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十二刻のクロノス ~時間魔法から始まる時々~  作者: 鏡花
第二章「消えぬ影」

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第31話「九割の日常」

翌朝、俺は誰よりも早く目を覚まし、まず、自分の荷物を全部、寝台の上に広げた。


昨夜の、あの二つ目の秒針の音。出所は、結局わからずじまいだった。空耳だった可能性も、ある。だが、空耳でなかった場合――この部屋は、誰かに「聞かれて」いるか、少なくとも、何かが出入りできる場所だということになる。


そして、じきに、この部屋には同室者が来る。編入生。どこの誰かも、まだわからない相手が。


なら、やるべきことは決まっていた。荷物の検分と、仕分けだ。同室の編入生とやらが来る前に、済ませておくに越したことはない。見られて困る物が一つでも転がっていれば、この部屋は、俺にとって寝床ではなく、罠になる。


広げた荷の中から、まず、レムじいさんの懐中時計を手に取った。


これは、肌身から離さない。丈夫な紐を通し、首から下げて、シャツの下に収めた。胸の上で、かち、かち、と規則正しい鼓動が伝わってくる。裏蓋の中身が何であれ、これだけは、誰の目にも触れさせるわけにはいかない。


次に、石板の写し。


北の遺跡で、ユキが一文字ずつ写し取った、あの紙だ。『時を()べる(ことわり)は、両輪をもって成る』。開いて、目を閉じて、一言一句を(そら)んじてみる。……大丈夫だ。全部、頭に入っている。ユキも同じはずだ。


なら、この紙そのものを、学院に置いておく理由はない。読まれたら終わりの紙は、ここに在ること自体が弱点になる。燃やしてしまえば早い。だが、これはユキが一文字ずつ写した原本だ。記憶が揺らいだ日の、照合の拠り所までは、灰にしたくない。だから、七日後の面会日に、サナに預ける。それまでは、上着の裏の縫い目に、畳んで縫い込んでおく。針と糸は、旅の必需品だ。手つきは母さん仕込みで、我ながら悪くなかった。


最後に、ミオのチョーク。


これは――筆箱の中に、堂々と入れた。


白いチョークなんて、どこからどう見ても、ただの文具だ。学生の筆箱に入っていて、これほど自然な物もない。隠せば怪しく、晒せば透明になる。隠すことと守ることは、同じじゃない。サナの受け売りだが、その通りだと思う。


肌身に持つもの。外に逃がすもの。堂々と晒すもの。


仕分けを終えると、胸の内が、少しだけ軽くなった。


「サヌス! おっはよー!」


正門前の並木道で、背中を叩かれた。振り向くまでもない。ロイだ。組が違うのに、こいつは毎朝どこからか俺を見つけ出す。


「……おはよう。相変わらず元気だな」


「そりゃもう! 憧れの学院の、記念すべき授業初日だぜ? 眠気なんか吹っ飛ぶって!」


その隣に、西棟の方から歩いてきたユキが、合流した。


「おはようございます、サヌス。ロイさんも」


「おっす、キオネさん! 姉弟そろって朝から優雅だねえ」


三人で、校舎への道を歩く。その途中、ロイが購買の呼び込みに気を取られた隙に、ユキが、すっと半歩、俺に寄った。


「……昨夜、そちらは何も?」


「あった。後で話す。そっちは」


「何も。……あ、でも、一つだけ」


ユキは、少しおかしそうに、自分の編んだ髪の先に触れた。


「同室の子に、髪のことを聞かれました。『綺麗な色』って。雪国の生まれだと答えたら、『いいなあ』って、それきりです。……あっさりしたものでした」


「……そうか」


肩の力が、一つ抜けた。あれだけ悩んだ白い髪は、少なくとも女子寮では、「珍しくて綺麗なもの」で済んでいるらしい。堂々と晒す、の方針は、今のところ正しく働いている。


「同室の子とは、うまくやれそうか」


「はい。よく笑う、明るい子です。夜、寝る前に、故郷の話をしてくれました。……私、同じ年頃の女の子と、あんなふうに話すの、初めてで」


ユキは、そこで少しだけ、言葉を探すように黙って、それから、ふわりと笑った。


「学院に来て、よかったです。目的とは、別のところで」


その笑顔に、朝の並木道の光が差して、俺は、うまい返事を見つけられなかった。代わりに、ロイが購買から戻ってきて、「二人ともパン買わねえの!?」と割り込んできたので、助かった。


