第37話「灯りの主」
ロイが、購買の新作に二連敗した。蜂蜜がけの揚げパンの次は、木苺だったらしい。
観測の日の昼は、そういう出来事だけで、できていた。魔法史の小テストがあり、ユキが歴史の授業で当てられて、今度は遠慮なく満点の答えを返した。教師が目を丸くして、教室が少し沸いた。姉は学科で目立っていい枠。取り決め通りの、正しい目立ち方だった。
「なあ、キオネさんってすげえよなあ。おれ、あの問題ぜんっぜんわかんなかった」
「昔から、本ばっかり読んでる姉なんだ」
「いいなあ、頭のいい姉ちゃん。おれの妹なんか、手紙のたびに字が三個は間違って――」
昼のロイの声を聞きながら、俺は、今夜のことを、頭の隅で反芻していた。この日常と、今夜の観測。九割と、一割。二つの世界を行き来する生活にも、体は少しずつ、慣れ始めている。慣れることが良いことなのかは、まだ、わからないけれど。
放課後、女将からの「届け物」で、サナの言伝が届いた。
『今夜の商いは、店主が外から見ている。手筈は変えるな。……月の薄い晩は、棚の際の品に手を出すんじゃないよ』
棚の際=影の線。符牒を読み解くのにも、もう慣れた。段取りは、整った。あとは、夜を待つだけだった。
観測の夜は、月が薄かった。
雲が多く、月明かりは、ある時は差し、ある時は翳る。塔屋の影の線が、伸びたり、消えたりを繰り返す夜だった。
「……線が読めない夜は、線に近づかない。それだけです」
合流した旧鐘楼の中で、ガイアは、燭台に火を入れずに言った。今夜の灯りは、なし。窓際に三人分の位置を決め、月が翳っている間に体を慣らす。彼の観測の流儀は、隅々まで、静かで、几帳面だった。
卓の上には、彼の観測帳が開かれていた。細かい文字と数字の列が、頁を埋め尽くしている。日付、刻限、天候、月齢。二年分の夜が、そこに積まれていた。ちらりと見えた最初の頁の日付は、随分と、古かった。
「これ、全部……」
「ええ。私の、二年です。……今夜から、三人の帳面になりますが」
さらりと言って、ガイアは、新しい頁を開いた。
俺とユキの寮の抜け出しは、二度目ということもあり、前回より滑らかだった。サナは、取り決め通り、学院の塀の外で張っている。撤収の合図は、空に一発、砕けて光る氷。合図の氷は、月が薄くても目立つよう、大きめに撃つと決めてある。
「観測の分担を決めます。私は、時間を数えます。点灯の刻限、継続、消灯まで。キオネさんは、中庭と塔屋の出入口。人が来たら、真っ先に見つけてください」
「はい」
「サヌスさんは……窓を。灯りが点いたら、灯りだけを見ていてください。私たちは今夜、初めて、あれを『近くで』見るんです」
寮の角部屋から塔屋までは、遠かった。だが、この鐘楼から塔屋の窓までは、目と鼻の先だ。窓の奥の様子まで、視認できる距離。二年間、遠くから数え続けたガイアが、初めて踏み込む観測距離だった。
「……怖くは、ないんですか。ずっと守ってきた距離を、詰めるのは」
「怖いですよ」
ガイアは、あっさりと認めた。
「ただ、三人なら、視える糸も、数えられる秒も増える。……そう言ってくれた人がいたので」
俺の言葉だった。言った本人が忘れかけていたものを、この生徒は、きっちり数えて、覚えていた。
消灯の鐘から、半刻。一刻。
鐘楼の中は、冷えた。互いの息遣いと、遠い風見の軋みのほかは、何の音もない。ユキが、俺の隣で、上着の前を掻き合わせた。
待つ間、囁き声で、短い言葉だけを交わした。
「……ガイアさんは、いつも、こうやって独りで数えてたんですか」
「ええ。屋上や、書庫の窓から。……独りの観測は、静かでいいですよ。誰にも、話しかけられないので」
「それは……寂しい、の言い換えでは」
「……キオネさんは、時々、司書より鋭いことを言いますね」
暗がりの中で、ユキが小さく笑う気配がした。ガイアの声にも、僅かに、苦笑の色が混ざっていた。二年分の「独りの観測」の中に、この夜のような時間は、一度もなかったのだろう。数える秒の長さは同じでも、三人で数える夜は、たぶん、少しだけ短い。
