第36話「裏蓋」
翌朝の学院は、何も知らない顔で、いつも通りだった。
食堂には焼き立てのパンの匂いが満ち、廊下には寝坊した生徒の足音が響き、教室では、誰かが昨日の実技の自慢話をしていた。あの夜の中庭を、誰も知らない。寝間着のまま闇に呑まれた生徒がいたことを、この学院で知っているのは、俺と、ユキと、ガイアの、三人だけだった。
「――サヌス、聞いてる? だからさ、購買の新作がさあ」
「……ああ、悪い。聞いてる。揚げパンだろ」
「蜂蜜がけな! 昼一番に並ばねえと売り切れるんだって!」
ロイの声は、今日も屈託なく弾んでいた。その明るさが、今朝は、少しだけ痛かった。こいつの知らないところで、こいつの世界の残り時間は、昨夜、また一秒、削られたのだ。
「……なあ、ロイ。昼、その揚げパン、一緒に並ぶか」
「お! 珍しいじゃん、あんたから誘うなんて! よっしゃ、二限終わったら廊下の突き当たりな!」
自分でも、驚いていた。たぶん、確かめたかったのだ。この賑やかで、蜂蜜がけの揚げパンが最大の関心事であるような日常が、まだちゃんと、ここに在ることを。守るものの顔を、ちゃんと見ておきたかったのだ。
――残り、二百九十九。
俺とユキとガイアの間で、その数字は、まだ仮説だ。時計が数えているものの正体も、五時に何が起きるのかも、確かめられてはいない。だが、仮説のまま放っておける数字でも、なかった。
授業の合間、廊下でガイアとすれ違った。
互いに、足は止めない。目礼すら、しない。ただ、すれ違いざま、彼の指が、本の背を、とん、と一度だけ叩いた。俺も、返事の代わりに、袖の上から胸元の時計に、指先で触れた。
言葉はなくても、通じた。変わりない。おまえも変わりないか。――夜の中庭で結ばれた同盟は、昼の学院では、この小さな仕草だけで生きている。
放課後、中庭のいつものベンチで、ユキと、教本を挟んだ。
「……眠れましたか」
「あんまり。……そっちは」
「同じです。目を閉じると、あの歩き方が」
寝間着の背中。空っぽの歩幅。互いに、それ以上は言わなかった。言えば、輪郭が、濃くなりすぎる。
「一つだけ、考えていたことが」
ユキは、教本の頁を、意味もなくめくりながら、続けた。
「もし、時計が本当に『呑まれた人』を数えているなら……最初に針が止まっていた四時五十五分までの数も、全部、誰かの数だったことになります。この五分が、いつから積まれたものなのか……もし、私の国が滅んだ夜からだとしたら。……そう思ったら、眠れなくなりました」
俺も、同じ場所に行き着いて、同じように眠れなくなった口だった。止まっていた針は、空白じゃない。そこまで進むのに、もう、途方もない数が――やめよう。仮説だ。まだ、仮説なんだ。
「……明日、サナに全部話す。数の話は、それからだ」
「はい。……三人より、四人です」
そして、七日ぶりの面会日が、来た。
商人宿の二階。茶が淹れられ、扉が閉まり、女将の足音が階段を降りきったのを確かめてから、俺は、話し始めた。
歓迎の集い。ガイアの正体と、カードの真相。消えたはずの二年生の、帰還と、二度目の消失。塔屋の影の線。封じが糸を止めた一瞬。掴んだ袖ごと抜き取られた、一拍の時間。そして――止まっていた懐中時計が刻んだ、一秒。
順番に、省かずに、話した。話しながら、あの夜の冷たさが、指先に戻ってくるのがわかった。袖の布の感触。空だった手のひら。閉じていく扉。ユキが時折、俺の落とした細部を、静かな声で補った。二人がかりで語り終えるまで、優に半刻はかかった。
サナは、最後まで、一度も口を挟まなかった。
語り終えたとき、湯呑みの茶は、すっかり冷めていた。
「……まず、言っとくよ」
長い沈黙のあと、サナは、姿勢を正した。
「あたしの読みは、外れだ。四時五十五分は、時刻の指定なんかじゃなかった。七日張って、店には猫の子一匹来やしない。……その上で、あんたたちの時計は、人が呑まれた瞬間に、一秒進んだ。そういうことなんだね」
「ああ。……ガイアの読みだと、あれは何かを数えてる。針が五時に届いたとき、何かが起きる」
