第34話「歓迎の集い」
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夜の学院は、昼とは別の生き物だった。
月明かりに沈んだ校舎の影。風が渡るたびに、梢がざわめき、心臓が跳ねる。俺は、ミオの足運びを思い出しながら、建物の影から影へと、音を立てずに渡っていった。
寮を出るところが、一番の関門だった。玄関は論外。一階の食堂の窓は、閂が緩いのを、昼のうちに確かめてある。窓枠に足をかけ、体を細くして、外へ。着地は、爪先から。膝で、音を殺す。……よし。
見回りの灯りが、渡り廊下の向こうを横切っていくのを、壁に張りついてやり過ごした。灯りの巡る道筋と刻限は、十日余りの監視で、頭に入っている。九割の日常の陰で積んだものは、記録だけじゃなかった。
東の生け垣の陰に、白い影が、先に着いていた。
「……お待たせ」
「いえ。今、来たところです」
ユキは、上着の頭巾を目深に被っていた。月の下では、あの白い髪は、篝火のように目立ってしまう。
「見回りは?」
「二度、やり過ごしました。……行きましょう。鐘が鳴ってから、もう四半刻です」
生け垣伝いに、中庭の北側へ。目指す旧鐘楼は、禁書区画の塔屋の隣に、寄り添うように建っていた。塔屋よりも背が低く、もっと古い。蔦が石壁を覆い、鐘を吊っていたはずの最上部は、空っぽの窓が、四方に開いているだけだった。
その、地上の入り口の扉が――細く、開いていた。
隙間から、蝋燭らしき、小さな灯りが漏れている。
ユキと、目を合わせた。頷き合う。俺が先、ユキが半歩後ろ。何かあれば、彼女の封じで足止めして、二人で走る。段取りは、決めてきた通りに。
扉を、押した。
蝶番は、音を立てなかった。油が、差されている。この「使われていない」はずの建物の扉に、ごく最近、誰かの手が入っている。
鐘楼の中は、狭い円形の空間だった。中央に、古びた木の卓が一つ。その上で、燭台の蝋燭が一本、静かに燃えていた。
敷居をまたいだ瞬間、ユキの足が、一瞬、止まった。
「……どうした」
「……いえ。あとで、話します」
小声のやり取りは、それで終わった。だが、頭巾の奥の彼女の目が、部屋の壁を、床を、天井の暗がりを、素早く撫でるように確かめていくのが、わかった。何かを、感じている。彼女にしか、感じられない何かを。
そして、その灯りの向こうに。
「――ようこそ。お二人とも」
一分の隙もない制服姿で、その生徒は、立っていた。
「歓迎の集いへ。……と言っても、部員は、私一人ですが」
ガイアだった。
蝋燭一本の灯りの中でも、その佇まいは、図書室の貸出台の向こうと、何も変わらなかった。夜中の、使われていない鐘楼。密会めいた状況。なのにこの生徒だけが、まるで日常の続きのような顔で、そこに立っている。
「……ガイアさん」
「驚かないのですね」
「半分は、そうかもって思ってた。……もう半分は、来てみないとわからなかった」
「正直だ。あなたのそういうところは、美点だと思います」
ガイアは、卓の向こうから動かず、両手を軽く広げてみせた。武器はない、という仕草。だが、この生徒に限って、そんな仕草に意味がないことは、俺が一番よく知っていた。足音もなく現れる人間の「丸腰」を、誰が信じられる。
「……最初に、聞かせてください」
俺の半歩後ろから、ユキが、静かに口を開いた。
「カードを書類に入れたのも、部屋に置いたのも、ガイアさんですか」
「はい。両方、私です」
あっさりと、認めた。
「鍵のかかった部屋に、どうやって」
「それは、今夜は勘弁してください。……代わりに、もっと大事なことからお話しします。時間が、あまりないので」
ガイアは、燭台の灯りを、指先で少しだけ、こちらへ押し出した。
「まず、一つ。あなたがたが食堂で聞いた話――消えた生徒が、技術研究会のカードを受け取っていた、という話。あれは、本当です」
心臓が、冷えた。
「じゃあ……ガイアさんが、先輩にも?」
「いいえ」
短い否定に、初めて、感情の色が滲んだ。
「彼に届いたカードと、あなたがたに届いたカードは、別物です。……ここが、今夜、一番伝えたいことです。よく、聞いてください」
