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十二刻のクロノス ~時間魔法から始まる時々~  作者: 鏡花
第二章「消えぬ影」

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第35話「一秒」

月明かりの中庭を、寝間着の背中が、遠ざかっていく。


一定の歩幅。揺れない肩。夜露(よつゆ)に濡れた芝を裸足で踏みながら、その足取りには、冷たさに(すく)む気配すらなかった。生きて動いているのに、生きている感じが、どこにもない。俺の中の刻は、さっきからずっと、あの背中の「空洞」に、怖気(おぞけ)立っている。


消えたはずの、先輩。


七日前に消えて、荷物も財布も置き去りにした人が、いま、目の前を歩いている。塔屋へ、向かって。


「……追いましょう」


言葉が、口から出ていた。考えるより、先に。


「駄目です」


ガイアの声が、鋭く俺を制した。窓枠を掴んだ手は、まだ白いままだったが、その声だけは、いつもの静けさを取り戻そうと、必死に藻掻(もが)いていた。


「近づいた者から、消える。言ったはずです。あれを追うことは、消えに行くことと同じ――」


「なら、あの人を、このまま見送るんですか」


俺の半歩前で、ユキが、言った。


「消えたはずの人が、目の前を歩いてるんです。今、手を伸ばせる場所を。……見送って、明日から、何もなかった顔で暮らすんですか」


静かな声だった。責める調子は、どこにもなかった。ただ、まっすぐで、それゆえに、逃げ場がなかった。十年、見送られる側だった少女の言葉は、見送る側の痛みを、誰よりも知っていた。


ガイアが、言葉に詰まった。


数を数え、順番を踏み、一歩手前で必ず足を止める。それがこの生徒の、生き延びてきた流儀だ。正しいのだと思う。だが――


「……線を、教えてください」


俺は、言った。


「線?」


「ガイアさんは、ずっと観察してきたんでしょう。どこまで近づいた人が消えて、どこまでなら、戻れたのか。……その線を、教えてください。線の手前で、あの人を止める」


行くな、と、頭の隅で声がする。サナの顔が、ヴォルフの顔が、過ぎる。約束した。夜の学院を、独りで歩くなと。深追いはするなと。……けど、俺は独りじゃない。そして、これは深追いじゃない。目の前で人が消えようとしていて、それを止めるのに、理由が要るのか。


要らない。要るのは、無謀と行動を分ける、線だけだ。


ガイアの目が、大きく見開かれた。それから、二秒。きっかり二秒だけ黙って、彼は、早口で言った。


「塔屋の影です。月光で地面に落ちる、塔の影。……あの中に入った者は、戻らなかった。影の外までなら、戻った者もいる。今の月なら、影は建物の際から十歩分。扉までは、まだ距離がある」


「十分だ。――行こう」


「お願いします、ガイアさんは、ここで見ていてください。……誰かが線の外で見ていてくれるのが、一番の命綱です」


ユキが、頭巾を、脱ぎ捨てた。月光に、白い髪が、ほどけて光った。夜目の利かない場所で互いを見失わないためには、その方がいい。一瞬の判断で、彼女は、隠すことより、届くことを選んだ。


鐘楼の扉を、押し開けた。


夜気が、頬を刺した。月明かりの中庭を、俺とユキは走った。足音を殺す余裕は、もうなかった。先輩の背中は、塔屋の入り口まで、あと三十歩。俺たちからは、五十歩。


見回りに見つかれば、それまでだ。だが、この距離で氷を使えば、あの体ごと傷つけかねない。刻は――使えば、俺が潰れる。加速の後の、あの鉛の重さ。停止の、立てなくなるほどの反動。追いついても、そこで俺が動けなくなったら、誰があの人を影の外まで引き戻す。……頼れない。今の俺の刻は、走りながら使える力じゃない。走って、追いついて、この手で引き戻す。それしか、ない。


届く。届くはずだ。


「――駄目だ! 戻れ!」


背後から、押し殺した叫び。振り向くと、ガイアが、鐘楼の戸口から一歩だけ外へ出て、拳を握りしめていた。追っては来ない。来られない。それでも、声だけは、線を越えて飛んできた。


