第30話「入学の日」
「――で、どう見る。この、ご丁寧な歓迎状」
入学式の朝。宿の部屋の卓の上には、あの手書きのカードが置かれていた。
『ご入学、おめでとうございます。よい「時」を。――技術研究会』
一晩寝かせても、薄気味の悪さは、少しも減っていなかった。
「素直に読めば、新入生の勧誘だね。学院の同好会ってのは、どこも新入りの取り合いだって聞くし……合格者の名簿を見て、片っ端から誘い文を入れてる、って線もある」
「素直に読まなければ?」
「『時』にだけ、鉤括弧。……あんたたちの中身を知ってて、囁いてる」
サナは、カードを摘まみ上げ、朝の光に透かした。
「紙は上物。文字は達筆。差出人の名前はなし。……食えないね、どっちとも取れる」
「ユキは、どう思う」
「……私が気になったのは、これが『書類の底に紛れていた』ことです」
ユキは、封筒を手に取って、口を開いた。
「学院の正式な書類なら、堂々と入っているはずです。外から差し込んだなら、封を開けた跡が残るはずです。でも、どちらでもない。つまり、書類が封をされる前――学院の中の、書類を扱える誰かが、これを入れたことになります」
「……なるほどね。中にいる、ってわけだ」
サナが、口笛を吹いた。俺も、内心で舌を巻いていた。十日間の丸暗記は、知識だけじゃなく、彼女の目の付け所まで鍛えたらしい。
「ガイアの説明だと、技術研究会は時計機構の研究の集まりで、あの徽章はその会のものだ、って話でした」
「その説明ごと、まだ信用できないけどな」
俺は、カードを裏返した。白紙。何の手がかりもない。
「で、どうするんだい」
「……乗らない。騒がない。観察する」
一晩考えて、決めた答えだった。
「向こうが俺たちを知ってるなら、慌てて動けば思う壺だ。知らないなら、ただの勧誘に大騒ぎする方が目立つ。どっちにしても、こっちから動く理由はない」
「上等」
サナは、にっと笑って、カードを卓に戻した。
「一つだけ足すなら――向こうから伸びてきた糸は、切らずに泳がせな。糸ってのは、手繰れば向こうの手元に届くもんだ」
出立の刻限が、来た。
真新しい学院の制服に袖を通すのは、妙な気分だった。濃紺の上着に、白いシャツ。姿見の中の自分は、どこから見ても、ただの新入生だった。青い髪だけは、規則の範囲で許される帽子の下に、しまい込んである。
村を出た日の、継ぎだらけの旅装を思い出した。あれから、狩人の外套の下をくぐり、雪の谷を越えて、偽りの名前を着て――今日、俺は「学生」になる。人生というのは、つくづく、先が読めない。未来を視る力を持った人間が言うことでは、ないのかもしれないが。
「キオネ、支度できたかい? ……おお」
隣室から出てきたユキの姿に、サナが目を細めた。
同じ濃紺の、女子用の制服。いつもの頭巾は、もうない。白い髪はゆるく編まれて、制服と同色のリボンで結ばれていた。隠すのではなく、堂々と「雪国の生まれ」で通す。三人で決めた方針だった。
「……に、似合いますか?」
「ああ。……その、なんだ。似合ってる」
「ふふ。姉弟の会話にしちゃ、初々しすぎるね、あんたたち」
サナにからかわれて、二人して黙り込んだ。まったく、その通りだった。
宿の前で、サナと向かい合った。今日から俺たちは寮に入り、サナはこの宿を拠点に、外から俺たちを支える。離れて動くのは、白い谷を出てから、初めてのことだった。
「面会日は七日ごと。それ以外で急ぎの用があるときは、この宿の女将に言伝を。……合図は、決めた通りに」
「ああ」
「はい」
「よし。……それと、これは、あたしからの餞だ」
サナは、俺とユキの肩に、順に手を置いた。
「いいかい。学院じゃ、探ることより先に、まず『生活』しな。飯を食って、授業を受けて、友達の一人も作る。潜入ってのはね、九割が、ただの真面目な日常なのさ。……残りの一割のために、九割を丁寧にやるんだ」
「……九割の、日常」