蝋燭の炎が、揺れた。
「本物の『技術研究会』からのカードは――堂々と、届きます。誰の目にも触れる形で。受け取った本人が、自慢したくなるような、誇らしい形で。そして、受け取った者は、夜に呼ばれて、消える」
「……先輩のカードが、それ」
「はい。私は、間に合わなかった」
拳が、卓の上で、白くなった。この生徒の、こんな手を、初めて見た。
「私のカードは、その逆です。誰にも見られない形で、こっそりと届く。……堂々と届いたカードを、受け取ってはいけない。それを伝えるために、まず、あなたがたに『こっそり届くカード』の存在を、知ってもらう必要があった」
隣で、ユキが、小さく息を呑んだ。
渡し方の違い。彼女が引っかかっていた、あの違和感。答えは、これだった。堂々と=本物の、死の招待。こっそりと=それを知る誰かからの、警告。
「……回りくどい。最初から、口で言えばよかったんじゃ」
「言って、信じましたか? 出会って十日の、薄気味悪い図書委員の言葉を」
「……」
「信じないでしょう。あなたがたは、慎重だ。だから、順番が必要でした。カードの存在を知り、警戒し、消えた先輩の話を聞き、渡し方の違いに気づく。……そこまで自力で辿り着いた人にだけ、この場所の扉は、意味を持つ」
試されていたのだ。ずっと。この、集いの夜に至るまでの全部が。
腹の底で、小さな火が点いた。人の十日を、盤上の駒みたいに。だが、その火は、燃え広がる前に、自分で消した。……順番を踏まなければ信じなかった、というのは、悔しいが、事実だ。現に俺たちは、カードを警戒し、疑い、それでも自分の足でここへ来た。この扉を開けたのは、ガイアじゃない。俺たちだ。
「怒って、いいんですよ」
「……怒ってます。三割くらい」
「三割。……ふふ。正直だ」
初めて、ガイアが笑った。笑うと、年相応の顔になるのだと、初めて知った。
「……ついでに、もう一つ。その襟の徽章は、なんですか。本物の会の印を、なんであんたが着けてる」
「餌です」
ガイアは、襟元の、針のない時計盤に、指を添えた。
「向こうの目印を、こちらが着けて歩く。そうすれば、向こう側の人間は、私を同類だと見て、放っておいてくれる。……釣り針は、魚のいる水に、垂らしておくものです」
「……趣味が悪い」
「褒め言葉として、受け取っておきます」
「なら、次の質問です」
ユキの声は、揺れていなかった。
「なぜ、私たちなんですか」
「……いい質問だ」
ガイアは、少しだけ、目を伏せた。それから、自分の襟元の徽章に、指で触れた。
「私は、子供の頃から、秒を数えて生きてきました。理由は、聞かないでください。ただ、私の数える秒は、狂わない。……狂わないはず、なんです」
伏せていた目が、上がった。まっすぐに、俺を見た。
「なのに、サヌスさん。あなたとすれ違うと、秒針が、飛ぶ。一つ。ときどき、二つ。……この学院で、あなたの周りでだけ、時間が、ほんの僅かに、乱れている」
「……気のせい、ってことは」
「三十七回」
「……え?」
「施設案内の日から今日まで、あなたとすれ違った回数です。そのうち、秒針が飛んだのは、三十一回。……気のせいで済む数字では、ありません」
数えていたのか。全部。ぞっとするのと同時に、この生徒の言う「調べる」の意味が、少しわかった気がした。この几帳面さで、研究会を、消えた生徒たちを、ずっと数え続けてきたのだ。
「……それが、なんだって言うんですか」
「『技術研究会』が探しているものと、同じ匂いがする、ということです」
蝋燭の炎の向こうで、ガイアの声は、どこまでも静かだった。
「彼らが生徒を選んで消す基準を、私はずっと調べてきました。まだ、全部はわからない。ただ、一つだけ確かなのは――彼らは、『時間に触れた人間』を、探している」
時間に、触れた人間。
背中を、冷たい汗が伝った。落ち着け。顔に出すな。俺は、ただの、氷の適性・中位の田舎者だ。
「……時間に触れた人間、なんて。そんな御伽噺みたいな話が」
「御伽噺なら、どれだけよかったか」
ガイアは、窓の外へ、ちらりと目をやった。隣の塔屋の、黒い影へ。
