第32話「針の読み方」
夜が明けても、懐中時計は、止まったままだった。
短針は四。長針は十一。文字盤の上で、時間は昨夜のまま、凍りついている。窓の外では、何事もなかったかのように朝日が昇り、寮のあちこちから、寝ぼけた生徒たちの物音が聞こえ始めていた。
――裏蓋を、開けるか。
朝の光の中で、俺はもう一度、その誘惑と向き合った。
もし、どうにもならんくなったら、裏蓋を開けてみるといい。じいさんは、そう言った。四十年止まらなかった形見が止まった。これは「どうにもならない」に、入るんじゃないのか。
指が、裏蓋の縁に、かかる。
……いや。
深呼吸を一つして、指を離した。
駄目だ。まだ、俺一人の判断で開けていいものじゃない。この時計は、俺たち三人の切り札だ。三日後は、面会日。サナとユキと、三人で決める。それまでに、俺がやるべきことは、開けることじゃなくて――観察と、記録だ。
それに、と思う。じいさんの言った「どうにもならんくなったら」というのは、たぶん、時計の話じゃない。俺たち自身が、行き詰まったときの話だ。時計が止まっただけで、俺はまだ、行き詰まってなんかいない。手は、ある。目も、耳もある。仲間も、いる。
時計を紐ごとシャツの下に戻し、俺は制服に袖を通した。止まっていても、胸の上のその重みは、不思議と、心強いままだった。
九割の日常は、続いていた。
魔法史の授業は建国期から王国の成立へと進み、実技は「構えと後始末」から、ようやく初歩の的当てへ。ロイは相変わらず毎朝どこからか俺を見つけ出し、昼飯のたびに、話題が三回は逸れた。
「なあサヌス、次の休みの日、町に出ねえ? 東市場にすっげえ焼き菓子の屋台があるって、寮の先輩が」
「……ああ、あそこな。うまいぞ。三番目の屋台はやめとけ、餡が少ない」
「詳しっ!? あんた入学したばっかだろ!?」
「た、たまたま、姉さんと行っただけだ」
「へえー? 姉弟仲いいねえ、ほんと」
危ない危ない。ミオ直伝の屋台情報は、新入生が持つには詳しすぎる。九割の日常の中にも、落とし穴は口を開けている。俺は、パンの残りを口に詰め込んで、話題が次に逸れるのを待った。幸い、ロイの話題は十秒で購買の新作に移った。こういうとき、こいつの気の逸れやすさは、心底ありがたい。
放課後には、一度だけ、図書室に寄った。
「――ああ、サヌスさん。いらっしゃい」
貸出台の向こうで、ガイアが、静かに顔を上げた。あの日と同じ、丁寧な物腰。あの日と同じ、奥の読めない目。
「本、まだ借りたままで。期限とか、あるのかなと思って」
「新入生の間は、ゆっくりで結構ですよ。……どこまで、読み進みました?」
「三章の、途中まで」
「三章」
ガイアは、少しだけ、目を細めた。
「属性の分類表のところですね。あそこは、一年の期末に、必ず出ます。……覚えておいて、損はありません」
「……どうも。ちなみに、ガイアさんも、一年のときに、それで?」
「ええ。おかげで、満点でした」
さらりと言って、ガイアは手元の返却本の山に、視線を戻した。会話は、そこで自然に終わった。秒針の話も、時計の話も、どちらからも出なかった。ただの図書委員と、ただの新入生。その形を、互いに崩さないまま、俺は図書室を後にした。
扉を出る間際、一度だけ振り返った。ガイアは、もうこちらを見ていなかった。ただ、本の背を、細い指が、規則正しい間隔で、とん、とん、と叩いていた。まるで――秒を、数えるように。
親切なのだ、この生徒は。一貫して、薄気味悪いほどに。
夜の監視も、続けていた。
第四日の夜。塔屋は、暗いままだった。
第五日の夜も、暗いまま。
第六日の夜――灯りが、ともった。三日前と同じ、上から二番目の窓。消灯からおよそ一刻半の後に現れ、半刻ほど揺れて、消えた。
寝台の下に隠した帳面に、俺は日付と刻限を書きつけた。まだ、たった二回の記録だ。だが、二回でも、わかることはある。灯りは、毎晩ではない。そして――俺の懐中時計は、最初の灯りの夜に止まったきり、二度目の夜には、何も起きなかった。
あの停止は、毎晩の現象じゃない。一度きりの、何かだった。
