であると同時に――この隠し場所を開ける、たった一つの鍵だった。あの日、皺だらけの手がこれを差し出したときから、じいさんは、いつか俺がここに立つことまで、見えていたのだ。
もし、どうにもならんくなったら、裏蓋を開けてみるといい。
裏蓋を開ければ、刻印が読める。刻印を読めば、この店に来る。この店に来れば、時計が鍵になる。……一つずつしか開かない、順番の仕掛け。焦って全部を一度に知ろうとする者には、たどり着けない道順。じいさんは、俺という人間の歩幅まで、測っていたのかもしれなかった。
「泣くのは、あとにしな」
サナの声が、背中を、軽く叩いた。
「……泣いてない」
「はいはい。ほら、中」
開いた隙間の奥に、油紙の包みが、一つ。
埃を払い、卓の上で、三人で囲んで、包みを解いた。油紙は、幾重にも丁寧に巻かれ、紐の結び目は、時計職人らしい、ほどきやすくて緩まない結びだった。こんなところまで、じいさんだった。
中身は、二つ。
一つは、古びた帳面。革の表紙は手擦れで丸くなり、頁の縁は飴色に焼けている。
もう一つは、帳面に挟まれた、小さな紙片。じいさんの字で、短く、こうあった。
『儂を探すな。針を追え』
「……探すな、って」
そんな書き置きで、探すのをやめられるほど、俺たちは、聞き分けが良くない。喉まで出かけた言葉を、俺は、呑み込んだ。今は、それを言う場面じゃない。
「じいさんらしいよ。心配する暇があったら手を動かせ、ってことさ」
サナは、そう言って笑ったが、その目は、笑っていなかった。この書き置きもまた、ずっと前に用意されたものだ。自分がいなくなる日のことまで、じいさんは、織り込んでいた。
「針を追え、は……この時計の針、ってことでしょうか。それとも」
「両方だろうね。読み方は、たぶん、この帳面が教えてくれるさ」
俺は、帳面を、開いた。
几帳面な文字が、頁を埋めていた。日付。天候。そして、時計の記録。何年分も、何十年分も。それは、じいさんの、観測の帳面だった。ガイアのそれと、同じものだ。数える者は、四十年前から、この町にいたのだ。
頁のあちこちに、同じ言葉が、繰り返し現れる。
『ズレ、なし』
『ズレ、なし』
『ズレ、なし』
十日ごと、あるいは半月ごと。四十年、じいさんは、何かと何かの「ズレ」を、測り続けていた。店の時計と――たぶん、世界のどこかの、針とを。狂わないことを確かめるためだけに、四十年。気の遠くなるような、静かな見張りの記録だった。
「……この人、ずっと」
ユキの声が、掠れた。
「ずっと、独りで、番をしていたんですね。この帳面と、あの店先で」
頁を繰る手が、ある一点で、止まった。
十年前の、あの季節の頁。そこだけ、文字が乱れていた。走り書き。インクの染み。破りかけて、思いとどまったような、頁の皺。四十年、狂いなく几帳面だった筆跡が、この数頁だけ、別人のように震えている。
窓から差す夕暮れの光が、卓の上の帳面を、赤く染め始めていた。俺は、声に出して、読んだ。読まなければ、三人で分け合えない気がした。
『夜半、店の時計、一斉に狂う。針、勝手に進む。止められぬ。』
『五時へ向かう。全ての針が、五時へ向かう。』
『――視た。』
視た。何を。その先を追う指が、頁の縁で、一度、止まった。隣のユキの呼吸が、浅くなっているのが、わかった。彼女の故郷が滅んだ、その夜の記録なのだ。読み進めていいのか、迷った。
「……読んで、ください」
ユキが、言った。まっすぐな声だった。
「私は、知らないままの方が、怖いので」
俺は、頷いて、最後の行に、目を落とした。
『針は五時に触れ、世界が軋み――五分、戻った。戻したのは、白い髪の巫女であった。儂は、この目で視た。』
読み終えた声の残りが、音のない店に、吸い込まれていった。
針は、五時に、触れた。世界は、軋んだ。それが、十年前に本当に起きたこと。セレスティアを呑んだ滅びは、五時の針の仕業で――それを、五分、押し戻した者がいた。
白い髪の、巫女。
隣で、ユキが、息を、呑んだ。
十年前。彼女は、二歳だった。母に封じられて、眠りについた、その夜。母がその後、何をしたのか。娘に封をして、国と共に消えた、と、里では聞いた。だがこの帳面は、その先を書いている。母は、消える前に――世界の針まで、押し戻していた。
震える指先が、帳面の、その一行に、そっと触れた。白い髪の巫女、という文字を、なぞるように。
「……この人は」
ユキの声は、囁きよりも、なお小さかった。
「この人は……あの夜の、お母さんを、視ていたんです」
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