そして――消灯から、およそ一刻半。
「……来ます」
ガイアが、囁いた。数えていた秒が、いつもの刻限に届いたのだ。
その言葉から、十も数えないうちだった。
中庭の暗がりで、何かが、動いた。
ユキが、俺の袖を、二度、叩く。取り決めた合図。人影、一つ。
目を凝らす。雲が流れ、薄い月明かりが、中庭を撫でた。
歩いてくる。塔屋の入り口へ、まっすぐに。だが――あの空っぽの歩き方では、ない。しっかりとした、自分の意志で歩く者の足取り。片手に、覆いをかけた手提げの灯。そして、肩に羽織った、見覚えのある――
灰色の、外套。
心臓が、跳ねた。
試験の日、俺とユキを帳面に書き留めた、あの男だった。入学式の来賓席の端にいた、管理局の目。それが今、深夜の中庭を、当たり前の顔で歩いている。
隣で、ガイアの息が、僅かに乱れた。彼にとっても、想定の外だったのだ。呼ばれて歩く「空っぽの誰か」を、今夜も見るのだと、俺たちは思っていた。来たのは、正反対の人間だった。誰よりも目的の詰まった足取りの、大人が。
男は、塔屋の扉の前に立つと、懐から何かを取り出した。
鍵だ。
がち、と重い音が、夜気を渡って届いた。禁書区画の鍵は、時の管理局しか持っていない――ヴォルフの言葉、そのままに。男は、こじ開けたのでも、呼ばれたのでもない。正面から、鍵で、入った。
隣で、ユキの手が、俺の袖を強く握った。彼女も、気づいたのだ。三日前の夜、俺たちの目の前で、あの扉は「内側から、勝手に」開いた。呼ばれた者のためには、扉は自分で開く。だが、あの男のためには――開かない。男は、鍵を使う側。呼ばれる側ではなく、通う側の人間なのだ。
扉が閉まり、少しの間を置いて、あの窓に、橙の灯りが、ともった。
「……三日おきの灯りの主は、管理局」
ガイアの囁きは、掠れていた。
「二年、この学院の夜を数えてきました。あの灯りが現れたのは、そのうちの、このひと月余りです。……けど、点ける瞬間を見たのは、初めてだ」
「ガイアさんは、あの男を、知ってるんですか」
「顔だけは。学院に出入りする、管理局の監査官です。教師たちが、妙に畏まる相手……名前までは、知りません。役職と顔だけの人。……あなたがたは?」
「試験の日に、目をつけられかけた。……ガイアさんが割って入ってくれた、あの相手だ」
「……ああ」
暗がりの中で、ガイアが、小さく頷く気配がした。
「あの日の私は、『管理局の目から志願者を一人逃がした』だけのつもりでした。……今夜、その目の主が、灯りの主だと知るわけですか。世界は、狭い。狭すぎて、嫌になる」
灯りは、窓の奥で、ゆっくりと動いていた。階段を、昇っている。上から二番目の窓で止まり、そこで、揺れながら留まる。男が、あの部屋で、何かをしている。読んでいるのか。検めているのか。それとも――「保管」された誰かの、様子を見ているのか。
想像は、そこで自分で断ち切った。今夜の俺たちは、観測者だ。想像で記録を汚さない。見えたものだけを、数える。
俺たちは、息を潜めて、数え続けた。
ふと、胸元の時計に、意識が向いた。シャツの下の銀の円は、冷たいまま、動かない。……そうだ。あの男が中にいる今、この針は、進んでいない。少なくとも今夜、あそこで誰かが「呑まれて」は、いない。それだけが、この暗い観測の中の、たった一つの、ましな報せだった。
ガイアの読み通り、灯りは、半刻ほどで階段を降り始めた。
扉が開き、男が出てくる。鍵をかけ、来た道を戻り――その途中で、ふと、足を止めた。
三人の呼吸が、同時に、止まった。
男は、動かない。覆いをかけた手提げの灯りが、外套の裾を、下から仄かに照らしている。
立ち止まった位置は、中庭の、ちょうど真ん中あたり。この鐘楼からも、寮からも、等しく遠い、何もない場所。なぜ、そこで止まる。何かに、気づいたのか。俺は、窓枠の陰で、瞬きすら惜しんで、男の背中を見つめた。隣のユキは、いつでも封じを組めるよう、指を浅く重ねている。ガイアの唇だけが、音もなく、秒を数え続けていた。