初日の授業は、魔法史から始まった。


白髪交じりの、眠たげな声の教師が、建国期の魔法体系について、淡々と語っていく。教室のあちこちで、早くも船を()ぐ音がし始めた。


俺は――正直、面白かった。


属性魔法が、いつ、どうやって「五大属性」に整理されたのか。雷や光が、なぜ希少とされるのか。ガイアに借りたあの本で読んだ骨組みに、授業の中身が、かちかちと()まっていく。独学の断片だった知識が、初めて、地図の形になっていく感覚だった。


「――では、この問い。五大属性の分類が定められたのは、何王の治世か。……そこの、東部から来た君」


不意に、当てられた。


教室中の目が、こちらを向く。答えは、わかっていた。あの本で、読んだばかりだ。第三代、リュデガー王の治世。魔法院の設立と同年で――


「……えっと。三代目の、王様の頃、だったと思います。名前は、確か、リュ……リュデガー、王?」


わざと、少しだけ、つっかえた。


「うむ、正解だ。よく学んでいる」


教師は満足げに頷き、講義に戻った。教室の視線が、潮が引くように散っていく。


――合格する程度に優秀で、記憶に残らない程度に平凡。


サナの教えは、授業の中でも生きていた。すらすらと完璧に答えれば、「東部の姉弟、できるらしい」という噂が立つ。つっかえながら正解すれば、「真面目に予習してきた田舎の子」で終わる。同じ正解でも、残る印象は、まるで違う。


隣の席では、ユキが、少しだけ悔しそうな顔をしていた。当てられたかったらしい。……姉さん、そっちは学科で目立っていい枠だから、次は遠慮なくどうぞ。


続く二限は、初めての実技だった。


演習場に整列した一の組の前で、体格のいい実技教官が、開口一番、こう言った。


「いいか、新入生ども。今日は何もやらん。やるのは『構え』と『後始末』だけだ。魔法ってのはな、放つことより、放ったあとの方が百倍大事なんだ」


的に向かって撃つ気満々だった生徒たちから、露骨に落胆の息が漏れた。だが、俺は内心、この教官への評価を、一段上げていた。放ったあとの方が大事。この数ヶ月の逃避行で、骨身に染みて学んだことと、同じだった。放った氷の始末を誤れば、足跡になる。追手への道標(みちしるべ)になる。


「そこの、東部の。構えが妙に(さま)になってるな。誰かに習ったか」


「……い、いえ。村で、井戸の水を凍らせる係だったので、その、自己流で」


「ほう。いい村だ。……皆、こいつの足の幅を見ろ。教本通りより、こっちの方が実戦的だ」


しまった、と思ったときには、手本にされていた。整列した組の連中の視線が、一斉に集まる。目立たない、の(さじ)加減は、思ったより難しい。手を抜きすぎても、体に染みた「本物」は、細部から滲み出てしまうらしい。


昼は、食堂で、ロイと一緒に食った。


「なあなあ、聞いてくれよサヌス。うちの組の担任、めちゃくちゃ怖くてさあ……」


ロイの話は、よく(しゃべ)り、よく()れた。組の担任の話が、いつの間にか寮の飯の話になり、故郷の妹の話になり、購買の焼き立てパンの話で締まった。


「そういやサヌス、あんた寮どこ? おれ東棟の三階なんだけどさ」


「二階の、角部屋」


「お、近いじゃん! 今度遊びに行くわ。……あ、そうだ。角部屋っていやあ、うちの階の先輩が言ってたんだけど」


ロイは、パンをちぎりながら、声を落とすでもなく続けた。


「東棟の角部屋って、代々、なんか『音がする』って噂あるらしいぜ。夜中に、かちかち、って。……古い建物だから、(はり)が鳴るだけだろって話だけど」


パンを持つ手が、一瞬、止まりかけた。


「……へえ。怖いな、それ」


「だろ? ま、幽霊が出たら教えてくれよな! おれ、そういうの大好物!」


けらけらと笑うロイの向こうで、俺は昨夜の音を思い返していた。代々、音がする。梁が鳴るだけ――と、ロイは言う。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、あの音は、俺が来てから始まったものではない。それだけは、頭の隅に()めておく価値があった。