先輩の足は、止まらなかった。


呼びかけは、届いていない。あの空っぽの歩みは、月夜の散歩でも、夢遊でもない。もっと嫌なものだ。体だけが、呼ばれている。


「サヌス、私が先に!」


ユキが、走りながら、両手を前に組んだ。指の間に、あの白い光がともる。封じの力。彼女は、俺に見えない「何か」を視ていた。


「あの人、糸が……体に、呼ばれてる糸が見えます! あれを、封じます!」


「頼む!」


聞きながら、俺は内心で舌を巻いていた。走りながら、標的の「見えない糸」を捉えて、封じの狙いを絞る。里で長老に力の使い方を学んでからの彼女は、日を追うごとに、力の輪郭を鮮明にしている。俺が氷を「見せない」修業をしている間に、彼女は、視えないものを「視る」力を磨いていた。


白い光が、放たれた。


矢のような光は、先輩の背中に、音もなく触れて――広がった。淡い光の輪が、一瞬、先輩の体を包む。


先輩の足が、初めて、(もつ)れた。


歩みが、止まる。機械のようだった体が、糸の切れた人形のように、がくりと傾いで――


「今だ!」


俺は、地を蹴った。十歩。五歩。届く。伸ばした手が、先輩の寝間着の袖を、掴んだ。


布の感触。夜気に冷えた、その冷たさまで、指は確かに覚えている。引き寄せて、肩を抱えて、影の外まで引きずってでも――


掴んだ、はずだった。


――かち。


世界が、一拍、飛んだ。


音で聞いたのか、体で感じたのか、わからない。ただ、秒針が一つ進むような、その「かち」の感覚の後――俺の手の中は、空だった。


先輩は、三歩先にいた。


掴んだ感触ごと、時間が、抜き取られていた。俺の指は、まだ布の冷たさを覚えているのに、その一拍は、世界のどこにも、もう存在していない。これが、ガイアの言う「秒針が飛ぶ」の、正体か。すれ違いざまの小さな乱れなんかじゃない。奪う側が本気を出せば、時間は、こんなふうに――丸ごと、盗まれる。


ユキの封じの輪も、砕けた光の欠片(かけら)になって、夜気に溶けていく。糸は、切れていなかった。俺たちの力より、もっと深いところから、あの体は呼ばれている。


「そんな……っ」


ユキが、もう一度、両手を組む。だが、遅かった。


先輩の体は、何事もなかったように歩みを再開し――塔屋の扉の前に、立った。


誰も、触れていないのに。


扉は、内側から、音もなく開いた。


その先の暗がりを、俺は見た。見てしまった。灯りの色も、階段も、何もない。ただの闇よりもっと深い、(うろ)のような暗がりが、口を開けていた。中に何かが「ある」のではない。中に、何も「ない」。時間ごと、くり抜かれたような、あの空洞の気配――先輩の背中から漂っていたものの、これが、源だ。


先輩の背中が、その中へ、吸い込まれていく。


最後の一瞬、その首が、ゆっくりと、こちらを向いた気がした。月明かりの届かない顔の中で、唇だけが、微かに動いた気がした。何を言ったのかは、わからない。聞こえなかったことに、俺はたぶん、救われている。


「――待て!」


追おうとした俺の腕を、横から、細い手が掴んだ。ユキだった。彼女は、首を横に振った。その視線の先――月光の落とす塔の影が、俺のつま先の、すぐ前にあった。


線だ。


あと半歩で、俺は、影を踏んでいた。


扉は、開いたときと同じように、音もなく、閉じた。


夜の中庭に、静寂が戻った。何も、起こらなかったかのように。月は同じ場所で光り、風は同じように(こずえ)を揺らし、世界は、一人の少年が闇に呑まれたことなんて、気にも留めていなかった。


隣の窓の、あの橙の灯りだけが――心なしか、さっきより、明るくなった気がした。


錯覚かもしれない。錯覚で、あってほしかった。灯りが「食事」を終えて満ちたのだ、なんて想像は、したくもなかった。


「……くそ……っ」


膝から、力が抜けた。影の際に、俺は、崩れるように座り込んだ。


届いた。届いていたのに。この手は、確かに、あの袖を掴んだのに。


背後で、足音がした。振り返ると、ガイアが、線のすぐ手前まで来て、立ち尽くしていた。閉じた扉を見つめるその顔は、月の下でも、血の気が引いているのがわかった。


「……また、だ」


「……ガイアさん?」


「また、間に合わなかった。目の前で。……今度は、目の前で、見ていたのに」


声が、震えていた。数を数え、線を引き、一歩手前で止まり続けてきた少年の、その線の内側に溜め込まれてきたものが、初めて、縁から零れていた。


「私は、いつもこうだ。数えて、測って、線を引いて。……線の手前で、見ているだけだ。あなたがたは、初めて会った夜に、もう走っていたのに。私は、二年かけて、まだ一度も――」