「悔しいけどね。あたしの外れより、その坊やの読みの方が、筋が通ってる」
サナは、冷めた茶を一息に呷って、湯呑みを、とん、と置いた。
「読みが外れて、謎はでかくなった。……いい外れ方だよ。小さく当たるより、よっぽどいい。外れた読みってのはね、消していい線が一本増えたってことなのさ。じいさんの言伝は、待ち合わせなんかじゃなかった。なら、残る読み方は――もっと、でかい話だ」
軽口の形をしていたが、その目は、笑っていなかった。この人は、自分の読み違いを、誰より重く受け止めている。受け止めた上で、即座に、次の読みへ組み替えている。
「ガイアのことは……信じて、いいと思いますか」
ユキの問いに、サナは、腕を組んだ。
「会ってもいない坊やを、信じるも信じないもないさ。ただ――二年、独りで数え続けてた、って話にだけは、嘘の匂いがしない。ああいう根気は、拵え話じゃ出せないんだ。……ま、あたしの目で見るまでは、丸呑みはしないこと。あんたたちもだよ」
「わかってる」
「よし。で、配置の組み直しだ。店の張り込みは、やめる。代わりに、あたしは行商の網で、二つのことを洗う。一つは、十年前――セレスティアが滅んだ夜、この王都で何が起きてたか。時計は、止まらなかったのか。誰か、何かを視た者はいないのか」
十年前。針が、五時に届いた夜。もし本当にあの滅びがこの機構の仕業なら、王都にも、何かの痕が残っているはずだった。
「もう一つは……レムのじいさんの、昔だ」
サナの声が、少しだけ、低くなった。
「四十年、管理局の公認でいた時計師。世界のどこかと同期する時計を拵えて、あんたに持たせた男。……そんな芸当ができる人間の来し方を、あたしたちは、何も知らない。じいさんが何者なのか。それを知ることが、たぶん、この時計の読み方を知ることだ」
「……ああ。それと、こっちの動きも、報告しておく」
俺は、姿勢を正した。ここからは、報告というより、交渉だった。
「明日の夜――三日おきの、次の灯りの夜だ。俺とユキとガイアの三人で、旧鐘楼から、灯りを観測する」
「……夜の外出は禁止、って言ったはずだけどねえ」
「わかってる。だから、条件を決めてきた。鐘楼の中から一歩も出ない。影の線には、指一本近づかない。誰かが呼ばれて歩いてきても――今度は、追わない。見て、数えて、記録するだけだ」
追わない、の一言は、口にするだけで、喉の奥が軋んだ。だがそれが、あの夜の失敗から俺たちが学んだ、正しい悔しさの使い方だった。
サナは、長いこと、俺の目を見ていた。それから、ユキの目を。
「……約束できるんだね。目の前でまた誰かが歩いてても、動かないって」
「動かない。動いても、二百九十九が、二百九十八になるだけだ。……止める力を、まだ俺たちは持ってない。持ってないうちは、数える側に回る。ガイアが二年、そうしてきたみたいに」
言いながら、あの夜のガイアの背中を思い出していた。線の手前で拳を握りしめて、それでも越えなかった背中。あれは臆病なんかじゃない。ああやって彼は、二年分の観察を、生きて積み上げてきたのだ。
「――上等」
サナは、にっと笑った。
「言うようになったじゃないか。いいよ、許可する。ただし、あたしも外の塀際で張る。何かあったら、空に一発、派手なのを上げな。あたしなら雷だけど――あんたは氷でいい。砕けて、月明かりに光るやつ。それが撤収の合図だ」
そして、話は、自然と、そこへ行き着いた。
卓の真ん中に、俺は、懐中時計を置いた。
短針は四。長針は十一。秒針は、一目盛りだけ進んで、止まっている。三人の視線が、その小さな銀色の円に、集まった。
「……開けるんだね」
サナが、静かに言った。問いではなく、確認の口調だった。
「ああ」
俺は、頷いた。この七日、いや、じいさんと別れてからずっと、胸の中で転がし続けてきた言葉を、順番に、口にする。
「じいさんは言った。『もし、どうにもならんくなったら、裏蓋を開けてみるといい』。……俺はずっと、まだどうにもなってない、って言い続けてきた。手はある。目も耳もある。仲間もいる。それは、今も変わらない」