「そ。日常ってのは、一番の隠れ蓑で、一番の嘘発見器だ。日常が下手な奴から、順番にぼろが出る。……あんたたちなら、大丈夫。。谷を出てから、ずっとあたしが仕込んだんだからね」
サナの声は、いつもの軽さのままだった。だが、俺とユキの肩に置かれた手には、言葉より雄弁な力が、籠もっていた。この人は、心配しているのだ。口には、決して出さないけれど。
「行ってきます、サナさん。……体に、気をつけて」
「あんたたちがそれを言うかい。ほら、行った行った。初日から遅刻するんじゃないよ」
ひらひらと手を振るサナに送り出されて、俺たちは、学院への道を歩き出した。角を曲がる間際に振り返ると、サナはまだ、宿の前に立って、こちらを見ていた。
入学式は、あの講堂で行われた。
新入生は、およそ百二十名。試験の日に見かけた顔も、ちらほらとあった。畑を売ってもらったという、あの少年もいる。皆、真新しい制服に、まだ体が馴染んでいない様子で、そわそわと式の始まりを待っていた。
「新入生、起立!」
号令とともに、百二十の椅子が、一斉に鳴った。壇上では、白髭の学院長が、長い長い式辞を読み上げ始めた。魔法の探究とは、真理への道であり――云々。格調高い言葉の連なりは、三分もすると、心地よい子守唄に変わった。隣の席の新入生が、早くも船を漕ぎ始めている。
俺は、式辞を聞き流しながら、視線だけで、講堂の中を検分していた。
教師陣の席。ひと癖もふた癖もありそうな顔が並んでいる。在校生代表の席。その中に、ガイアの姿は――ない。そして、来賓席。
その端に、灰色の外套が、あった。
試験の日の、あの男だった。管理局の人間が、入学式の来賓に名を連ねている。教師でも、学院の職員でもない者が、当たり前の顔をして、あの席にいる。ヴォルフの言葉が、また一つ、裏付けられた形だった。管理局の目は、この学院の、日常の中にある。
視線を、前に戻した。目を合わせては、いけない相手だ。
式の後は、組分けの発表だった。
新入生は四つの組に分けられる。掲示された名簿の前で、俺とユキは、互いの名前を探した。
「サヌス……一の組。キオネは……」
「ありました。私も、一の組です」
思わず、顔を見合わせた。同じ組。偽装の上でも、実際の上でも、これほど心強いことはなかった。離れずに済む――少なくとも、昼の間は。
「おい、あんたら、姉弟で同じ組か! いいなあ!」
名簿を覗き込んでいた新入生の一人が、気さくに声をかけてきた。試験の列で、詠唱の練習をぶつぶつ呟いていた、あの少年だった。
「おれ、四の組でさ。知り合い、誰もいねえの。……あ、おれ、ロイっての。西部の農村から出てきた。よろしくな!」
「サヌスだ。……東部から。こっちは姉のキオネ」
「よろしくお願いします」
「東部! うわ、遠っ! なあなあ、東部って、冬は軒まで雪が積もるってほんと?」
ロイと名乗った少年は、こちらの返事も待たずに、質問を五つほど続けた。人懐こいにも、ほどがある。だが、その屈託のなさは、緊張続きの一日の中で、妙にありがたかった。サナの言う「九割の日常」というやつは、案外、こういう顔をしてやって来るのかもしれない。
そう。昼の間は、だ。
「――寮の割り当てを発表する! 男子は東棟、女子は西棟! 呼ばれた者から鍵を受け取れ!」
寮監の声が、新入生たちの浮ついた空気を、現実に引き戻した。
男子寮と、女子寮。棟が、違う。
わかっていたことだった。わかっていたことだったが、いざ鍵を受け取ってみると、その小さな鉄の重みが、そのまま胸に載った。夜の間、俺たちは、別々の建物にいる。この王都に来てから――いや、出会ってから、初めてのことだった。
出会ってからずっと、俺たちは、片時も離れずに旅をしてきた。雪の夜も、追手の影に怯えた夜も、必ず、手の届く距離に互いがいた。それが当たり前になりすぎて、当たり前でなくなる日のことを、ちゃんと考えていなかった。
「サヌス」
西棟へ向かう別れ際、ユキが、小さく呼んだ。
「そんな顔、しないでください。大丈夫です」
「……顔に、出てたか」