灯りと、停止。二つは同じ夜に起きたが、繋がっているのか、たまたま重なっただけなのか、それすらまだわからない。わからないことを、わからないまま、正確に書き留めておく。答えを急いで、記録を推測で汚さないこと。それが、氷の観察で村の冬を読んできた俺の、唯一の流儀だった。
そして、七日目。待ちに待った、面会日が来た。
面会といっても、学院に届けてあるのは「遠縁の保護者への里帰り」だ。休日の午前、正門で外出簿に記帳し、俺とユキは、七日ぶりに、揃って町へ出た。
「なんだか、変な感じですね。学院の外を歩くのが、久しぶりみたいで」
「七日しか経ってないのにな」
「濃い七日でしたから」
たわいのない話をしながら、あの商人宿への道を辿る。途中、東市場の焼き菓子の屋台で、土産を三つ買った。一番の店のやつだ。
「――はい、ようこそ。姉弟の里帰りだね」
商人宿の二階、懐かしいあの部屋で、サナが茶を淹れて迎えてくれた。たった七日ぶりなのに、この人の顔を見ると、肩の力が抜ける。ユキも、同じ顔をしていた。
「さ、報告会といこうか。……順番に、全部お聞かせ」
俺は、話した。二つ目の秒針の音。ロイから聞いた角部屋の噂。三日目の夜の灯りと、その瞬間に止まった懐中時計。六日目の二度目の灯り。ユキが、西棟側の平穏と、教室で拾った噂話の類を付け足した。
「教室で気になったのは、二つです。一つは、二年生の間で『技術研究会には近づくな』という言い伝えみたいなものがあること。理由を聞いても、皆『なんとなく』としか。……もう一つは、その割に、研究会の部室がどこにあるのか、誰も知らないことです」
「部室の場所が、わからない?」
「はい。部員の名簿も、活動の掲示も、見た人がいないんです。存在だけが知られていて、実体を誰も知らない。……同好会というより、噂みたいな会でした」
七日間で、ユキはユキで、しっかりと耳を働かせていたらしい。女子寮と教室の情報網は、俺には入れない場所だ。二手に分かれていることが、弱点ではなく強みになり始めていた。
聞き終えたサナは、しばらく、湯呑みの中を見つめていた。
「……まず、預かり物から片づけようか」
俺は頷いて、上着の裏の縫い目を解き、畳んだ石板の写しを取り出した。サナはそれを検めもせず、部屋の床板の下へと仕舞い込んだ。在り処を知るのは、これで三人だけだ。
「よし。……で、本題だ。あんたの時計の話」
サナは、卓の上に、指で円を描いた。
「四時五十五分。店の時計も、あんたの時計も、同じ時刻で止まった。……あたしはね、七日間ずっと、この数字の意味を考えてた」
「四の刻と、十一の刻……ってのが、俺の最初の読みだけど」
「うん。それも捨てちゃいない。けど、もう一つ、単純な読み方があるだろ」
サナは、円の中に、二本の線を引いた。短い線と、長い線。
「時計屋の言伝は、針で読むんだよ。――四時五十五分。時刻の、指定さ」
「時刻の指定……いや、待ってくれ。それなら、誰にでも読めるだろ。衛兵にも、塔の連中にも」
「読めるさ。読めるけど――気づかない。止まった時計なんてのは、世間じゃ、ぜんまいの切れたガラクタでしかないからね。あれが言伝だと気づけるのは、あのじいさんが四十年、店の時計を一秒たりとも止めなかったのを知ってる人間だけだ」
「……!」
「その上で、あんたの胸の時計まで、同じ時刻で止まった。……宛名の代わりさ。時計師の言伝としちゃ、上出来だろ」
隣で、ユキが、はっと息を呑んだ。
「じゃあ……『四時五十五分に、会いに来い』……?」
「か、『四時五十五分に、何かが起きる』。……どっちにしろ、確かめる方法は一つだね」
「待ってくれ。それだと、一つ、引っかかる」
俺は、頭の中を整理しながら、口を挟んだ。
「店の時計は、俺たちが王都に着く前から止まってた。じいさんは、俺たちが戻ってくることを、知ってたことになる。……それに、宛名って簡単に言うけど、俺の懐中時計は、じいさんの手の届かない、俺の胸元にあったんだ。どうやって、止めた?」
「……そこなんだよねえ」
サナは、腕を組んだ。