九割の日常、というやつを、俺は、この(にぎ)やかな昼飯の中に見た気がした。探る素振りも、疑う素振りもなく、ただの級友として笑っていられる時間。これを丁寧に積むことが、残りの一割を守る壁になる。……そして時々、その日常の方から、一割のための情報が、向こうから転がり込んでくる。


放課後、俺とユキは、中庭の隅のベンチで、教本を広げた。姉が弟の予習を見てやる――そういう絵に見える位置と距離で、俺は、昨夜の秒針の件を、声を落として話した。


聞き終えたユキは、しばらく黙って、それから、ぽつりと言った。


「……秒針、ですか」


「ああ。二つ目の音は、じいさんの時計に、歩調を合わせるみたいに、ずれては重なってた」


「サヌス。それ……あの人の言葉と、同じです」


「……あの人?」


「図書室の。――『あなたとすれ違うと、秒針が、一つ、飛ぶ』」


背中を、冷たいものが撫でた。


秒針。言われるまで、繋げて考えていなかった。ガイアの言った「飛ぶ秒針」と、俺の部屋の「あるはずのない秒針」。同じ言葉が、七日と経たずに、二度、俺の周りに現れている。


「偶然、でしょうか」


「……わからない。けど、覚えとく。『秒針』って言葉が、次にどこで出てくるか」


「はい。私も、気をつけておきます。……西棟でも、耳を澄ませてみますね」


物騒な話をしているのに、ユキの横顔は、ひどく落ち着いていた。怯えるのではなく、観察する側に立つ。この数ヶ月で、彼女が身につけた強さの形だった。中庭の向こうでは、新入生たちが、初日の解放感ではしゃいでいる。その光景と俺たちの会話の落差が、なんだか少しだけ、おかしかった。


……そして、その一割は、早くも、その夜にやって来た。


消灯後。


俺は、窓辺に椅子を寄せて、夜の学院を眺めていた。


昨夜の秒針の件があってから、決めたことがある。眠る前の半刻(はんこく)、あの古い塔屋を、この角部屋の窓から見張ること。ヴォルフの言った「夜な夜なともる灯り」を、いつか、この目で確かめるために。


初日は、何もなかった。二つ目の秒針の音も、あれきり、聞こえてこなかった。


二日目も、塔屋は、闇に沈んだままだった。代わりに知ったのは、見回りの灯りが回る刻限と、夜の学院の音の種類だった。風見の(きし)み。遠くの犬の声。西棟の方角の、消え残りの灯り。あの中のどれかが、ユキの部屋の窓なのだろうかと、(がら)にもないことを考えて、一人で咳払いをした。


――動きがあったのは、三日目の夜だった。


その夜も、塔屋は静かだった。今日も空振りかと、欠伸(あくび)を一つ()み殺して、椅子を立ちかけた、そのとき。


視界の端で、闇が、滲んだ。


目を()らす。見間違いでは、なかった。


塔屋の、上から二番目の窓。固く閉ざされているはずの、禁書区画の窓の奥に――ぽつり、と。


灯りが、ともっていた。


蝋燭(ろうそく)のような、小さく、揺れる、(だいだい)の光。誰も入れないはずの場所で、その光は、確かに、生きて動いていた。


心臓が、静かに、速くなっていく。


行くか。今から出れば、消灯後の見回りを(かわ)して、塔屋の下までは――


「……いや」


自分で自分に、首を振った。駄目だ。焦るな。今夜見つけたばかりの灯りに、丸腰で突っ込んでどうする。九割を丁寧に。糸は、泳がせて手繰(たぐ)る。まずは、記録だ。いつ、どの窓に、どれくらいの間、灯りがともるのか。それを積み重ねた先でだけ、動く価値のある夜が、見えてくる。


胸元から、懐中時計を引き出した。時刻を、記録しようとして――


指が、止まった。


月明かりの下、文字盤の上で。


短針は、四を。長針は、十一を、指していた。


四時、五十五分。


いや、違う。今は、消灯からまだ半刻も経っていない。真夜中ですら、ない。じいさんの時計が、狂うはずが――


耳に、当てた。


音が、していなかった。


四十年、一度も止まらなかったはずの鼓動が、聞こえなかった。旅の間ずっと、俺たちの夜の(かたわ)らにあった、あの音が。


窓の外では、塔屋の灯りが、まだ、静かに揺れていた。


そして、俺の手の中で、レムじいさんの懐中時計は――


あの店の、何十という仲間たちと、同じ時刻を指したまま。


止まって、いた。


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