「ガイアさん」


俺は、立ち上がった。膝の震えは、まだ残っていた。構わず、立った。


「……ガイアさん。あなたの線のおかげで、俺たちは、まだここにいます」


「慰めは――」


「慰めじゃない。事実です」


俺は、閉じた扉を、指した。


「線がなかったら、俺は今頃、あの扉の向こうだ。あなたが観察してきた線が、今夜、二人の命を守った。……それと、もう一つ。今夜、わかったことがある」


「……わかった、こと?」


「呼ばれてる糸は、封じで、一瞬だけど確かに止まった。あの足は、縺れた。……つまり、あれは、止められる。今夜は力が足りなかっただけだ。届かなかったんじゃない。まだ、届いてないだけだ」


隣で、ユキが、頷いた。悔しさを噛んだ顔のまま、まっすぐに。


「……次は、止めます。必ず」


ガイアは、俺とユキの顔を、順に見た。長い、長い沈黙のあとで、彼は、詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。


「……数える者は、私一人だと、思っていました」


「え?」


「なんでもありません。……独り言です」


そう言って、彼は、いつもの静けさを、顔に戻した。ただ、その静けさは、これまでの、壁のようなそれとは、少しだけ違って見えた。


「……戻りましょう。見回りの二周目が来る前に。それから、サヌスさん、キオネさん」


ガイアは、俺たちに向き直って、深く、頭を下げた。


「今夜のこと、そして、これからのこと。……力を、貸してください。一人で数えるのは、もう、やめにします」


線の内側で二年、独りで積み上げてきた観察者の、それが、精一杯の握手の代わりなのだと、わかった。


「ああ。……こっちこそ」


「はい。三人なら、視える糸も、数えられる秒も、増えます」


三日後の夜、また鐘楼で。それだけを約束して、俺たちは、来た道を戻り始めた。サナへの報告の言伝は、夜が明けたら一番に出す。伝えることが、山のようにできてしまった。


――そのとき、だった。


かち。


胸元で、小さな音がした。


足が、止まった。ユキとガイアが、数歩先で振り返る。


俺は、凍りついていた。この音を、俺は知っている。四十年、狂わずに時を刻み続けた、あの規則正しい鼓動。旅の間、毎晩、俺たちの枕元にあった音。そして、あの灯りの夜から、止まっているはずの――


「サヌス? どうし――」


言いかけたユキの声が、俺の顔を見て、止まった。


震える指で、紐を手繰(たぐ)り、懐中時計を月明かりに(かざ)した。


短針は、四。長針は、十一。四時五十五分。それは、変わっていない。


だが、秒針が。


止まっていたはずの秒針が――一目盛りだけ、進んでいた。


そして、また、止まっていた。まるで、何かを一つ、数え終えたかのように。


扉が閉じた、あの瞬間。この時計は、確かに、一秒だけ動いた。


「……サヌス」


いつの間にか、線の内側まで来ていたガイアが、俺の手元を、覗き込んでいた。月光の下、針のない徽章を襟元に光らせた少年は、止まった時計の文字盤を、長いこと、見つめて――それから、掠れた声で、言った。


「……その時計。何かを、数えています」


「……数えてる?」


「私には、わかります。数える者同士、ですから」


ガイアは、闇に閉じた塔屋の扉を、振り返った。


「一人、呑まれて。一秒、進んだ。……もし、この読みが正しいなら」


そこで一度、言葉を切って、彼は、俺の目を見た。


「サヌスさん。この時計の針が『五時』に届いたとき、何が起きるんでしょうか」


四時五十五分から、五時まで。


残りは、五分。――三百秒。


いや、違う。針は、今夜、もう一つ進んだ。

残りは――二百九十九

二百九十九人、ということなのか。それとも、まったく別の何かなのか。


答えられる者は、いなかった。ユキが、俺の袖を、そっと握った。その手の微かな震えだけが、この夜が現実であることを、教えてくれていた。


月明かりの下で、俺たちは三人、止まった時計を、ただ見つめていた。


ここまで読んでくださりありがとうございます!

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― 新着の感想 ―
助けたいのに届かないというもどかしさが強く伝わり、最後まで緊張感の途切れない一話でした。サヌス、ユキ、ガイアの三人が、それぞれの力を持ち寄って一つの目的に向かう姿も印象的でした。
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