「なら、なぜ」
「行き詰まったから開けるんじゃない。……針が、動きだしたからだ」
止まっていた針が、進んだ。数えるものが、数え始めた。それはたぶん、じいさんの言う「どうにもならん」の、本当の意味だ。俺個人の行き詰まりの話なんかじゃない。世界の針の話だったのだ、最初から。
「切り札は、意味がわかってから切るもの。……前に、サナさんはそう言った。あの時は、まだ何もわかってなかった。けど今は、この時計が『数えている』ことがわかった。読み方の、最初の一つがわかったんだ。……読むべき時が来た。そう思う」
サナは、ユキを見た。ユキは、まっすぐに頷いた。
「私も、同じ考えです。それに……三人で開けるなら、レムさんも、きっと許してくれます」
「……よし。開けな」
俺は、時計を手に取った。
手のひらの上の、小さな銀色の重み。この重みと一緒に、雪の峠を越えた。この音に、幾つの夜を守られた。裏蓋に爪をかけながら、あの店の匂いを思い出した。油と、金属と、古い木の匂い。何十という時計の音の重なり。皺だらけの手が、この時計を差し出してきた、あの朝のこと。
――時間はな、小僧。刻むもんでも、刻まれるもんでもない。連れ添うもんじゃ。
裏蓋の縁に、爪をかける。四十年分の油と埃で固くなったそれは、しかし、抗いはしなかった。まるで、この日を待っていたかのように――
かちり、と。
小さな音を立てて、裏蓋が、開いた。
三人分の息を呑む音が、重なった。
中には、歯車も、香い袋も、隠し部屋めいた空洞もなかった。あったのは、蓋の裏側――磨かれた銀の内側に、針の先で刻んだような、細かい細かい、文字の列だった。
「……字だ」
「読めますか?」
「小さい……窓の方へ」
顔を寄せ合い、窓の光に翳して、俺たちは、その文字を読んだ。一字ずつ。彫りの浅い箇所は、光の角度を変えながら、三人で読みを突き合わせて。
『針が動きだしたら、店の振り子時計の腹を、検めよ』
それだけだった。署名も、日付もない。ただ、几帳面な、彫りの深い文字。何年も、何十年も前に刻まれたとしか思えない、古びた輝きが、溝の底に沈んでいた。
「……針が、動きだしたら」
ユキが、囁くように、読み返した。
俺は、その一文の意味の重さに、遅れて、気づいた。
この言伝は、昨日今日、刻まれたものじゃない。溝に沈んだ古びた輝きが、それを語っている。じいさんがこの時計を俺に渡した、あの冬の日よりも、ずっとずっと前から、この文字は、ここに在った。
つまり――じいさんは、知っていたのだ。
この時計の針が、いつか止まることを。止まった針が、いつか、再び動きだすことを。そして、それを読む誰かが、いつか、この蓋を開けることを。
四十年。あの小さな店で、時計を直し続けながら、じいさんは、いったい何を待っていたんだ。
「……一つ、確かなことがあるね」
サナが、低く言った。
「じいさんは、『針が止まること』も『動きだすこと』も、あらかじめ知ってた側の人間だ。……あたしが行商の網で洗うまでもない。レムのじいさんは、ただの時計師じゃない。この刻印が、何よりの証文だよ」
「けど、それなら……なんで、じいさんは俺に、何も」
「言えなかったんだろうさ。言葉じゃなく、時計と刻印で残した。……そういう伝え方をしなきゃならない理由が、あの人にはあったんだ。それが何かも、ひっくるめて――」
サナが、立ち上がった。窓の外、時計塔の方角を、睨むように見据える。
夕日を浴びた時計塔が、家々の屋根の向こうに、黒く立っていた。あの膝元の、小さな時計店。初めて訪ねた冬の日、何十という時計が一斉に時を刻む音を「うるさい」ではなく「賑やかだ」と思った、あの店。今は休業札の下がった扉の奥で、音の絶えた店の暗がりの中、動かない振り子が、俺たちを待っている。
「休業札の下がった、あの店のどこかで、振り子の腹が、あたしたちを待ってるってわけだ。……行き先は、決まったね」
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