「離れた場所の時計を、狙って止める。そんな芸当が、ただの時計師にできるのか。……できるとしたら、じいさんは『ただの』時計師じゃないってことになる。四十年、時の管理局の公認でいられた理由も、ひっくるめてね」
レムじいさん。優しい、皺だらけの顔が浮かぶ。あの人は、何者なんだ。俺たちは、あの人の何を知っていたんだろう。
「ま、考えても答えは出ない。答えを持ってるのは、四時五十五分そのものさ」
朝の、四時五十五分。あるいは、夕の。
その刻限に、何が起きるのか。どこで起きるのか。見張るべき場所の筆頭は――止まった時計たちが眠る、あの店だ。
「店の見張りは、あたしがやる。あんたたちは学院から出られないからね。……それにさ。読めるってことは、向こうも読めてるかもしれない。四時五十五分が罠って線も、捨てちゃいない。なら、なおさら子供の出る幕じゃないよ。夜明け前の四時五十五分と、夕方の四時五十五分。数日、張ってみるよ」
「……頼む。それで、裏蓋の方は」
「開けるのは、それからでも遅くない」
サナは、きっぱりと言った。
「四時五十五分に何が起きるかわかれば、裏蓋の中身の意味も、変わってくるかもしれない。切り札ってのは、意味がわかってから切るもんだ。……じいさんも、そのつもりで『どうにもならんくなったら』なんて、回りくどい言い方をしたんだろうさ」
反論は、なかった。七日間、一人で悶々と抱えていた問いに、順番と、形が与えられていく。三人で考えるというのは、こういうことだった。
「じゃ、決まりだ。あんたたちは学院で九割の日常と、夜の監視の継続。あたしは店の張り込み。次の面会日に、答え合わせといこう」
話がまとまり、ユキが淹れ直しの茶を注ぎ、しばし、ただの近況話に花が咲いた。
「――で、その実技の教官に、構えを手本にされたって? あっはっは! 手加減の仕込みが甘かったかねえ」
「笑い事じゃないんだよ……。体に染みたもんは、細部から出るんだ、って身に染みた」
「いいことじゃないか。あんたの『本物』は、削っても削っても残るってことさ。……ま、精進しな」
土産の焼き菓子を頬張りながら、サナが笑い、ユキが同室の子の話をして、また笑う。ロイの噂話の逸れっぷりに、サナが「そりゃ大物だね」と声を上げた。こういう時間が、あと少しだけ、続けばいいと思った。
日暮れが近づき、俺たちは、腰を上げた。
「じゃあ、また七日後に」
「ああ。……気をつけて帰りな。門限、破るんじゃないよ」
部屋を出ようとした、そのとき。
「――ああ、待ちな。二人とも」
サナの声が、俺たちを呼び止めた。
振り返ると、さっきまで笑っていたその顔から、笑みが、消えていた。
「……最後に一つだけ、嫌な報せがある。言うか迷ったけど、知らない方が危ない類いの話だ」
「……なんですか」
「行方不明の件さ。六人目が、出た」
部屋の空気が、変わった。
「昨日の朝から、行方が知れない。夜のうちに、寮を抜け出したきりだそうだ。……で、ここからが本題だよ」
サナは、俺とユキの顔を、順に見た。
「六人目はね――学院の、二年の生徒だ」
学院の、生徒。
指先が、冷えた。隣で、ユキが、息を呑むのがわかった。
町のどこか遠くで起きていた「消失」が、壁を越えて、俺たちの日常の内側に、入ってきた。あの賑やかな食堂の、あの静かな図書室の、同じ敷地の中から――人が一人、消えた。
「学院側は、まだ公にしてない。『家庭の事情で帰省』ってことにしてあるらしい。……行商仲間の口伝てだから、確かな筋だ。じきに、あんたたちの耳にも、別の形で入るだろうさ」
「その生徒は……どんな」
「二年の、男子生徒。それ以上は、まだわからない。わかったら次の面会日に伝える。……いいかい、二人とも」
サナの声が、一段、低くなった。
「夜の外出は、するな。監視は窓の内側から。四時五十五分の張り込みは、あたしの仕事だ。……あんたたちは、絶対に、夜の学院を独りで歩くんじゃない」
サナの目は、これまで見たどの場面よりも、真剣だった。
「わかるね。もう、対岸の話じゃない。……あんたたちの、すぐ隣で起きてるってことさ」
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