「出てました。ふふ」
ユキは、編んだ髪の先を、指で軽く払った。
「私、もう、独りで夜を過ごすのが怖かった頃の私じゃありません。それに――ほら」
彼女は、自分の手の甲を、こちらに向けた。ミオのチョークの印は、とうに消えている。それでも、そこに何が描かれていたかを、俺たちは二人とも、覚えていた。
「印の先には、いつでも、みんながいます。……壁一枚、棟一つくらい、離れたうちに入りません」
「……ああ。そうだな」
「では、また明日。教室で。――弟くん」
悪戯っぽくそう言い残して、ユキは、西棟への道を歩いていった。その背筋は、まっすぐに伸びていた。強くなったな、と思う。たぶん、俺よりずっと。
雪の夜道で震えていた、あの日の彼女を知っているからこそ、その背中は、少し、眩しかった。
東棟の、二階の角部屋が、俺の部屋だった。
二人部屋だが、同室者の欄は空白で、寮監いわく「後から来る編入生が入る予定だ」とのことだった。しばらくは、一人ということらしい。正直、助かった。寝言で本名でも口走ったら、洒落にならない。
荷解きは、すぐに終わった。着替えと教本と、僅かな私物。旅暮らしの荷物の少なさが、こういうときだけは役に立つ。空っぽの、もう一つの寝台と机が、部屋の半分で、静かに主を待っていた。編入生。それが来る日には、この部屋での独り言も、寝相も、全部を「サヌス」として整えなければならない。
窓の外に、夕暮れの学院が広がっていた。
講堂の屋根。連なる校舎。寮の窓々に、ぽつり、ぽつりと灯りがともり始める。どの窓の中にも、今日から始まる新しい生活に胸を膨らませた、新入生たちがいるのだろう。その奥に――ひときわ古い、石造りの塔屋が、夕日を背に黒く聳えていた。
禁書区画。
ヴォルフの言った「夜な夜な灯りがともる」場所。俺たちの探し物が眠り、それを守る「何か」も棲むという場所。ここからは、窓の一つ一つまでは見えない。だが、方角だけは、しっかりと頭に刻んだ。この角部屋からなら、夜、あの塔屋に灯りがともれば――気づける、はずだ。
卓の上には、あの日、ガイアが図書委員の名義で貸し出してくれた『属性魔法の成り立ち』が置いてある。
読みかけの頁を開いた。属性とは、世界の理の欠片を映す鏡である――古めかしい文体だが、書いてあることは、驚くほど真っ当だった。少なくともこの本は、罠でも謎かけでもなく、ただの良書に見えた。それが逆に、あの生徒の得体の知れなさを、際立たせてもいたが。
消灯の鐘が鳴り、寮の廊下から、足音が絶えた。
寝台に入り、目を閉じる。長い一日だった。明日から、授業が始まる。九割の日常と、一割の探索。サナの言葉を胸の中で復唱しながら、俺は、微睡みに落ちかけて――
ふと、気づいた。
かち、かち、かち。
耳元で、秒を刻む音がする。枕元に置いた、レムじいさんの懐中時計だ。四十年物の、正確な鼓動。聞き慣れた、安心する音。旅の間、この音は、ずっと俺たちの夜の傍らにあった。
――かち、かち。
……かち、
……。
微睡みの底で、何かが、引っかかった。
音が、二つ、ある。
じいさんの時計の音の、すぐ裏側に。ほんの僅かにずれて、もう一つ、別の秒針の音が、重なって聞こえていた。二つの鼓動は、少しずつ、少しずつ、ずれ幅を広げて――やがてまた、ぴたりと重なる。まるで、二つ目の音が、じいさんの時計に、歩調を合わせようとしているかのように。
跳ね起きて、灯りをつけた。
懐中時計を耳に当てる。一つ。壁に耳を当てる。聞こえない。窓辺、扉、床板、空っぽの同室者の机。部屋のどこを探しても、二つ目の音の出所は、見つからなかった。
そして、探し回るうちに――音は、ふつりと、消えた。
部屋には、じいさんの時計の音だけが、規則正しく、残っていた。
俺は、灯りを消せないまま、寝台の縁に、しばらく座り込んでいた。
この部屋に、時計は、一つしかないはずだった。
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