「隣の禁書区画に、三日おきに灯りがともっていることには、気づいていますか」
――気づいている、どころではない。だが、俺は「え?」と、初めて聞く顔を作った。作れた、と思う。
「誰も入れないはずの場所です。鍵は、時の管理局しか持っていない。……なのに、灯りは、ともる。決まった周期で。私は、あの灯りと、消える生徒たちは、繋がっていると考えています。ただ、まだ、証拠がない」
「……調べに、行かないんですか。すぐそこなのに」
「行きません。あなたがたも、絶対に行ってはいけない」
即答だった。
「近づいた者から、消えるからです。……私が今、こうして生きて調べていられるのは、踏み込む一歩手前で、必ず足を止めてきたからだ」
「……俺は、ただの」
「ええ。あなたが何者かは、聞きません。今夜は、まだ」
ヴォルフと、同じことを言った。名前は聞かない。正体は聞かない。この王都で俺たちに手を貸す人間は、どうして皆、同じ流儀なのだろう。
「私の話は、以上です。信じるかどうかは、お任せします。ただ――もし今後、堂々と届くカードを受け取ったら、絶対に、夜の誘いに乗らないでください。それだけは、約束を」
「……わかりました。約束します」
隣で、ユキも頷いた。信じ切ったわけじゃない。だが、この警告を無視する理由も、なかった。
「……一つだけ、聞かせてください」
俺は、ずっと喉の奥にあった問いを、口にした。
「ガイアさんは、なんで、こんな危ない橋を渡ってるんですか。研究会に潜って、調べて。……あなたの目的は、なんですか」
ガイアは、しばらく、黙っていた。
蝋燭の芯が、じじ、と小さく鳴いた。
「……私には」
答えは、囁くほどの声だった。
「探している人が、いるんです」
それ以上は、言わなかった。俺も、聞けなかった。その一言に籠もった温度が、これまでのどの言葉よりも、生身だったから。
短い沈黙を、ユキが、静かに破った。
「……私からも、一つだけ。この鐘楼のこと、聞いてもいいですか」
「鐘楼の?」
「ここ……昔、何に使われていた場所か、ご存じですか。鐘を吊る場所に、しては」
ユキは、言葉を選ぶように、一拍おいた。
「……壁の造りが、厳重すぎる気がして」
「……よく、気づきましたね」
ガイアの目が、僅かに、細くなった。
「古い記録では、ここは『音を封じる部屋』だったそうです。建学より、さらに前。何の音を、なぜ封じていたのかは、記録が残っていない。……鐘楼というのは、後からついた呼び名です」
音を、封じる部屋。
ユキの横顔を、盗み見た。彼女が敷居で足を止めた理由。あとで聞くまでもなく、たぶん、これだ。この建物には、封じの気配の残り香がある。彼女の血が、それを嗅ぎ取った。
――そのときだった。
「……サヌス」
ユキが、俺の袖を、強く引いた。窓を、指している。
鐘楼の細い窓の向こう。隣の塔屋の、上から二番目の窓に――橙の灯りが、ともっていた。
三日おきの、灯り。……今夜は、早い。
「……始まりましたね。いつもより、ずっと早い。……あれが何なのかも、いずれ話します。今夜は、もう戻った方が――」
言いかけたガイアの言葉が、止まった。
彼の目線は、窓の、もっと手前――月明かりの中庭に、落ちていた。
人影が、一つ。
歩いている。ゆっくりと、まっすぐに、塔屋の方へ。寝間着のままの、生徒らしき影が。その歩き方は、夜の散歩なんかじゃなかった。糸で引かれる人形のように、一定で、迷いがなく、どこか――空っぽだった。
俺の胸の奥で、十二の刻が、ざわりと、蠢いた。あの人影から、糸を引くように漂ってくるのは――中身のない、空洞の気配だった。
「おい、あれ……こんな時間に、誰か」
ガイアが、窓枠を、掴んだ。
蝋燭の灯りに照らされたその横顔から、いつもの静けさが、初めて、剥がれかけていた。数を数え、順番を踏み、一歩手前で必ず足を止めてきた生徒の顔が――ただの、十三かそこらの少年の顔に、戻っていた。
「……あれは」
「ガイアさん?」
「あれは……消えたはずの、彼だ」
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