十秒。二十秒。
やがて男は、懐から、何かを取り出した。
丸い、銀色のもの。懐中時計だ。時刻を、確かめている――ように、見えた。俺は、無意識に、自分の胸元を押さえていた。シャツの下で、じいさんの時計が、ひやりと冷たい。
男は、時計を懐に戻すと、何事もなかったように歩き出し、中庭の闇の向こうへ、消えていった。
足音が完全に絶えてから、たっぷり百を数えて、ようやく、誰かが息を吐いた。
「……行きました、ね」
「ああ。……気づかれては、いないと思う。たぶん」
「記録します。点灯、消灯からおよそ一刻半後。継続、半刻。灯りの主……時の管理局の、あの監査官」
帳面に走らせるガイアの手元を見ながら、俺は、頭の中で、線を繋いでいた。
三日おきの灯り=管理局の男の、定期の訪問。禁書区画には、正規の鍵で出入りしている。つまり、あの塔屋で起きていることを、管理局は――少なくとも、あの男は――知っている。知った上で、通っている。
生徒が消える学院。それを調べもしない管理局。調べないはずだ。消している側と、鍵を持っている側が、同じなのだから。
去年の冬、初めて王都に来たとき、俺たちは管理局を「怖い役所」くらいにしか思っていなかった。あれから、資料の封鎖を知り、灰色の目に晒され、そして今夜――その正体の輪郭が、灯りの形で、目の前にともった。
「……一つ、まずいことに、気づいてしまいました」
ガイアが、帳面から顔を上げた。
「彼が管理局の監査官なら、学院への出入りも、夜間の行動も、全部『正規の職務』です。誰にも咎められない。私たちが騒いだところで、罪に問える行いを、彼は今夜、何一つしていない」
「……鍵で扉を開けて、灯りを持って歩いただけ、だもんな」
「はい。完璧です。完璧すぎて……吐き気がします」
ガイアがここまで露骨に感情を出すのは、珍しかった。二年分の数えの答え合わせが「手の届かない相手」だったのだから、無理もない。
「学院長は……知っているんでしょうか」
ユキが、ぽつりと言った。
「生徒が消えて、『帰省』で片づけて。管理局の人が夜中に出入りして。……学院の一番上の人は、どこまで知っていて、黙っているんでしょう」
答えられる者は、いなかった。ただ、その問いは、俺たちの調べるべき場所の地図に、新しい印を、一つ増やした。敵の輪郭は、まだ見えない。だが、輪郭の内側にいるかもしれない者の名前は、少しずつ、増えていく。
「けど、収穫はあった」
俺は、努めて、声に力を入れた。
「灯りの正体がわかった。周期の意味もわかった。それに――さっきの時計」
「……時計?」
「男が最後に見た、懐中時計だ。あの瞬間、雲が切れて、月が差しただろ。俺の位置からは、文字盤が、一瞬だけ見えた」
見えてしまった、と言う方が、正しいかもしれない。
見なければよかったと、半分、思っているのだから。
「文字盤が、どうかしたんですか」
ユキとガイアの視線が、俺に集まる。俺は、乾いた喉を、一度、鳴らした。
思い出す。月光の下の、あの一瞬。時刻を確かめるには、あまりに長く文字盤を見つめていた男。当然だ。あの時計では、時刻なんて、確かめようがない。なら、あの男は、あの銀の円の何を見ていた。何を、読んでいた。……針のない盤面から、読めるものが、この世にあるとでも言うのか。
「あの男の懐中時計には――針が、なかった」
沈黙が、鐘楼に落ちた。
ユキの目が、見開かれる。ガイアの指が、帳面の上で、止まる。
ガルムの首元の、ひび割れた、針のない文字盤。ガイアの襟元の、餌の徽章。そして、管理局の監査官が懐に抱く、銀の時計。
全部、同じだ。針のない、時計盤。
狩人と、学院の徽章と、管理局。ばらばらに見えていた三つが、一つの意匠の下に、並んだ。針を持たない者たちが、針の進む時計を懐に抱く俺たちを、探している。
「完成した時計に、針はいらない」――誰かの言葉が、耳の奥で、冷たく谺した。
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